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短編 明日のオナニー
精液の溜まったティッシュを重ね丸めて団子にすると、枕元のスマホを持ち直してその画面をもう一度眺めた。停止された動画に映し出された女の顔を見ても不愉快な罪悪感は芽生えてこない。性器を入念に拭いて下着を履くと、動画サイトのリンクをコピーして「マイセックス」を開いた。
5月10日のオナニー報告 「黒髪美女の彼女と対面騎乗位イチャラブセックス」
リンクを貼り付け投稿するとスマホの充電を確認して目を閉じた。今夜はじっくり眠れる。心も身体もきれいだ。
マイセックスが配信されたのは多分4年か5年前で、私は3年前にその存在を知って以来毎日報告をしている。よくよく考えてみれば、それまでこうしたアプリが無かったということが不思議なくらいだった。ほぼ毎日行うオナニーの内容はもちろんその存在自体さえ、マイセが出る少し前までは公に語ることなど滅多になかった。どうやらマイセの配信以前からオナニーに対する社会的な評価や風潮と言ったものは次第に変化し始めていたのだが、配信以降その傾向が一段と強まったそうである。現在でも時と場合によってはオナニーの話が避けられることもあるが、それでも例えば10年前と比較するとその差は歴然である。いずれにせよ、マイセにおいてはオナニーの話はいつでも歓迎だ。
単純に話題の多寡という問題ではない。この社会には異常な性癖を隠し持ち、いずれは彼ら好みの犯罪を犯そうという奴らがたくさんいるのだ。結婚もせずに、また周囲に見せられるような恋人のいない人間は、少し油断するとそうした異常者たちの一員だと疑いをかけられかねない。
もちろん、大前提として結婚や異性との交際が最も好ましい性のあり方であることは明白である。しかし、そうした最善の道を現在歩んでいない人たち、私のような人にとっても、自身の正常さや性を帯びた者としての正当性を証明できる場があるということは当然なのであった。そうした私たちにとって一人で行うオナニーは自らの正常性を再確認し周囲に立証する行為であり、またその疑いなく明らかにされた正常性を根拠に最善の道を歩む準備が出来ていることをも証明する最良の手段なのである。
そうした証明の必要性を抱えているということは、私が不幸であることの確かな証拠だろうが、せめてその手段が用意されているということは幸福である。マイセが無かったら友人たちの名前や顔、声を思い出すことすら苦痛で堪らなかっただろう。
30代の半ばに突入した高校や大学の友人たちは既に結婚ラッシュも落ち着いて、ツイッターやフェイスブックを覗くと彼らが一人また一人と子供を授かり育てていく様子が伝わってきた。どうやら未婚らしい友人も、彼らのツイッターをじっくり見てみると実際には孤独ではないということがよく分かる。男一人や男同士では行かないであろうイベントへの参加やレストランでの食事を報告し、結婚適齢期だと言うのに遊び楽しみ続ける男特有の香りを発していた。
そうした色気の充実を全く感じさせない友人のアカウントもあったが、彼らがどういう会社で働いているか、前に参加した同期との飲み会で聞かされたことがある。“前に”、とは言っても既に6年も7年も昔のことで私たち大学の同期連中がまだ20代だった頃、仕事が忙しく飲み会に出席できなかった長瀬が「有名外資企業に勤めるエリート社員」として噂になった。しかし、そんな噂はエリート同士でするから面白く感じられるのだ。飲み会の出席者全員が、大手有名企業にて今や中堅社員として働いていた。私たちが出た大学は決してレベルの低いところではない。世間的に見て“自分たちがエリート層に充分位置している”ということを実はしっかり自覚していたのである。もちろん、私以外の全員が、である。
私は当時もエブリィでフリーターとして働いていた。支店が公開する、人員に空きのある案件の内から選んで応募し選考結果を待つ。受かった場合、前日夜に送信される労働条件通知メールに記載された通りに当日集合場所に集まり現場に向かう。その日の仕事が終わると支店に終了報告メールを送信し、今後の募集案件を見てまた応募する。その繰り返しである。
給料は他のバイト一般と比較して特別少ないわけでは無いが、案件自体が少なく働ける現場がない、ということもしょっちゅうである。もちろんボーナスも年休も福利厚生も何にもないし、交通費の支給もほぼ毎回実費と比べて足が出る。“ボーナスが無い”と言ったが同僚の内の何人かは確定申告後の還付金を“ボーナス”と呼んでいる。
そんな給料事情でも、当時は実家に住んでいたからなんとかなっていた。それでも30になるという時に一念発起して入社した中小企業を僅か半年で退職し、再び日雇い労働を続けて暮らしていくつもりだと親に伝えた頃には、もう限界なのだと親も私も分かっていた。その翌々月から私は安アパートでの一人暮らしを始め、今までは敬遠していた夜勤にも入るようになった。大学を卒業し新入社員として入社した会社は1年少しで退職してしまった。仕事を続けることが出来なかった自身の不甲斐なさに傷ついて、会社員としての生活にも恐れを抱き、25で日雇い生活を始めた頃にはもう再び起き上がることなど出来ないと諦めていた。実際のところ、会社員の頃と比べて日雇いとしての生活にはある種居心地の良さがある。それでも30歳になるとき、もう一度やり直そうと思ったのだ。最初は1年間、そして30になり一念発起したはずの今、6ヶ月間である。就職が決まったと報告した際には笑顔で喜びそして応援してくれたエブリィの田澤さんに電話を入れて、私の30代が始まった。
安い家賃とは言え、またどれだけ節約を心掛けても週の何日かは日勤と夜勤の両方に入らないと生活は成り立たない。深夜、イベント会場でかご台車を延々と引き続けながら学生時代の友人について考えていた。彼らはきっともう寝ているか、あるいは今日は土曜日だった気がするから飲み会にでも行っているかもしれない。その翌朝、睡眠不足で頭が回らないまま再びかご台車を延々と引きながら、彼らのことをまた考えていることに気付いた。「彼らが期待されているであろう仕事と違って俺の仕事は単純な肉体作業だから寝不足でもなんとかなるなあ」と笑った。
