花はそこにあるだけで
「花はそこにあるだけで花だ」
私は言った。
「言っている意味が分からない」
ムスヒが言った。
ムスヒは怒ったように頬を膨らませて、私に抗議する。その顔はわりとかわいい。それでも抱きたいとは思わないが。心の中でつぶやくに留める。
「全部言わないと分からないか?」
私が問うとムスヒはコクコクと何度も首を縦に振った。
「花はそこにあるだけで花だ。人はそこにいるだけで人だ。終わり」
「ちょちょちょちょちょ!」
喫茶店のテーブルから立ち上がろうとする私をムスヒがすんでのところで止めた。
「意味分からないから! よけい意味分からなくなっているから!」
「一から十まで言わなければ分からないのか、お前は? 阿呆か?」
私がそう言うとムスヒはここが喫茶店であることを忘れたのか、大きな声を出した。
「阿呆ですよ! どうせ私は阿呆ですよ! 男の気持ちなんて微塵も分からない阿呆ですよ!」
「分かっているならいいじゃないか、話は終わりだ」
いま一度立ち上がりかけると、やはりムスヒが押し留める。
「どうか、どうかタツヒコ様! 十を教えてくだされ」
「うるさいな、お前は。仕方ない。話してやろう」
私が座りなおしたところでムスヒが店員を呼んだ。
「ホットコーヒー、一番苦いのを一杯追加で」
注文を聞いて下がって行く女性店員の尻が左右に振れるのをしっかり見届けてから私は口を開いた。
「花はそこにあるだけで花だ。人はそこにいるだけで人だ」
「はい」
「であるとして」
「であるとして」
私がそこで一度口をつぐむと先程の女性店員がカップに入ったコーヒーを持ってやってきた。再度店員の尻が揺れるのをしかと見ているとムスヒが怒った。
「タツヒコ! 話の続きはよ!」
「ああ、そうだったな」
私は今度は店員の胸の揺れるのを見なければと思いながら、話の続きを始めた。
「人に権利だの義務だの資格だの、本当は存在するのだろうか?」
「急に壮大」
ムスヒのつっこみを置き去りに私は話続ける。
「死ぬ権利、生きる義務、人を愛する資格。そんなものは存在するのだろうか? お前、考えたことはあるか?」
またあの女性店員が今度は新規客のオーダーを取りにカウンター向こうから出てきた。しっかりと胸を注視して、その大きさを推測する。着やせするタイプと見た。
目の前ではムスヒが考え込んで、石像のようになっている。なんだじっとしていればコイツも抱けないこともないかも知れない顔をしている。真っ暗になれば女の顔なんてそんなに分からないものだけれども。
「考えたことない」
「浅いな」
私は瞬時に切り捨てる。
「自死を選ぶ人間は、あまり話したくない話ではあるが、生きる意味を目的を見失っているケースが多い。自分の存在する意味、存在意義、それを見失っているケースが多い。だがそもそも人間に死ぬ権利などあるのか? 翻って生きる義務などあるのか? お前の言う、『私なんかじゃあの人と釣り合わない』という人を愛するための資格などあるのか?」
「そんな矢継ぎ早に……」
たじたじと言った様子のムスヒに尚も畳み掛ける。
「お前はどう思う? お前の考えを聞かせろ」
そう言うと冷めかけたコーヒーを口に運んだ。
「私の考えを述べても、構わないでしょうか?」
さきほどの女性店員が気が付くとそばに立っていた。目鼻立ちも整っていて、いい。しかも客の会話にこんな形で入ってくる度胸がいい。気に入った。
「聞かせてもらおうか」
私が言うと彼女は頷いた。
「生きることに意味はなくとも、生きたことに意味は残る。誰も彼も誰かの記憶に残り、完全に忘れ去られることはない。自分の持っているもの、自分自身の価値なんて自分で本当には測れない。だから持っているものを愛する。自分自身を愛する。それ以上のこともそれ以下のことも出来ない。どうでしょう?」
「脱線している気もするが、とてもいい考えだ。ところで今日は何時にあがるんだい?」
私が尋ねると彼女は少し膨らんだ胸ポケットから店の名刺を出した。
「十八時半です。連絡ください」
彼女が踵を返し、その尻が揺れるのを見送るとムスヒが唖然とした。
「あんた本当にモテるのね」
「まあな」
先に席を立って、ロングコートを身に着けて店を出た。
「私に、人を愛する資格などあるのだろうか」
今にも雪が降りそうな、空気の澄んだ空に向かってつぶやく。先ほどの問いは自分に向けたもの。私に生きる価値はあるのか? 人を愛することを許される人間なのか? そんなすべてに絶望した時、命を絶ってもよいのか?
誰も答えてはくれない。だから見つけなくてはならない、自分自身で。
あの先ほどの女性店員の胸に抱かれている間にでも考えよう。
それでいいし、そうでなくてもいい。
今はただ、少しの休息を。
私は街に身を沈め、心を沈めて歩き始めた。
Fin
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