ただ日々を淡々と生きること、それだけが今できること
私が工房で作業していると思いもよらぬ客がやってきた。その人は最後に見た時と同じ出で立ちだった。
「タツヒコ」
「……モリノ」
今日は師匠もいる。師匠がまた女かと言いたげな目をこちらに向ける。
「タツ、早く済ませろ」
作業の手を止めて話を済ませて来いという意味だ。私は作業用のエプロンを外してジャケットを羽織った。寒さが増したので、今日はライラックのクルーネックのセーターだ。
応接室に場所を移した。私がインスタントコーヒーを入れる間、モリノは一切口を開かなかった。
「どういう要件だ?」
「会いに来てくれないから。もらった名刺の住所に来てみた」
「そうか」
湯が沸いたのでマグカップに粉末を入れて、そこに湯を注いだ。モリノは黒のタートルネックのセーターを着ていた。胸が強調されていた。
「お前が他の男と歩いているのを見た。私は身を引くべきだと思い、お前の前から姿を消した」
「そう」
「ああ」
短く答えるとモリノの目の前にマグカップを置いた。
「責めないの?」
「ん?」
「私を責めないのかって」
モリノの怯えるような目に、私は首を横に振った。
「お前を責めて何になる? お前が幸せなら、私はそれでいい。もちろん、私はお前に夢中になっていたからショックは受けた。だが、お前を責める権利は私にはない」
「また権利の話?」
「いや、すまない。そういうつもりではない。だが、人に人を裁く権利などあるだろうか? それも控えの外野手がバットを折ってまで薪をくべるような状況は、歓迎されるものだろか?」
「ごめんなさい。言っている意味が分からない」
「お前と、その当事者の男がいい関係なのなら。部外者の私が首を突っ込んで二人の仲を引き裂くことはしたくない」
「どうして」
そう言ったきり、モリノはうつむいて視線を逸らした。
「だってタツヒコは当事者じゃない! 私と付き合っていた。関係を持っていた。あれは……出来心で」
「なら私がお前と関係を結んだのも出来心だ」
あえて冷たく言い放った。
「もう話は済んだ。出て行ってくれるか?」
静かに言ったがモリノはそこから動かない。彼女が何を考えているかなど、一切分からなかった。
「もう一度、チャンスをくれない?」
モリノがうつむいていた顔を上げた。自分の心が揺らぐのを感じた。まずいと感じると同時にここが職場であることをとてもありがたく思った。
「人は誰しも自分を重要人物だと思いたい感情がある。自尊心というやつだ。自らを尊いと感じる心。それを傷つけることは、何人たりとも許されない」
私は鋭く息を吐くと続く言葉を発した。
「お前は私のその心を傷つけた。一度ならず二度までも私は私のそのもっとも大切な心に傷をつけられるわけにはいかない。私はお前に裁きを与えない。お前の立場も理解できる。それに神でさえ、人に裁きを与えるのは死後だ。だから裁かない。しかし許しも与えない」
「まるで聖書でも読んでいるみたいね」
呆れたようにモリノが笑う。
「楽じゃない。私を抱いて、気持ちよくなって。うんとサービスしてあげるわよ、悲しませた分」
モリノは開き直って蠱惑的な笑みを浮かべる。これがこの女の正体だと思った。自分が女であることをひとつのためらいもなく武器にする。
「ああ、楽だろうな。以前の私ならそうしていただろう。だが、私は心から通じ合える人間に出逢ってしまった。だから心の通わないやりとりに興味をなくしている」
私は冷めたコーヒーを口に含んだ。
「お前はお前の都合で私に会いに来た。本当に私を思うなら、タイミングもやり方も違ったはずだ。職場に来たのは私がお前を門前払い出来ないようにするためだろう。泣き落とそうとしたのも情に訴えかけるのが一番だと考えたからだろう。開き直った今のお前の姿が、お前の本心だ。そこに私を思う気持ちはない」
モリノもひとくち、コーヒーを飲んだ。そして突然笑い出した。
「あはははははは」
マグカップをテーブルに乱暴に置いたモリノはまなじりを吊り上げる。
「私が頭を下げてやっているのに、愚かな男。本能に忠実になればいいのに。私に子どもを生ませたいと思わない男なんていないのよ。私が色目を使えば、ほとんどいちころ。タツヒコのことだって絶対もう一度ものにして見せるわ」
私は静かに首を横に振った。
「そうして生きて幸せか? それがお前の望むことか?」
モリノの目に再び怯えが見えた。
「これで話は終わりだ。もうここへは来ないでくれ。そして出来れば私の前に現れないでくれ。今日はっきりした。お前は私の手には負えない」
それだけ言うとモリノを応接室に残して、作業に戻った。しばらくしてモリノが大声で泣く声が聞こえてきた。
「さすが、女泣かせだな」
師匠がいやみったらしくつぶやいた。
Fin