夕方家に帰る途中スーパーで買った3割引の弁当をレンジで温めながら自分の部屋を眺めた。“家”とは名ばかりのもので、その狭い空間の床面はすっかりゴミに覆い尽くされ見えなくなっていた。比較的ゴミの散乱が少ない所が布団のひいてある場所で、弁当が温まり次第そこで夕食を済ませることになる。彼らはどんな夕食を普段取っているのだろう。家にはきっと誰かがいて「ただいま」と言うんだろう。それこそ本物の“家”なのだろうし、そこには本物のベッドがあるのだろう。
ゴミの表面が平らな形状に溜まった箇所を布団わきに見つけると、不均等に温まった弁当をそこに置いた。においを嗅いでも食欲は遂に湧かない、傍らのスマホを取り上げて彼らのツイッターを確認することにした。
同期たちとは30代になってから一度だけ会ったことがある。会社員としての生活を再び諦めて、日雇いの仕事現場を妙に懐かしく居心地の良いものに感じ、そして汚らしく湿ったこの部屋で一人暮らしを始めた頃だった。彼らと会うのは凡そ3年ぶりで、前回27か28で会った時には皆仕事の話をしていてその際に例の“エリート社員”の話が出て私は居心地の悪さを感じていたのだ。だが、この最後の会合ではむしろ結婚や恋愛が話題の中心であった。飲み会に参加したのは私を含め6人みな男で、その内3人が既婚者、他の2人には交際している女性がいた。その2人の内1人は結婚を考えており相手方の女性とも真面目な話し合いをしているそうだが、もう1人の方はそうした話をまだ相手方としていないらしい。
「でもお前、もう4年目なんだろ。さすがにそれは男の方からしてやんないと駄目なんじゃねえか?」20代後半に結婚し今は2児の父となった貴志が言った。語調はいくらか強かったが、長年付き合っている友人だからこそ見せられる、親身な気遣いの言葉であることが分かった。
言われた拓海はこれに「今度何となく話を切り出して様子を見てみる」という頼りない返しをして、彼の話題は次第に落ち着き収束した。その後に誰が言い出したのかは覚えていない。きっと参加者の中で一人だけ結婚も交際もしていないから目立ってしまったのだろう、“私が何故恋人も作らないのか”という話題に気付くとなっていた。「会社員でもないから」と仕事を言い訳にすることはしたくなかった、というより出来なかった。日雇いの仕事に関する愚痴や自虐、その他のあらゆる言い訳について彼らはもうとっくに聞き飽きていたし、そうした言い訳を再び繰り返したところで惨めさを突き付けられるだけなのだと私自身よく分かっていた。
「あんま俺はそういうの興味ないのかもしれない」よく考えもせずにこんな嘘を言ってしまった。あっという間に質問攻めが始まって、彼らは目を輝かせて身を乗り出した。
「性欲が無いっていう事か?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど、、、」
「じゃあ、別に女性が好きではないとか?あるいは生身の女性が嫌だとか」「いや、普通に好きなんだけどね、、、」
眉を顰める彼らの目線に縛られ次第に身動きが取れなくなっていくように感じながら、拙い言い訳を必死に繰り出していた。一瞬だけ間が空いた後、貴志の笑った声が一回り大きく響いた。
「もしかしてお前童貞か?」他の奴らも皆声を揃えて笑った。
「あ、でも風俗はノーカンだからな!」笑い声に混ざって誰かが付け加える。
愛想笑いを続けて、胸元に渦巻く恐怖心や惨めさが外に漏れ出ないことだけを祈った。
「もしかして、ヤバい性癖持ってんじゃねえのか!?」俯いた頭上に、今までよりも嘲りの色を隠そうとしない声が降りかかった。
「お前、無敵の人なんだからってヤバい性犯罪とか起こすんじゃねえぞ!」
その日一番の盛り上がりが起こって、皆拍手をして笑った。私はその時やっと、彼らが私に向けていた目線を理解したのだった。きっとその時気付くまでの間もずっと、私は異常者として裏で笑われ噂されてきたのだ。定職に就いていないということだけだったなら、きっとそこまでの嘲笑は起こらなかったかもしれない。例えば日雇いのままだったとしても趣味か何かで知り合った恋人がいたとしたら、または恋人がいないにしても夜のクラブやバーでナンパを繰り返し9割5分の確立で失敗するにしてもタマの奇跡でホテルに持ち帰ったなどのエピソードを皆に話すことが出来ていたら。きっと“ヤバい性癖を隠し持った異常者”とまでは皆に言われていなかっただろう。いずれにせよ同期内で私は既に、“得体のしれない気色の悪い変質者”へと変わってしまっていたのだ。その飲み会以来彼らとは会っていない、もう3年と少し前のことだ。
飲み会の翌日、人の性癖というものについて初めてしっかりとネットで調べてみた時に感じた怒りや恐怖を今でもよく覚えている。予想だにしなかったような、考えることさえ恐ろしく不愉快な性癖がこんなに数多くあることを、私はそれまで全く知らなかったのだ。そして、そうした性癖の数の何百倍何万倍もの数の異常者がその欲望を隠し持って生きているという事実に吐き気を催した。奴らは異常者であり、またそれ以上に犯罪者である。奴らの犯した犯罪、未成年へのレイプや女子トイレに隠されたカメラ、入試当日の朝に受験生を狙う電車痴漢魔などなど、数え切れない種類の悪行についてのニュース記事を読み込んだ。これでは、彼らが私を変質者として嘲笑したのも不思議ではない。あれは嘲りの様でいて、実は警戒だったのだ。こんなにも恐ろしい男たちが世の中には無数にいる。私のような人間に対してその一人ではないかと周囲の人間が疑い警戒するのは自然なことであるし、むしろ当然の義務と考えるべきことであった。
ネット上にも同様の警戒をする人たちが多くいることが分かった。どういう人間が異常な性癖を持った犯罪者なのかその判別方法や暴き方についてまで、あらゆることが書かれていた。あるサイトによると、そうした異常者は結婚や異性との真面目な交際が決して出来ない。彼ら自身がそれを望んでも出来ないし、そもそも奴らは結婚や恋愛などを本心では決して望んだりしないらしい。彼らのいびつな欲望はそうした普通の方法では絶対に満たされることが無いからであり、彼らは代わりにオナニーを繰り返してその化け物のような欲望に餌を与える。彼らにとって幸いなことにネット上には他の犯罪者たちの残した汚らわしい画像や動画が無数にあるらしい。そこでネット上に散らばり隠されたそれらを血眼で探し求めオナニーを繰り返すが、それでも彼らは決して自らの欲望を満たすことは出来ないのだ。ここも正常な性欲を持つ者たちとの大きな違いの一つだろう。奴らは決してオナニーでは満足できないし、普通のセックスや結婚には欲情すらしない。結局奴らは最初から犯罪者なのである。実行に移すのがいつなのか、それは周囲の人間には分からないし奴ら自身でさえも分かっていないのかもしれない。性癖がいつもより少し強くザワついた時、周囲の監視の目がふと緩んだと感じた時、彼らは嬉々としてその欲望を曝け出して犯罪をする。
