モーツァルトは一人じゃない?!元祖チームビジネスモデル
この記事について本日はミュージックビジネスなお話。
昨今は音大や専門学校でもミュージックビジネスやマーケティングの授業が開始されています。
大手レーベル等の組織ではなく、音楽家個人がしっかりとビジネスを意識しなければいけない時代になりました。
そんな本日はモーツァルトのビジネスモデルを考察していきますので、みなさんのミュージックビジネスに生かしてみてはいかがでしょうか。
チームモーツァルト!?仮説を立てる5つの要因
一般的にモーツァルトの人生には謎と不思議が蔓延しています。
例えば、わずか35年間という短い生涯で作曲した楽曲数。
当記事の最終項目に楽曲一覧をリンクしていますので、是非一度目を通してみてください。
これらの楽曲はすべてを写譜するだけでも
モーツァルトの生きた35年間を
余裕で超える時間がかかると言われています。
これは少なくとも一人で書いた楽譜ではないということです。
では、モーツァルトが
最高のビジネスチームであると推測できる理由を考察してみましょう。
レオポルト・モーツァルトはプロモーター
さて、Wikipediaでも父レオポルトは
教育者・プロモーターと紹介されています。
ポイントレオポルトの父方は代々石工職人、母方は代々織師でした。
モーツァルトの晩年のフリーメイソンへの入会は
ここから始まっていたと思いきや
父レオポルトは1785年に
息子モーツァルトの勧めでフリーメイソンに入会したそうです。
元々、ヴァイオリニストでもあった父レオポルトは
そもそも音楽評論家としての活動もしていましたし
プロモーターとしての能力に長けていたと考えられます。
そこに現れたのが息子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
確かにヴォルフガングは天才的だったと思います。
しかし、その天才を世の中に広めたプロモーターがいなければ成立していないのは事実です。
まずは少なくとも父レオポルトとヴォルフガングのチームであったことは間違いない事実と言えます。
数々の演奏会や旅行に関しての手配
ヴォルフガングはかなりの期間移動する人生でした。
幼いころからヨーロッパを移動し
音楽教育のほとんどを移動しながら受けたと言われています。
父方は代々石工職人というレオポルト。
1785年にヴォルフガングの勧めでフリーメイソンに入会とありますが
おそらくかなり初期の段階からフリーメイソンの関係者と精通していたのではないでしょうか?
フリーメイソン入会の最大の利点は「旅」にあります。
日本の宗教もそうですが、教会がなんのためにあるのか?
と言われると、旅の安全を守るために当時は存在していました。
エアビもなければブッキングドットコムもない時代。
旅先の治安状況などもなにもわかりません。
そんな状況で安全な宿を確保することができるのが宗教の繋がりと教会
フリーメイソンでいうところのロッジです。
世界の宗教で名称が違いますので、音楽を学ぶのであれば宗教について深く知っておくと西洋音楽史を理解しやすくなります。
例えばユダヤ教であればシナゴークと呼ばれる場所になります。
旅の手配やサポートはおそらくプロデューサーであるレオポルトとは別の人物が関わっていたと推測できないでしょうか。
現代でも、コンサートやライブのギグというのはミュージシャンが行う仕事の全体のうち、6割~7割ほどの労力を使います。
ましてや旅先での公演なんていうのは現代であっても
現地の知人、友人の伝手がなければかなりしんどい公演になってきます。
レオポルトの経歴を見ても、ヴォルフガングと共に旅に出かける以前はザルツブルクに仕事を持ち、どっしりと定住しています。
ヴォルフガングが誕生したからといって突然フランスやイタリア、イギリスを回り、現地で演奏会を企画するだけの人脈ができたとは思えません。
楽曲の管理と整理
冒頭でも書いていますが、ヴォルフガングの楽曲はそのすべてを写譜(同じように書き写す作業)するだけでも彼の生きた35年間では終わらない量であると言われています。
ヴォルフガングの場合は旅先や演奏会での即興演奏が多く残されています。
例えば有名なトルコ行進曲を三楽章に抱えるSonata No11の1楽章などはテーマを元にした変奏曲となっていますが
これらも机に向かって作曲したとは思えません。
基本的な西洋音楽の理論に沿ったシンプルな変奏曲ですが
このシンプルな音楽理論の羅列をわざわざオタマジャクシにするのだろうか?
