シン・仮面ライダーとヒーローとヒーローガール
「シン・仮面ライダー」を観た。
「シン・仮面ライダー」とはヒーローを見続けた者に対しての、夢と呪いと保留の物語であった。
つまり、好きな物語であり、嫌いになれない物語であった。
シン・仮面ライダーへの目線
文脈と背景上、全てのライダーと連動した物語ではなく、昭和ライダーから連動した話でもなく、「仮面ライダー」という単体の作品の系譜として観るべきであることは理解している。
ただ、それでも「仮面ライダーBLACK」を原体験として平成ライダーと共に人生を歩んできた人間としては、「シン・仮面ライダー」から全てのライダーに対するメッセージを読み取ろうとしてしまう。
そして、「シン・仮面ライダー」が「シン・ジャパン・ヒーロー・ユニバース」の物語であるなら、全てのヒーローに対するメッセージも読み取ろうとしてしまう。
現在進行系の仮面ライダーとヒーローについて
平成ライダーと共に人生を歩んできた人間としては、仮面ライダーとは大人の鑑賞にも耐えうる構造を持とうとしてアップデートを続けてきた世界であると感じている。
それは、ヒーローについて語るためには「ヒーローとは何か」を語る必要があったため。
そして、ライダーは「ヒーローとは何か」という問いかけを「なぜ貴方がヒーローにならなければならないのか」として答えようとしてきた。
なぜなら、「ヒーローとは何か」に答えられないとは、「なぜ警察じゃなくて、個人が闘って解決しちゃうの?」という倫理からの問いかけや、「なぜ、貴方が自らを犠牲にしてまで他人を助けなきゃダメなの?私にとって一番大切な人は貴方なのよ?」という感情からの問いかけに対して、答えることができないため。
仮面ライダーの自己崩壊について
しかし、「なぜ貴方がヒーローにならなければならないのか」という問いこそが、ヒーローとしての本質をとらえた問いであるからこそ、ライダーはその問いに答えられず自己崩壊した。
「ヒーローとは特別な存在である。
そして存在を特別たらしめるには、特別な理由が必要。」
そう考えた結果、ライダーが誕生するためには特別な理由が必要になるというループが発生した。
しかし、ヒーローは単なる復讐者であってはならないし、私刑を執行するものであってはならない。
そのため、ヒーローとなるための特別な理由は、誰しもが共感し納得できるものである必要があるというループにライダーは囚われてしまった。
しかし、「世界の平和を守るため」というパブリックな理由は、社会が多様性を大切にし、個人を個人として大切にするようになったことで、誰もが共感できるものではなくなってしまった。
そのため、ライダーは「家族」というプライベートでありながら誰もが共感しやすいものを理由とするようになった。
しかし、「家族」も誰もが共感しやすい理由ではあったが、誰もが共感できる理由ではなかった。
そして、ライダーは自己崩壊を起こしてしまった。
例えば、「家族」をテーマに据えたリバイスで、最終回の本当のラストでライダーを辞めた一輝がキングカズから「夢に遅いも早いもないよ。1センチでもいいから前へ出ようぜ。君の全盛期はこれからだよ」と言われたように…
「家族」というプライベートな理由すら失われたライダーはもはや憧れるヒーローですらなくなり、何か別のものを目指すための通過点になってしまった。
そして、プライベートな理由を原点としたヒーローは、「なぜ私の娘が死ななければならないのだ」「なぜ我が一族は虐げられるのか」「なぜ私は認められないのか」「なぜ私が死ななければならないのか」「世界が不条理に満ちているなら私がリセットする」というヴィランのプライベートな理由を否定することができなくなってしまった。
ヒーローとヴィランは写し鏡であり同一の存在になってしまった。
そして、ライダーは自己崩壊を起こしてしまった。
ヒーローはどうすればよかったのか?
正直、いまさら振り返ってあの時どうすればよかったと語ることには意味がない。
それはもう、「自分の手が直接届くところ」ではなくなっているから…
でも、「納得いかないときはとことん悩んでいい」と信じているからこそまだキーボードを叩き続ける。
一つは、共感できるような抽象的なプライベートではなく、より具体的な個人名を指し示すくらいのプライベートな事象、共感はできないが納得はできる強い理由を存在意義とすること。
それは、ブルース・ウェインのように善悪を超越した存在となること。
しかし、それはヒーローとしてのアイデンティティを暴力に溶かすことになり、闇の騎士となり「青空になる」ことがなくなるということ…
もしくは、誰もが共感できるような絶対的な善性を体現した存在になること。
それは、カル・エルのように、その存在自体がユニバースを存在させるための理由であるような特異点になるということ。
しかし、それは人としてのアイデンティティを大いなる存在に溶かすことになり、人ではなく人を超えた神のような、「青空」のような存在になってしまうということ…
本当にヒーローはどうすることもできなかったのだろうか?