夢中になりながら奴らの生態に関するサイトを読んでいた時、「マイセックス」を初めて見つけた。それは日々のオナニー内容について報告する投稿をしたり、他の投稿に「イイね」をして拡散することが出来るアプリだった。性癖異常者たちの生態や犯罪について調べる前だったら何故このようなアプリが存在しているのか、それどころか人気であるのかについて理解が出来なかったのではないかと今になって思う。しかし当時の私は、日々閲覧しオナニーをする際に用いた動画サイトや作品を何故これだけ多くの人が世の中に公開したいのか、する必要があるのかについてようやく理解することが出来るようになっていた。
以来3年間ほぼ毎日アプリを更新して私は自分の性癖や性欲一般が正常そのものであることを世の中に証明し続けている。私は平均で週に2回ほどオナニーを行い、その際にはアダルト動画サイトを利用する。有料のそれではないが違法にアップロードされたものでもないそれらの動画は所謂“素人”ではなくプロのAV女優が出演するものであり、その内容も暴力性や変態的な要素を含まないものに限定して視聴する。新婚夫婦や成人済みのカップルたちが双方に愛情を示し合うような作品を主に視聴し、それ以外のテーマの作品は滅多に見ないしオナニーに用いることもない。
アプリを使い始めた当初はその他のジャンルの作品や動画も見ていたのは事実であり、私がそれを隠そうともしていないのはアカウント作成初期の投稿からも明らかである。しかしそれらの作品も決して暴力性や変態性に充ちたものであるとは言えないものであり、私の性的な正常性を疑わせるようなものでは決してないのである。それに何よりも、私はアプリを始めて以来段々とそうした他ジャンルの作品の視聴を減らしていき、現在はもっぱら新婚夫婦か成人済みカップルのイチャラブセックスものでしかオナニーをしないようになってきているのだ。
このような変化は決して不自然ではない。これはつまり私が性的により成長し安定したということを示すものであり、私がいつでも結婚や交際に踏み出す準備が出来ているということを示すものである。実際のところ世の中には、妻子や恋人がいながらも性的に未熟あるいは欠陥を抱えているがために不倫や家庭内暴力、その他の犯罪行為をする者が多くいるのだ。性的に異常な彼らが結婚等を本心では望まないとしても、様々な事情で妻帯者となってしまうことがある。そしてそうした結婚等によって彼らの犯罪者としての本性が変わる訳では無いのでいずれは妻や自らの子供たちを傷付けるのだ。
私はそうした男の一員ではない。結婚をしたり恋人が出来たらそれを本来のやり方で遂行することが出来るのであり、それこそが性的な成熟というものなのだ。
冷めた炒飯弁当の油っぽい米を缶ビールで流し込み弁当容器と缶を布団わきに押しのけると、再びスマホを取り上げマイセを開いた。マイページを確認すると直近のオナニーは4日前、今日くらいにしておくのが丁度良いだろう。前回のオナニー報告時に貼り付けておいたリンクを開いて布団に横たわり、下腹部辺りにティッシュを10枚敷き詰めた。
品川駅近くでの現場が終わると同僚たちとラーメンを食べに行くことになった。4人掛けのテーブル席に案内され注文を終えると立川が再び大きな声で話し始める。
「今日の物量で6人は少な過ぎるわ。流石にしんどいでしょ、ちょっとこれは安田さんに言っとくわ」
私と片岡が同調して頷く。立川は私がよく入るヨコテンのレギュラーの中でも一番大柄でかつ横暴な男であり、つまり大多数の社員よりも現場では偉い存在だった。
「普段はもっと人数多めに発注してるんですか?」
私の隣の男がいきなり立川にそう質問した。たしか「平山」とヘルメットの後ろに書かれていたこの男は今回初めて見かけたが、大したミスもなく手際よくその日の仕事をこなすと立川に誘われるままにラーメン屋について来ていた。質問に対して立川が相変わらず大声で普段の現場も今日のと比べて決して楽ではないこと、特に今日のように人数が少ない時はまるで地獄であることなどについて長々と語り続けていた時にようやく店員がラーメンを持ってきた。先に片岡と平山の分のラーメンが渡されその後まもなく私と立川の分がテーブルに置かれた途端、立川が「いや、違うだろ」と苛立って呟き私を見た。
「それも卵付きの大盛りだよな。俺チャーシューの大盛り頼んだのにこれも卵のやつだよな?」
「ああ、、、そうっすね、、、それは多分チャーシューじゃないすね」手を止め慎重に答えた。
「多分、じゃねえよ。絶対チャーシューじゃねえだろ」まじでクソだな、と舌打ちをして後ろを向くと、立川は店員を大声で呼びつけた。
ベトナム人だろうか、男性にしては小柄なその店員は立川が文句を攻撃的に言い続ける間しきりに頭を下げて「すいません」と拙い発音で繰り返した。結局「チャーシュートッピングのじゃなく卵トッピングの大盛りラーメン分しか払わないからな」と立川が宣言し、追い払うように店員を厨房に返すことでやっと私たちは箸を持ち直して食べ始めることになった。
「これだから店員が外人なの嫌なんだよ。日本語分かんねえから何言っても出来ないんだよ」2,3口食べた頃、立川が再び大声を出した。
店を出て駅に向かって歩きながら再び立川が店員への文句を言い始めた。「会計の時も“すいません”とか一応言ってたけど謝って済むようなことじゃないからね、ちょっと久しぶりにムカついたわ。お前らと一緒じゃなかったら俺やっちゃってたかもしれないからね」
