願いを叶えてくれる龍がいたとしても
私は街を歩いていた。澄みきった空気は今日も変わらない。
ロングコートの前をきつく締めて、モリノの働く喫茶店に向かった。
カランとドアベルが鳴るとカウンターの奥からモリノが現れた。
「あ、タツヒコ! 早かったね」
なぜかモリノとは一度きりの関係にならなかった。あの日話したことが面白かったからかも知れないし、そうでないかも知れない。私にはよく分からない。
モリノは私を席に通すと、この店で一番苦いコーヒーを持ってきた。
「あと三十分で上がる。待ってて」
モリノの揺れる尻を眺めて、モリノとの夜を思い出す。モリノはいい女だと思う。度胸もあるし、頭も切れる。見てくれもよく、性にも大胆。こんな欠点のない女がなぜ私を選んだのか、私にはまるで分からない。
コーヒーを口に運んで、モリノの仕事が終わるのを待った。
行為を終えたあと、ベッドでモリノとじゃれていた。私はこの時間が一番好きだ。行為にふけって熱くなっている時よりも、なんだかぬるま湯に浸かって二度と湯船から出たくなくなるようなそんな気分になる。
「もうタツヒコの中で答えは出ているんじゃないの?」
モリノが寝返りを打ち、私の方を向いて言った。
「答えが出ている?」
「うん、そう。花はそこにあるだけで花、人はそこにいるだけで人。タツヒコはそう言ったよね」
「ああ」
頷くとモリノは話を続けた。
「花がそこにあるだけで、咲いているだけで花であるのなら」
「あるのなら?」
「花は愛されるための努力をしなければならない?」
私は首を横に振った。
「いいや、しなくていいだろうな」
「人も同じよ。愛されるための努力なんていらない。愛しい存在だから」
そう言うとモリノは私の頭を胸に抱いた。
やはりモリノは着やせするタイプで、それなりに大きな胸の柔らかさに性欲が刺激された。端的に言うならばムラムラした。
「モリノ」
「何?」
「もう一度、いいか」
「野暮なこと聞くのね、タツヒコは」
モリノに優しくキスをされて、私は何か分かったような分からなかったような感覚を得た。
後日、カフェでムスヒと会っていた。
「へぇ~、あのいい身体のお姉さんと本当にねんごろになったのね」
「ああ」
私は短く答える。このカフェは国内ナンバーワンチェーン店で、客は大学生が多い。自然、私はこの店の中で目立つ存在だ。ムスヒはまだ大学生に見えなくもないからそんなに目立たない。
「それで、アンタから相談だなんて珍しいけれど。どういう要件?」
「プロポーズがしたい」
「色々すっ飛ばしてるわね」
ムスヒの嫌味な笑みを無表情でいなす。
「モリノは、私の大切な人だ」
「惚気はいいから」
ムスヒはチョコレートチップなんとかという甘ったるそうな冷たい飲み物をすする。
「モリノに何を言えば、私とずっと一緒にいてくれるかが分からない」
「そんなの普通に言えばいいのよ」
「普通にとは、どんなふうに?」
チョコレートチップなんとかを再び飲んだムスヒは少し考え込むような仕草をとった。
「私と付き合わない、タツヒコ?」
「ああ、なるほど。そういう感じか」
「そうじゃなくて。モリノさん、やめておいて私にしないかなってこと」
私は紙カップに入ったコロンビア産の豆のコーヒーを口に運んだ。
「冗談はよせ、笑える冗談を言え。それがお前の愛される条件だ」
「愛されることに条件は必要?」
「私は必要だと考える。私はモリノの豊かな胸と尻に触れたくて、モリノを欲した。もしモリノが豊かな胸と尻を持っていなければ、私はモリノを抱きたい、ましてや妻にしたいなどと思わなかっただろう」
ムスヒは首を横に振った。
「じゃあ私が豊かな胸と尻を持っていたら、私のことも抱いていた?」
「時と場合による。少なくとも」
「少なくとも?」
「私はお前を抱かなくてよかったと思っている。友情だと思っていたのだが、それは私だけだったようだ」
ムスヒが縦に首を振った。
「そうね、私のは愛情だわ」
「私がモリノに抱くのも愛情だろうか」
「性欲じゃないの」
ムスヒは冷たく言うと席を立った。
ムスヒに遅れること一時間ほど、私はカフェの席を立ってモリノの働く喫茶店を目指していた。
すれ違ったカップルから嗅ぎ慣れた香りがした。モリノだった。モリノと腕を組んでいる男に私は見覚えはない。
「前言、撤回だ」
空に向けて私はつぶやいた。頬を何かが濡らしているのに、とてつもなく温かかった。だが胸はとてもざわついた。
端末を使ってムスヒを呼び出した。
「お前を抱きたいかも知れない」
それだけ告げた。
Fin