そんなことはない!
「夢っていうのは、呪いと同じなんだ」と誰かが言ったが、また別の誰かは「夢を持つとなぁ、時々すっごく切なくなるが、時々すっごく熱くなる、らしいぜ」と言った。
そう、多分、「ヒーローとは何か」という問いかけを「なぜ貴方がヒーローにならなければならないのか」という理屈で回答しようとしたことが最初の歪であった気がする。
「ヒーローとは何か」という問いかけを「なぜヒーローになりたいの?」という問いかけに変換し、「だってヒーローになりたいから。ヒーローが好きだから」というあこがれと情熱で回答すれば良かったんじゃないか?
たしかに、それはライダーが紡いできた歴史を考えるととても難しい結論だと思う。
「英雄はただ、1人でいい」「恐れる物は何もない」「No Fear No Pain」と強い存在であるライダーが、「だってヒーローになりたい!」と無邪気に答えられたのだろうか?誰よりも強い力を持った者が無邪気に答えて良いのだろうか?
良い!無邪気に答えて良い!
「なりたいからなる」以上に強力な動機なんてない!
そして、2023年現在、それを証明している作品がニチアサにある。
そう、「ひろがるスカイ!プリキュア」である。
プリキュアがポジティブなヒーローを描けている理由を「女の子だって暴れたい」というコンセプトに紐付けることは簡単である。
が、それよりも「なりたい自分になる」というメッセージをポジティブなメッセージを発信し続けてきた作品であるということの方が難しいが重要な本質であると思う。
それは、「なぜ、貴方が自らを犠牲にしてまで他人を助けなきゃダメなの?私にとって一番大切な人は貴方なのよ?」という質問に対して、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という自己犠牲を回答してきたヒーローに対して、「ありがとう。そんな自分が好きだから。後で一緒に遊ぼ」という、とてもポジティブで、そして他人を助けることだけではなくて、自分も大切にするという、欲張りな回答をするヒーローガールというとても対象的な存在となった。
実際、「ひろがるスカイ!プリキュア」第5話「 手と手をつないで!私たちの新しい技! 」は、「ヒーローとは何か」への、一つの完成した回答であった。
ヒーローとは、プリキュアの企画書に「女の子だって暴れたい」よりも前に書かれている「永遠のテーマ・友情に真っ向勝負!」にあるように、戦うだけ・誰かを助けるだけの存在ではないはず。
そして、ライダーもそんな存在になれるはず。
なぜなら、「手が届くのに手を伸ばさなかったら死ぬほど後悔するそれが嫌だから手を伸ばすんだ。それだけ。」という個人的な動機を語ることもできるのだから…
最後に
そんな感じで、「シン・仮面ライダー」を見て「ヒーローってなんだろう?」と考えていたところ、近くにあったストリートピアノの演奏が耳に入った。
それは、技術を競うのではなく、ただ好きな曲を奏でる、メロディーで歌うような演奏だった。
そして、「なんだっけ?この曲?」という疑問が「あっタキシード・ミラージュだ」となった瞬間、自分の中で「シン・仮面ライダー」という作品が理解できた気がした。
鍵盤模様のトートバックを持つ彼女が弾くタキシード・ミラージュはとても美しかった。
そして「なぜ彼女は今ここでこの曲を選んだのか」については自分には絶対にわからないし、もちろん「彼女がこの曲に込めた思い」についても自分には絶対にわからない。
ただ、それでも彼女の引いたタキシード・ミラージュによって、何かを感じた。
彼女のキモチがどうだったかは別にして、大きな何かを感じた。
だから、ヒーローは「なりたいからなる」でいい。
ライダーには「なぜ助けるのか?」に悩む前に「助けたいから助ける。それだけ」って言えるヒーローになってほしい。
「ヒーローとは何か?」は、ヒーローに助けられた僕らが考えるから。