どこか自慢気に語るその言葉に私と片岡は愛想笑いをしたり、立川と同じく憤ったりしている風に答えながら駅の改札を目指した。平山が見当たらず辺りを軽く見廻すと、私たちの後ろを2,3歩遅れて付いてきていた。ラーメンがテーブルに運ばれて以降最低限の相槌しか打たなくなったこの男は店を出てからも黙ったままで、立川と一緒にいる時のルールとでも言うべきものをどうやら知らないようだった。
改札を抜けた所で立川と片岡と別れた私は、方向が同じだと言う平山と一緒にプラットフォームに降りた。横浜方面への京浜東北線を待つ間、さっきまでとは打って変わって彼がしきりに話しかけてきた。
「ヨコテンにはよく入るのか」「他にはどういう現場によく入るのか」「この仕事は続けて結構経つのか」
相次ぐ質問に答えながらも自分の話をする気にはあまりならず彼に同じ話題を振ってはそれに対する答えに興味がある振りをしていると、到着した電車に乗り込む頃にはこの平山という男について20代後半のフリーターでどうやら大学も卒業している、ということが分かった。
「中野さん、俺に敬語使わないでくださいよ。“平山”で呼び捨てか、それか“京也”って呼んで下さいよ。他の現場では割とそう呼ばれてるんで」
ドアの前に2人で立ちながら平山がそう笑った。彼は明るく社交的な印象を与えていたがその笑い声には学生や20代過ぎの男が発するような軽快さは無く、どこか私をじっと見定めているかのような緊張感がある。少し戸惑っているかのように俯きながら「じゃあ京也だな」と笑うと彼は再び口を開いた、今度は笑っていない。
「俺、この仕事まだそんな長くないすけどやっぱ変な人多くないすか?でもちょっと今日の立川さんは酷かったですね。あそこまでレベルの低い人って俺今まで会ったこともないかもしんないです」
「まあ、ヨコテンのレギュラー陣は結構言葉強めの人多いからね」
宥めるように相槌をすると、平山が今度は口元に笑みを浮かべ冷たく刺々しい口調でそれに覆いかぶさった。
「でも、ああいうのがエブリィで働く人の典型なのかもしれないすね。仕事中もそれ以外も話すことと言ったら不満や文句だけで、自分が強く出れる相手に対しては下らないことを見つけて怒鳴ったりする。結局こういう仕事ばっか続けてきて他に出来ることもないから、弱い者イジメをしたり自分に逆らってこない奴を相手に偉そうに文句を言ったりすることでしか満足できないんでしょうね。ある意味可哀想だなあとも思いますけど、ああいう人とは出来るだけ関わりたくないですね。一緒にいるとこういう仕事している自分が情けなくなってくる感じがして」
平山が話し終えたのを見て「まあ、そういう所はあるよなあ」と平然とした口調で答えながら、内心ではざわつきを抑え込もうとしていた。“いまいち同意出来ないな”という顔を意識して装ったのは、私がずっと感じていたことを余りにも的確に代弁されたような気がしたからだと思う。そんな仕事を俺もお前もやっているんだぞ、それにお前は20代も後半でもうそこまで若くは無いのだし、俺なんかはこの仕事を計8年もやっていてもう35だ。私の顔色を窺っているのか、平山は再び笑顔になって続けた。
「でも、中野さんは全然別ですよ。話していてめちゃくちゃ知的だし、エブリィの他の人たちと全然違う感じですよね」そう言われるとつい気持ちよくにやけてしまう。
「もう俺降りますね、横浜線に乗り換えなんで。結構俺ビッグサイトの案件は入ってるんで、是非また現場で会ったら話しましょう!」
電車が再び動き出すとエブリィのアプリを開いて来週の募集案件を確認した。4日後ビッグサイトでシステム撤去の日勤に空きがある。応募のメッセージを送る頃、最寄り駅に着いた。
ビッグサイト西1ホールの搬入口前、集合場所として指定された場所に彼はスマホをじっと見つめて立っていた。他のバイトや社員連中が吸うタバコの煙が気に障っていたのかもしれない、不機嫌そうに顔を顰めていたが私の姿を見つけると途端に朗らかな表情に変わった。平山と会うのは今日で2回目である、少し気恥ずかしいような感じがして他の人に対するのと同じ調子で挨拶をすると、私は近くにいた橋本さんに話しかけて一緒にタバコを吸い始めた。
最初の小休憩時、喫煙所で橋本さんと再び話をした。定時まで掛かるかどうか、互いに意見を言い終えると橋本さんがスマホの画面を私に見せて聞いてきた。
「明後日のこの現場、セイトーですかね?アプリだとどこの現場なのか分からないから、でも毎回支店に電話するのもアレだから」
その日は日曜日、多分セイトーだろう。そんなようなことを言って答えながらも、橋本さんがスマホを取り出し起動した瞬間に映し出された写真を記憶の中で凝視し続けていた。ピンク色の服を着た4歳か5歳くらいの幼い少女、口を大きく開けて楽しそうに笑いながら顔を左にわずかに傾けカメラに向かってピースサインをしている。
「そうかセイトーか。どうしようかなあ、上履き持って行かなきゃですよね」そう単調に話す橋本さんの手に指輪は無いが、いつだったかどこかの現場で話した際に、前の奥さんがどうだったか、とかいう話を聞いたことがある。きっとあの少女は自分の娘なのだろう。
タバコを咥え直しながら隣の男をさり気なく観察した。40代半ばくらいだろうか、人の好さそうな顔をしていて、エブリィで働く人には珍しく口調も穏やかで年下の私に対しても敬語を崩さない。以前彼から聞いた話によるとエブリィの前には旅館の厨房で住み込みで働いたり、港に荷揚げされた果物の仕分けなどをしていたらしい。パチンコが趣味で、それ以外に好きなことがあるのかいまいち分からない。
「そろそろ行きましょうか」基地に戻りながらも考え続けた。
いずれにせよ、彼は正常な人としての生活を以前はしていたのだ。しっかりと結婚をして子供を作り、頼りがいのある模範的な父親として過ごしていたのだろう。それなのに一体なぜ妻子と離れることになったのだろう、休憩が終わり軍手をはめたその左手には最早彼の清潔さを証明するものは無かった。
仕事が落ち着き解散の点呼を待つ頃になってようやく平山と話すタイミングが来て、そのまま2人で駅まで歩き始めた。
「野外でオナニーするの、結構お勧めですよ」大井町に到着し電車を降りる直前、車内で言われたその言葉は、やはり少し唐突で違和感があると思った。
現場が終わってビッグサイトから国際展示場駅に向かう途中、平山は橋本さんの話を始めていた。
「橋本さんとよく現場一緒になるんですか?」曖昧に肯定すると彼は続けた。
