誘蛾灯
季節が変わろうとしているのを感じる。
私はナイロンコートを薄手のセーターの上に羽織って、自転車にまたがった。
通り過ぎた厳めしい造りの家の塀から梅の木が見えた。小さな花を咲かせている。
桜にはまだ早い。しかし、すでに新たな命の息吹を感じられる。
工房に着くとコートを脱いで、作業用のエプロンを着けた。
作業用のエプロンは知り合いの革小物屋で作ってもらった物だ。厚手のストライプのデニムに革のポケットの付いた、作り手いわくブルックリンの理容師のエプロンをイメージしたらしい。
作業を始めると師匠も工房にやってきた。立ち上がって挨拶をする。
「おはようございます」
「いい加減それやめろって」
私の直立不動でのお辞儀を煙たいものでも払うように、師匠は手を払った。
私は返事をせず、椅子に腰を下ろして作業を再開した。
二人で黙々と作業をする。二人とも無口だから作業の音だけが工房に響く。靴を作るのは楽しい。
元々、この工房で働くことになったのは靴づくりの体験に来たことがきっかけだった。
私は色々な職を転々として、手に着く職がなかった。どこに行っても人間関係というよくわからないものが原因で、私は職を離れることになった。
私はどうやら話し方も特徴的らしく、考え方も特徴的であるらしい。だから、難しいことが多々あった。
自分はこのまま、色々な職を移る渡り鳥のように生きていくのだろうと思っていた。そんな時、思いつきで来てみた靴づくりの体験で私は稀有な才能を発揮した。
「上手ですね。はじめて作られた方でここまで筋がいいのはあなたがはじめてだ」
師匠がそう言ったのがきっかけで、私はどんどん靴づくりにのめりこんだ。結局、なぜかここで働くことになった。細かい理由は覚えていない。
「タツ、独立とか。お前、考えてないのか?」
「はい?」
作業中、突然問われて驚いた。独立か。
「今は考えていません」
「そうか」
師匠はそう言うとまた作業を続けた。私はその質問の意図が分からなかった。
「お師匠さんがそんなこと言ったの?」
隠れ家その二でポテトサラダを揚げたんを食べながら、ムスヒと話をしていた。
「ああ、独立しないのかと」
「ふうん」
ムスヒはのん気にポテトサラダを揚げたんを口に運ぶ。
「私は、あの街に戻りたい」
私は静かにつぶやいた。
「あの街って?」
「この国の中心地だ」
そう言ってビールグラスを口に運んだ。
「東京?」
ムスヒの言葉に頷く。
「ああ」
私はひとつ息を吸って言葉を紡いだ。
「栄光とは、なんだろうか?」
「栄光とは?」
ムスヒが一緒になって額にしわを寄せて考えた。
「光とは、一瞬のものだ。すぐに消えてしまう。星だってずっと光っているわけではない。瞬間的に光を放ち、繰り返し繰り返し光っている」
ムスヒの答えはない。
「なぜそんな刹那的なものに人は吸い寄せられるのだろうか? 私は自らもそれを追ってしまうが、理由が分からない」
「それはね」
ムスヒが口を開く。
「誘蛾灯だからよ」
「誘蛾灯?」
ムスヒが頷く。
「栄光とか、成功とか幸せとか。そういう物って引力があるのよ。だから、それに人は吸い寄せられる。それは魔法の力のような、魅力……かな?」
「なるほど。それは面白い考えだ。そして概ね同意だ」
「ふふ、嬉しい」
ムスヒは笑って、ビールを飲んだ。
「なるほど、誘蛾灯か」
「だから、近づきすぎたら火傷するのよ。憧れて、ちょっと遠くから見ているくらいがいい。違う?」
私は頷いて返事とした。そして首を横に振った。
「それでも私は栄光を追いたい」
そう言うとテーブルに一万円札を置いて、席を立った。
店を出ると冷たい風が吹いていた。今日は日差しは春だったが、風はまだ冬のものらしい。ムスヒの言った誘蛾灯という言葉が、自分を縛る鎖に思えてならなかった。
Fin