と、アドリブが主体だった元ジャズピアニストの筆者は考えます。
おそらく記譜係がついており
彼の演奏した作品をそのまま楽譜に起こして残していたと考えると合点が行く場面が非常に多いのです。
Sonata No11 の現在最も有力な説は
1783年頃ウィーンあるいはザルツブルクで作曲されたとするものであります
さて、ここで後の世で筆跡鑑定された直筆譜にも疑問を持ってみたい。
本作品の自筆譜と呼ばれるものは
第3楽章の第97小節以降が記された最後のページだけが現存し
それ以外は消失したと考えられていました。
しかし2014年に、ハンガリー・ブダペストの国立セーチェーニ図書館にて
同図書館音楽部門主任のミクシ・バラージュが
第1楽章の第3変奏冒頭から第2楽章のトリオ第10小節までが記された4ページの手稿譜を発見しています。
紙の透かし模様や筆跡などが
ザルツブルクに保管されている既知の自筆譜と一致しており
鑑定の結果、ヴォルフガングの真筆であると認められました。
さて、ここでかなり大胆な仮説を立てますが
そもそも彼は楽譜を自分で書いていたのでしょうか?
処女作と言われるメヌエット。
これは5歳の頃にヴォルフガングが作曲したと伝えられていますが、、、
作曲はできるでしょう。。。
しかし、一体誰が記録したのか?
この当時ですからまだ父のレオポルトである可能性は高いです。
生まれつき楽器が演奏できる能力があり
音程を異常なまでに正確に捉える能力
異常なまでの記憶力など常人では考えられない能力を発揮したとしても
この世で人間が作ったルールの上で成り立つ記譜という作業は生まれつきできるものではありません。
もちろん成長に伴いスケッチ程度の記譜はしていたとは思いますが
即興でどんどん産み出されてくる彼の音楽を
彼がイチイチオタマジャクシにしていたとはどうしても思えないわけです。
ジャズの世界でいうところの
自分のアドリブフレーズを楽譜に起こして出版するようなもの。。。
そんなジャズミュージシャンは過去まだ存在していません。
「○○のアドリブフレーズ完全コピー」を出版するのは本人ではありません。
鑑定された筆跡の元データがそもそもチームモーツァルトの記譜係のモノである可能性も無きにしも非ず・・・ではないでしょうか。
即興と言えばショパンも有名ですが、彼の場合はサロンなどで披露された即興フレーズを弟子が記録しています。
ちろん出版はされていませんが、クラシック音楽において、コンサートや演奏会に弟子または、それに準ずる側近がいて、演奏内容をメモしたり、記録する係がいるというのはわりと一般的であったと考えられます。
墜落したヴォルフガング
1787年に父レオポルトが亡くなります。
おそらくこの時にチームバランスがかなり崩れたのではないでしょうか。
司令塔となるプロデューサー(レオポルト)の死。
そこからモーツァルトは三大交響曲やオペラを作曲していますが
借金がかさみ、生活はどんどん苦しくなっていったと言われています。
演奏する以外には何もしてこなかった?
そんな様子をうかがうことができます。
事実、これまで驚異的なスピードで作曲、リリースしてきたモーツァルトですが、死の直前に依頼されて制作していたと言われる魔笛などは
完成までにかなり時間がかかっており、何度も何度も催促されていたとも伝えられています。
これは記譜係とのトラブルか連絡ミスなど様々な要因が考えられますが、ヴォルフガングが自分で楽譜を制作していなかったと仮定すると、プロデューサーの死後、納期が突然遅くなったことの合点がいきます。
三大交響曲はプロデューサーの死後一年でリリースしていることを考えるとすでに楽譜などもすべて完成していた?