「あの人は何か良いですよね。ちゃんと大人っぽいというか、あんま日雇いの感じもしないし。俺は喋ったことないですけどどんな感じの人なんですか?」
「あの人はほんと良い人だよ」
「ちゃんとした人なんですね」
「そうだなあ、最低でも元々結婚していて子供もいるみたいだから。今は多分離婚してるんだけど、ちゃんとしてる人だと思うよ」
「結婚して子どもがいるからってちゃんとしてる訳ではないじゃないすか」平山が笑う。
「そうは言ってもこの仕事就いてる人は変な人多いからね。やっぱりある程度まともな人は結婚してたり元々は結婚してたって人が多いよ」
「でも結婚してても、こうなんて言うかダメな人っているじゃないすか。外面が良かったり女受けが良くても人として終わってる奴とかもいますよね」今度は刺々しく容赦のない口調だ、それでもこうやって正しいことを堂々と言い切る彼にはそれもむしろ似合うくらいで、平山と話すのを心底楽しく感じた。
「それに関しては俺も完全に賛成できるよ。やっぱ異常な奴って一定数いて、その殆どは結婚とかしないし出来ないんだけど一部の奴らはしてしまう。でもやっぱり結婚してる人の大多数はまともな人だと思うよ、そっちのほうが多い」
同調できなくもない、とでも言うように平山は一度低く唸るとそのまま5秒くらいの間、黙り込んでしまった。再び話し始めたその口元にはどこから来たのか薄笑いが浮かんでいる。
「もちろん橋本さんはちゃんとした人ですよ。俺も話したことは無いけど何回か現場一緒になったことあるんで。ていうか変な意味じゃないすけど中野さんがめっちゃ本気でグッと来るからちょっとビビりました」
「いや、俺も性的にやばい奴はちょっと厳しいっていうか、無理なところがあってさ」つられて笑ってしまった。
「性的に、ですか」
国際展示場駅の改札を抜け、プラットフォームに通じるエスカレーターを前後に並んで降りていく。
「中野さんってちなみに今は彼女とかいるんすか?」
「いや、今いないよ。もう中々そういう縁が無くてね」
「俺もですよ、俺も彼女いません。いや、ちょっと気になっちゃって、中野さんカッコいいのになあ」
親しげに身を乗り出し笑いかけてくる平山を視界の隅に留めながら、普段よりゆっくり堂々と聞こえるように意識して、途中で嚙んだりしないように、
「だから一人でやるしかないんだけど、めっちゃ彼女欲しいわ。カップルでイチャイチャする動画とかばっか見ていつもやってる位だから」
「オナニーを、ですか?」平山が眉を上げる。
「そうそう、ほら『マイセックス』あるでしょ、俺あれ毎回付けてるのよ」
平山はマイセを知らなかった。曰くSNS全般にあまり興味がないらしい。川越行きの電車に乗り込みドアの前に並んで立つと、マイセの魅力と必要性について思わず真剣に話してしまった。考えてみるとエブリィで知り合った人とマイセの話をしたのはこれが初めてだった。男しかいない職場だからだろうか、彼らがオナニーに関する話をするのも聞いたことがないし、不自然に見られることを恐れて自分からはこの話題をしないようにしていた。
「でも結構やってて面白いんだよ。他の人の投稿見て、『こんな動画見てオナニーする人もいるんだなあ』とかビックリする時もあるし。あ、でももちろん全部正常な種類の動画とかだけどね、犯罪的なやつではないタイプ」
「それは別に自分のオナニーを他の人に見せるとかって訳ではないんですよね?動画で配信するとか」
「あぁ違う違う。さっき言ったような感じで、自分がオナニーする時に使った動画とかサイトを共有したりするのよ。結局それによってそいつは正常か異常なのか分かるでしょ?」
「正常、ですか」
そう言うと平山は口を堅く結んで、真剣な表情で何か考え事をしているようだった。一体何をいきなり黙り込んでいるんだ、居心地の悪さを感じて話を変えようと思った。「もう大井町だな」と言おうとした瞬間、車内の案内表示を眺めながら彼がこう言った。
「野外でオナニーするの、結構お勧めですよ」
「え、野外?」ヤガイ、という響きで他に思い当たるものを探してみる。「そうです、誰もいない公園とかでやるんですよ」
「まじか。それって犯罪じゃないの?露出ってことだよな?」
電車が大井町に到着し、一斉に降りた乗客たちで混み合うプラットフォームを分け進みながら話し続ける。
「いや、それは誤解ですよ、露出とは違います。誰かに見せる訳では無いし、むしろアクシデント的に見られることも無いよう注意してやるんですから。あくまで“野外で行うオナニー”です」最後の言葉を平山は強調して言った。
「だからもちろん犯罪とかではないですよ」今度は少し笑って、私の顰め面を見ながら言い足した。
エスカレーターを乗り継ぎ地上を目指して昇り続けた。右手に伸びる階段は一番下から上まで空っぽで、ここの真ん中を一人ゆっくり上ったらきっと気分が良いだろう。
「そうか、一応犯罪ではないのか。まあ、人に見られる訳でもないなら、他に人に迷惑はかけていないもんな」
実際のところ私は、平山にどのように答えるべきなのかが分からなかった。彼の言うその野外オナニーはあるべき性的な興奮の方法とは随分と違っているように感じるし、むしろ変態性と認められるような性格があるようにも思うのだが、それは犯罪ではないと言う。たしかに人に見せたり見られたりするようなものではない以上、人に迷惑をかけていないのも事実だ。しかし、何かこうしっくりとこない。そうだ、正常性の感じがしないのだ。異常とまでは言わないにしても、正常らしさが無い。
「でも、その野外でオナニーをするとして、その時は動画か何かをスマホで見たりするのか?つまりこう、何で興奮して出すんだよ」
「これはやってみないと分からないことなんですけどね、そもそも出さなくても充分気持ち良い位ですし。でも一番はやっぱ開放感ですよ。とりあえず一回やってみるのが間違いないすよ」
エスカレーターを昇り切るとJRへの乗換口に向かい、そのまま京浜東北線のプラットフォームに降りる。この道を2人で通ったことは無いはずなのにお互い慣れ親しんだ道だからだろう、歩いている間も話は遮られることなく続いてタイミング良くホームに滑り込んで来た電車に乗った。
「どうですか、やってみる気になりましたか?」
混み合う車内の中で平山が少し声を落として聞く。
