
逃れられない苦しみにはぶち当たっていけばいい
ムスヒが仕事中の私を訪ねてきた。
「ね、タツヒコ。お弁当」
「ああ、すまない」
私は仕事用のシャツにネクタイにベストの出で立ちのままでは失礼だろうと思い、ベストと揃いのツイード生地のジャケットを羽織った。
「わお、スーツマジック」
ムスヒが冗談ぽく私の肩を叩く。
「私はいつでも魔法使いだ」
「へぇ~、言うじゃない」
ムスヒが目を細め、肘で私の肩の辺りを突く。
「言葉は魔法だ」
「え?」
「私たちが意思の疎通をはかれるのは言葉があるからだ」
ムスヒが頷く。
「まあ、そうね」
「言葉は力を持っている。古来この国では言葉は言霊、正しくはことたまと呼ばれ不思議な力が宿ると信じられていた」
「そうなんだ」
「おそらく、言葉と魂の意ではないかと私は思っている」
ムスヒは沈黙することで話の続きを促した。
「言葉には霊的な作用があるのではないかと、昔の人々は信じていた。事実、若い女が名を明かすのは求婚を受け入れる証だったという時代もある」
「そうなんだ」
「ああ、そうだ」
私が頷くとムスヒは弁当箱を差し出した。
「一緒に食べよ。食べながら話してよ」
「言葉は魔法だと言っているそばから食べながら話せと言うのか?」
「うん、話せと言うのだ」
ムスヒの笑顔に何も言えなくなった。
「うむ、師匠にここで食べたと知れたらよくない。あちらの応接室でいただこう」
「いただこう」
なぜか敬礼のポーズをとったムスヒが私のあとを着いてくる。
「ねえ、タツヒコ」
「なんだ?」
私が問うとムスヒはうつむいた。
「あの人とはもう会っていないの?」
ムスヒの目は不安に揺れていた。私の心もその揺らぎを受けた。
「会っていない。会っていないさ」
「本当に」
「ああ、誓って」
「じゃあ、信じる」
「うむ」
工房から応接室に場所を移して弁当箱を開いた。
「卵焼き、甘い派? しょっぱい派?」
「しょっぱい派だ」
「やだ、私甘いの作って来ちゃったよ」
私は黙って弁当箱を開くと、卵焼きを箸でつかんだ。
「構わん。お前の作った物ならなんでもいい」
口に不格好な卵焼きを放り込む。何度か噛むとガリッと音がした。
「やだ、殻入っていた?」
ムスヒが慌ててちり紙を取り出した。だが私はそのまま卵の殻までも噛み砕いて飲み干してしまった。
「え? 食べたの」
「ああ」
私が頷くとムスヒは私の肩に身を寄せた。
「タツヒコ」
「なんだ?」
「アンタのモテる理由が分かった」
「そうか」
私はもうひとつ卵焼きを箸でつかんで、口の中に放り込んだ。今度は卵の殻は入っていない。
「タツヒコ?」
「なんだ?」
私が問うとムスヒはうつむいて黙り込む。
「私に飽きたらいつでも言ってね」
「なんだ急に」
「いい人いたら、そっちに行った方が幸せでしょ?」
「馬鹿なことを言うならからあげを全部食べてしまうぞ」
そう言うと私は弁当箱の中のからあげを箸でつまんで口に入れた。
「あ、待ってよ! からあげ私、大好きなの!」
「そんなことは知らん。問答無用だ。この世は闘争剣戟だ」
「情けをくだされ~」
「情けは人のためならずだ」
ふたつ目のからあげを口に入れた。
「情けという言葉は、心が青いと書くな」
「うん、そうだね」
私はからあげを飲み込むと、またからあげを箸で持った。それをムスヒの小さな口に押し込んでやった。
「今が情けかも知れない。私の心は青い」
「ふんがふんがふんが」
口がからあげでいっぱいのムスヒは何を言っているのか判別不明である。私は白米をひと口、口に含んだ。
やがてからあげを食べ終えたムスヒが言った。
「あーあ、タツヒコのより大きかったよ。からあげ」
「何を馬鹿なことを言っている」
「馬鹿なこと言っていられるのが幸せじゃない?」
「それもそうかも知れないな」
私はムスヒの言葉に同意して、またムスヒの小さな口にからあげを放り込んだ。思い出されるのは小魚のようなムスヒの舌の動きだけだ。
「ムスヒ」
「何?」
「今日は私の部屋で待っていてくれ」
「分かった」
青春とはいつを指すのだろう。人生において青い春の時期は思いのほか短いかも知れない。夏は何色だろうか? 秋は赤のような気がする。冬は白だろうか。
「生きとし生けるものはみな朽ちる」
「そうね」
「悲しいけれど、私はそのことが嬉しい」
「なんか分かる」
「そうか」
「うん」
寒い応接室で二人で身を寄せ合った。今晩ムスヒに触れることが待ち遠しかった。
Fin
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