とも考えられないでしょうか。
モーツァルトフォーム
これはもちろんモーツァルトだけに限らず
他の作曲家にも言えることですが
作曲家ごとに特色を表すフレーズ
俗に言う謳い文句のようなものがあります。
筆者主観ですが、モーツァルトは特にその謳い文句が色濃い作曲家ではないかと思います。
変奏曲スタイルが得意な作曲家は特に謳い文句は隠せません。
モーツァルトの場合も、膨大なフレージングライブラリーの中から切り貼りして作ったように感じる曲、また、流れを断ち切るように現れる不自然な場面転換などライブラリーからの切り貼りがあったことを匂わせる瞬間を感じることがあります。
プログラミングは複数でする
それもそのはず。
音楽制作とはつまるところ現代で言うプログラミングです。
プログラミングも個々のセクターに分かれ、チームで一つのプログラムを完成させていきます。
一人のプログラマーが最初から最後まで完成させるケースももちろんありますが、大手企業のアプリや、システムなどはセクションごとに分かれてプログラムしていきます。
特にデバッグ作業などはセクターやセクションでチェックしていくのが常識です。
それは音楽も絵画も同じこと。
アンディ・ウォーホルのビジネスモデル
有名どころで言えば、アメリカのポップカルチャーの王:アンディ・ウォーホルを例にするとわかりやすいかもしれません。
彼の作品は事務所一丸となって
チームアンディ・ウォーホルとして機能していたことで有名です。
総合プロデューサーとしてはアンディ・ウォーホルが総合監督として君臨していましたが、個々の制作過程においては、かなり細かくカテゴライズし、チームで流れ作業的に組んでいたと言われています。
モーツァルトの楽曲も、複数人がフレーズの切り貼りで作って最後に彼のサインを入れた・・・という作曲スタイルでも何ら不思議ではなくむしろこっちの方が自然に感じるのは筆者だけでしょうか。
コピペな楽曲
典型的な例でいうとピアノソナタ ヘ長調 K547a
このソナタなどは、堂々とコピペなんです。
1楽章は「ヴァイオリンソナタ第2楽章K. 547のソロピアノによるコピペ」となっていますし、2楽章はピアノソナタ16番の3楽章をヘ長調に転調しただけの作品。
ポイントちなみに一般的にはK547aは「疑作・偽作」として認識されていますが、こういった単語で分類されるということ自体が、古典音楽の研究者が20世紀のアート制作シーンにおいての主流テクニックに関して無知であることを物語っているのではないでしょうか。
20世紀のアートシーンにおいて重要なのは「誰が作ったか?」ではなく、「どのブランドが作ったか?」が最も重要です。
ジョルジオ・アルマーニが一着一着裁断していたわけがありませんよね。
このように、当たり前のように過去の楽曲をライブラリーして繋ぎ合わせて新しい曲として機能させていたりします。
この作業は当然モーツァルト本人がやらなくてもいい作業ですし、そもそも音楽家である必要すらなく、最悪楽典をちょっとかじった程度のバイトを雇ってできる作業内容です。
この説で考えると、写譜するだけでも彼の生きた年月を超える時間がかかってしまうほどの膨大な楽曲を産み出した物理的理由も納得がいきます。
当記事ではアンディ・ウォーホルを顕著な例として挙げていますが、20世紀のアートシーンにおいては特別珍しいことではありません。
18世紀のオーストリアでこの超合理的アート制作システムで制作していたとすると(一部の楽曲であっても)かなり先進的なエンターテインメントビジネスモデルであったと言えます。
おそらくモーツァルトが旅をしている馬車の中でも、夜中酒を飲んでバカ騒ぎしている最中にも、事務所では着々とモーツァルトブランドの作品が組みあがっていったものだと考えられます。
まさに18世紀に先進的なビジネスモデルを先取りした先制作システムであったのではないでしょうか。
パトロンか貧困かの二択
当時の音楽家と言えば、貴族に雇われるパトロン形態での生活か
そうでなければ基本的に貧困生活を送るしかなかった時代でした。
パトロン形態の代表例はやはりエステルハージ家に30年以上も尽くしてきたハイドンでしょうか。
ハイドンクラスまでどっぷりと貴族のサポートを得られればほぼ貴族同様の暮らしが待っています。
その次が貴族お抱えの楽団に入ること。
その次が貴族または、貴族関連の音楽教師でした。
このいずれかのポジションを確保しなければもれなく貧乏音楽教師生活が待っています。
モーツァルトももちろん貴族関連の業界に出入りはしていましたが
例えばサリエリとの付き合い方見ると決して貴族と密接にかかわっていたとは言えないと思います。
モーツァルトはこんな名言も残しています。
上記三つのリストのどのポジションも抑えていなかったモーツァルトがこれほどまでに成功し
後世に名と名曲を残せたのは現代にも通ずる名プロデューサー:レオポルトの存在と
彼を支えたチームモーツァルトの存在があったのではないでしょうか。
信じるか信じないかはあなた次第。
結局チームモーツァルトは何曲作ったのか?
ちなみに一説によるとざっくり数えてもモーツァルトの生涯で残した楽曲は約600曲以上と言われています。
ベートーヴェンは約400曲
ハイドンは約600曲
シューベルトは約1000曲
バッハは約1000曲
とも言われています。
こうやってみると少ないようにも見えますか?
ではこのように見てみるといかがでしょうか?
ベートーヴェン(56歳没)
ハイドン(77歳没)
シューベルト(31歳没)
バッハ(65歳没)
モーツァルト (35歳没)
生きた年数が違い過ぎますよね。
シューベルトが極端に多いのは、交響曲やピアノソナタなどの長編が少なく、短編歌曲等が多いためだと思います。
モーツァルトは天才・・・
この楽曲数は実はこの天才になる方法と繋がっています。
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