「まあ、犯罪ではないですけど人に見つかったりすると面倒になると思うんで、そこだけ気を付けといてもらえれば」
やる、ともやらないとも言わないまま顔を顰めて唸り続ける私を見て、少しおどけた調子で軽やかに言う。
「もしやったら俺に教えてくださいね」
最後にそう言うと、私たちはそれ以降東神奈川に着くまでそれぞれのスマホを眺めて立ち続けた。車内が余りに混雑していて会話をする気にならなかったのもあるが、平山の話した野外オナニー以外の話に話題を転換するのはどこか自分の弱みを見せるか或いは平山に対して失礼であるように思われたし、かと言ってその話題を続ける方法が私には分からなかった。
「またどっかの現場で」とだけ言い合い一人になると、野外オナニーについて早速スマホで調べ始めた。その日家に帰ってから、そして翌日以降も仕事の合間に調べ続けることで、この種のオナニーについて自分なりに整理をすることが出来た。
まず“野外”と言ってもそれは凡そ自室以外の場所を意味するのみであり、オナニーを行う場所として検討・選定されうる候補地は多様だ。
自宅のベランダや公衆トイレ、または自家用車の中などが“初心者”でも手を出しやすい場所としてネット記事で挙げられている他、平山の言っていた公園やビルの非常階段、それ以外にもビーチや山の中など様々な場所が候補地とされうる。そして自室で行うオナニーと違い“どの場所で行うか”ということがそのオナニーの性質を強く決定するようだ。
ネット記事の中には野外オナニーと野外“露出”オナニーとを区別していないものもあったが、平山の言う通りこの両者は性質的に大きく異なる。
何によって興奮しているのか、という点について平山は“開放感”だと言ったが、多くの人は“人に見られること”あるいは“人に見られるかもしれない、という可能性”に興奮しているようである。また本来であればオナニー行為をすることが想定されていない場所でそれを行うという、ルールに対する逸脱が伴う背徳感なども興奮の要素としている場合があるようだ。
これらの複数の興奮要素は同居することが一般的なようであり、その場合に野外オナニーは野外露出オナニーを含む非倫理的な行為に容易に転落してしまう。つまり行為全体の正常性を保証するためには、自らが興奮する要素を正常性の領域に属するものだけに限定する必要があり、その観点で場所選びをすることが不可欠である。適切な場所を選定することだけで正常性を巡る問題が全て解決されるわけでは無いが、取り組みの出発地点であることは間違いがないだろう。
そうした場所選びをする際には、他者やその視線の存在やその可能性がある場所、またそこでオナニーを行うことにより倫理的な逸脱が生じる場所として“野外”を理解し期待してはいけない。
より具体的には、まず“野外”という言葉を、自室内においては感じることのない外的刺激に充ちた場所として、かつそうした刺激の中に他者の視線やその可能性を含まない場所として理解する必要がある。実際、他者の視線やその可能性以外の要素はそこに刺激として含まれていても、そしてそれを興奮要素としてオナニーをしてもそれは他者危害的だとも犯罪的だとも言うことは出来ないだろう。もちろん、何も知らずに周囲を歩く女性たちが発する話し声や足音を彼女らの目線に関する想像を含まずに聞くことが出来るかどうかは怪しいし、そうした想像は性的興奮を助ける刺激として容易に働くだろう。
また、その場所はオナニーによって倫理的な逸脱が生じる場所であってはいけない。仮に倫理的な逸脱を性的刺激として感じない場合でも、そうした逸脱が生じている時点で認めることは出来ないだろう。
しかし実際のところ、そうした逸脱が生じる場所はかなり限定される。最低でも、ここ10年間におけるオナニーに対する評価の変化に応じて格段に減少したと言えるだろう。オナニーは以前信じられていたような非倫理的なものではないと広く知られるようになったのはもちろんのこと、その行為自体は恥ずべきことでもない、と考えられるようになった。ネット記事によると、野外オナニーをする際に多くの人がその場所でオナニーを行うことによる背徳感を経験しかつそれを性的な刺激として楽しんでいるようだが、そうした背徳感のほとんどは実際には感じる必要のないものなのだ。彼らはオナニーに関する過去の否定的な評価を恐らく無意識に借用しそこに依拠することにより、自身の興奮を高めているのだろう。もちろん、非倫理的であると自身で考える行為をすることによる背徳感をもって性的に興奮すること自体、許容出来るものではないだろう。
そうは言ってもオナニーはあくまで性的行為であるからそうした属性を厳しく排除するべきだと考えられている場所、例えば葬式会場でのオナニーには倫理的な問題があるかもしれない。また、オナニーは股間部分を露出しまた射精を伴うことも多いため衛生面での厳密な管理が要請される場所、例えば病院内の特定区域などで行うことも許容されないかもしれない。逆に言えば以上のような例外的な場合は一応考えられるものの、その場所において行われるというのが理由でそのオナニーが倫理的な逸脱行為と一般に認められるような場所は決して多くはないだろう。
つまり、野外でオナニーを行うとしても、倫理的な問題が起こり得るようなごく限られた場所を候補地から除外し、かつ他者に対する露出性という刺激を感じないのであれば、それ自体には何も問題はないと言える。もちろんその可能性に興奮するかどうかとは別に、人に見つからないことや周囲の物を汚さないことなどは最優先事項となるだろう。
また、“野外でオナニーをする”ということには問題が無いとしても、そこで行われるオナニー自体に対しては、それが自室の中で行われる場合と同様に評価の対象となるべきだろう。
ここまで考えて、それでも今一つ腑に落ちない感覚が残る。平山の言う“開放感”とは何なのか。それは野外でオナニーをするが故に感じる刺激と関係があるのだろうが、そこには他者への露出性や、倫理的な逸脱の感覚は全く含まれていないのだろうか。そうだとしたらそれはどのような刺激なのだろう。人里離れた森の中、そよ風が皮膚を撫ぜる感覚やその風に呼応する草木の騒めきなど、いつか小説で読んだ風景を思い返した。もしかしたら、最初に平山から話を聞いた時に感じた不安要素である、正常性が欠如しているかのような頼りない感覚も解決することが出来るかもしれない。
マイセを見ると、記憶通り直近のオナニーは2日前だった。今日はこのまま寝るとしよう。眠気が重みを増していき次第に思考の足取りが鈍くなっていく中、それでも野外オナニーのことを僅かに考え続けていた。いつか実行してみたとして、私はそれをマイセで投稿するだろうか。
初めての野外オナニーは家の近所の公園でやった。その日入った浜松町近くのヨコテンの現場は普段より階段上げの物量が多く、6月の初頭としては気温の高かったこともあり昼過ぎに終わって着替えた上着は汗にびっしょりと濡れ重くなっていた。脱いだ上着をビニール袋に入れる時、汗臭さに思わず顔を顰めたがそのまま密閉しカバンに押し込んだ。
浜松町駅に向かう道は、昼休憩を終えたスーツ姿のサラリーマンにすっかり埋め尽くされていた。現場中も履き続けていたズボンは汗でびっしょりと濡れ下半身に張り付いている。通りすがった公園の隅でタバコを吸い始め、通り行く彼らの姿を眺め続けているとその中に混じって同期の辰野や田口が歩いているように感じたが、それは錯覚というには自覚的過ぎた。結局1分近くも彼らを眺めていたが誰一人として私の方を見返す人がいないのを確認し、最初はズボンの上からあえてぞんざいに触ってまるで性器の収まり具合を調整しているかのように振る舞った。やはり誰とも目が合わない。ズボンの紐を緩め下着ごと掴んで前方に引っ張り、下を覗けばそのまま性器が見えるような状態にしたまま軽く上下させると股間に風が一斉に入り込んだ。掴まれたズボンが上下に振れるたび、汗で蒸れたその部分の皮膚が新鮮さを思い切り吸い込んで滑らかになり、風に膨れた性器が次第に熱く固くなっていくのを感じた。
「この場所ではこれ以上出来ない」興奮する頭に辛うじて引き際を認めると、手を離されたズボンが再び下半身を締め付ける。流れる空気に洗われ瑞々しさが駆けずり回っていた股間は閉ざされ、汗に濡れた布を押し当てられ再び沈黙した。
電車に乗ってからも触らないことに意識を向ければ向けるほど、その部分は自らの存在を執拗に主張し続けた。車内は空いていたが、びっしょりと汗に濡れたズボンは自分では気付かないだけで汗臭いのだろうと考えて席には座らないことにした。窓部分に凭れ掛かりながら、電車が揺れたり細かに身動きする度に湿った布の中で転げ落ち、また起き上がろうとする重い運動が下腹部を支配していた。
最寄りの1つ手前で降り事前に調べておいた公園に到着すると、そこが期待通り人けのない場所であることに興奮しつつもいざ舞台に出てみると怖気付いたのか股間はさっきまでの勇ましさを潜めてしまった。それでも高台にある公園を吹く涼しい風が、全身の火照った皮膚にしっかりと届いている。冷静さを口の中に念じて手繰り寄せ、何気ない感じの振る舞いを逐一確認しながら安全に行為が出来そうな場所を探し歩くうちに公園の端の方にまで来ていた。木陰に暗く染まったベンチを選んで腰掛けると、今日1日立ちっぱなしだったことにふと気付いてその瞬間全身の疲れが音を立てて湧き上がる。それでも遠く前方に見える公園出入口には注意をしっかり向けながら、ゆっくりと始めた。
2回目は以前何度か訪れたことのある、木々に覆われた小ぶりな山といった具合の自然公園を散策しながら行った。3回目は県境の山をハイキング中にふと思い立ちオナニーをした。
いずれも決して露出的なものではなかった。それでも2回目の際には、射精寸前で周囲を歩く人の気配に気づいて限界にまで膨らんだ性器を慌ててズボンの中に仕舞い込むようなアクシデントも起きた。刻んで近づくその足音から逃げるように、周囲を笹で覆われた林道を音も立てないようそそくさと駆け下りる必要があった。その時だって私の性器の興奮は次第に収まっていき、安全な場所を確認しオナニーを再開しようとした時にもすぐには元のように膨らむことは無かったのである。つまり私のしていることは、どれだけ見誤られやすいものだったとしても決して露出行為ではなかったのである。そのことが分かっているから射精の瞬間も、その後に暫く続く微睡むような心地の時間帯も、罪の意識や負い目などを少しも混じえず堪能することが出来たのである。それどころか射精の瞬間に足元の土や草木に浴びせかける心地よさは、行為が終わっても否定できないものとして身体に残り続けた。
初めて野外でオナニーをして以降、自室では一度も射精することが出来なくなっていた。いつものサイトでカップル同士が戯れ合う様子をどんなに見つめても射精する程に固く成長し切ることはなく、試みるたび徒労に呆れながらスマホを閉じた。ふと気になって野外オナニーものの動画を探しても、見つかったのは野外露出オナニーものばかりだったし、そうした類の動画で興奮することなどはありえないことだった。
マイセでは今まで通り、週に2回を目安にイチャラブセックス動画を頼りにオナニーをしている、ということになっていた。投稿をする度に突き付けられる後ろめたさの意識は不愉快だったが、罪の意識と言う程ではなかった。
3回目の野外オナニーをして数日後、ビッグサイトの集合場所で1か月ぶりに平山を見かけた時、今まで職場の人間に抱いたことがない程の親近感が胸に広がった。彼とは作業開始前に簡単な挨拶をしただけだったが意識していたのだろう、その日は普段よりも機敏に動いてトラス設営に慣れていない他のバイト達を指揮してまわった。その働きが評価されたのだろう、作業が終わってやっと平山と話すタイミングが出来たかと思っていると、その日の頭をしていた星崎さんから一週間後の撤去時にも是非来て欲しいと誘われた。星崎さんとの話が終わると、その後ろでヘルメットや道具をカバンにしまい込んでいた平山にやっと声を掛けることが出来た。
「今日はだいぶ早く終わったな」
「中野さんのお陰っすよ。今日はここだけすか?」カバンのチャックを閉めると彼が立ち上がった。
「あぁ、もう俺はこれで終わり。夜勤入れてんの?」
「そうなんすよ。10時から。入れなきゃ良かったなあ」
「おつかれ!3時間空きはきついな、その辺のベンチで時間潰す感じ?」ガレリアの方を見て聞いた。
「そうすね、少しは寝たいすね。てか星崎さんと仲良いんですね、来週の撤去俺も入りたいなあ」ガレリアに向かって並んで歩き始める。
「だいぶ久しぶりに会ったけどね、前は一時期システムでよく一緒だったから」
「なんかめちゃめちゃ馴染んでるなあ、って。もうエブリィ社員って感じですよね」
「そんなじゃないよ」私も笑い返したが彼の言い方が気になった。“馴染んでる”とはどういう意味だ、聞き返そうかとも思って平山の顔を一瞬見たが口をつぐんだ。人を見下すような笑いが、その顔に僅かに残っているような気がした。早く彼と別れて一人で帰りたく思っていた。
「そういえば、この前の野外のやつ、やってみましたか?」
「いや、やってないよ」頭を振って笑った。
「まあ抵抗ありますよね、やるとしても見つかったらやばいですから。バレたら流石にエブリィでも働けなくなるかもだし」話している内に彼の顔にはどんどんと笑顔が広がり、言い終える頃には声も大きく高笑いのような響きになっていた。
「たしかにな」
それだけ言うと、「じゃあまたな」と話を切り上げ出口に向かった。ガレリアの自販機横に立ち続けているだろう平山の視線を想像すると、不自然過ぎたかもしれないと気になり始めていたが、それでもこれ以上笑顔で会話を続けることは無理だった。出口に向かう間、自分は今その後ろ姿をじっと平山に見られているのだろうと思った。惨めだと思った。誰から見ても、自分は惨めだと思った。出来るだけ胸を張って大股で歩いて、決して振り向かないよう我慢して遠ざかっていく。
日雇いに、エブリィに馴染んでいると言われたその日以降、平山のことは出来るだけ考えないようにしていた。それでも仕事中は気付くと彼の言葉や顔が思い出されて、目の前の仕事がとてつもなく下らないものに思われた。元々やりがいなどは少しも感じていない筈の仕事だったが、いざ働こうとすると職場でのあらゆることが恥ずかしく思われた。現場に入っても以前ほど熱心に動くことはせず、関係性のない他のバイトに対してはあからさまに睨み付けたり舌打ちをして遠ざけて、自分がやる作業は最小限にした。
その日も無気力に仕事を終えた夜の8時過ぎ、帰りの電車の窓に映る景色の移り変わりをぼんやりと眺めている時、泣きじゃくる女の子の悲痛な顔がふとその合間に浮かび上がった。髪の毛も乱れ散り泣きながら、前後に揺らされ続けるその身体が、狂暴性に対して通じるはずのない訴えを繰り返している。電車の中でただ窓の外を眺めるだけの今、その叫びは直に届いて胸に突き刺さった。平山から逃げるように立ち去ったあの日以来野外オナニーをする気は起きなくなり、一方で以前通りのサイトや動画で勃起することも遂に出来なかった。それで私はあの動画を見たのだ。これももちろんマイセでは報告できなかった。
電車内に転職イベントの広告が出ている。ビッグサイトで開催するそのイベントの出展企業一覧には誰もが知っているような有名企業の名前が並び、その中には大学同期が勤める会社も2つあった。「撤去か何かで行くかもしれないな」考えを逸らそうとしたがそれでもやはり同期たちの顔が、そして平山の顔が思い出された。
途中駅に到着し扉が開く時、今度は就職支援サービスの車内広告が目に入った。正社員採用を希望するフリーターや無職を対象に就職を支援するらしい。
電車が走り続ける間、私が車内広告を眺めて様々に空想したりする間にも、彼女は悲痛な全身で泣いていた。永遠と思われる程苦しみ続けいつまでも泣くその姿の記憶ごと道連れにそのまま死んで、あらゆる目からも見えないよう覆い隠してしまいたかった。
鏡に映したスーツ姿は、自分でも可笑しい程似合っていなかった。すっかり忘れてしまっていたネクタイの結び方は、就職活動をする大学生向けのサイトを見ながら思い出した。部屋を探してもビジネス用の靴とカバンは見つからなかったので買いに出かけた。
フリーターを主な対象とする転職イベント当日の朝、ひげを剃りカバンに履歴書のコピーを10枚入れて家を出る。各企業ブースで資料を貰いながら、とにかく愛想を良くしてかつ誠実そうな人柄に見えるよう気を遣った。結局用意した履歴書を使う機会はなく個人相談を受けても特別な進展や変化も無かったが、それでも半日振る舞った笑顔に連れられたのか、会場を後にする頃には私の気持ちも晴れやかだった。8月末、夜でも外は蒸し暑くネクタイを締めたスーツの窮屈さを感じる。
あの日から凡そ2か月間、イベント会場の現場には出来るだけ入らないようにし、そのせいもあってか平山とは一度も顔を合わせていない。オナニーに関しては野外オナニーを含めて一切しなくなっていた。当初は性欲が次第に重なり高まっていたが2週間を過ぎた頃から収まりを見せたし、それに以前まで見ていたようなカップル同士の動画を見てもむしろ白々しく感じて醒めてしまうようになっていた。マイセでは、“新しく付き合い始めた交際相手の要望により今後は投稿しない”とマイページに書き足して以来それっきりである。それでもまだアプリは消さないでいる。
転職イベントに参加した翌日はいつも通りのヨコテンの現場で、ハウス備品を2階と3階に搬入しながらヘルメット裏から滝のように流れ落ちる汗が気持ちよかった。掛け声をしながら息を合わせて、立川さんや吉見さんと二人一組でロッカーを上げていく。この調子だと午後1時前にはレイアウトも終わって帰れるだろう。近くのカフェに入って、今日中に2,3社宛てに選考応募を送りたい。それが済んだら何をしようか。
12時過ぎ、仕事が終わり立川さんと話しながらTシャツに着替える。最近入った現場についてなど、仕事に関することや他愛のないことを彼と話す時間が楽しい。カバンに荷物をまとめ、立川さんたちに挨拶して別れた。現場を出てからカフェを目指す途中、すれ違うサラリーマンを見てはスーツ姿でこの道を歩く自分の姿を想像していた。たまにネクタイのズレを直したり襟元の折り目をなぞったりしながら、周りのサラリーマンと同じリズムで歩き続ける。ビルの隙間風に吹かれながら、その覆われた皮膚に物足りなさと懐かしさを感じる。
目当てのカフェが遠目に見えた頃、周囲に一人の通行人もいないことが分かった。汗の臭いがする。風が吹き、びっしょりと濡れたズボンが太ももに張り付いた。下着ごとズボンを掴んで引っ張りながら、股間に風を送り込むと気持ちが良かった。とても気持ちが良かった。
勃起する性器を感じながら、「もう一度頑張ろう」と思った。
おわり