スクリーンショット_2020-02-17_13

時代に求められるピアノ教育

かつて、日本における一般的なピアノ教育の成功例とは、生徒を「音大に合格させること。」でした。あるいは、音大に合格しうる演奏レベルまで生徒を育てることができたら優良なピアノ教師である。と評価が得られる時代が長くつづきました。

実はいま現在もまだその風潮は根強く残っています。とかく閉鎖的になりがちなピアノ教室業界。時代の流れから一歩取り残されているこの空気感は、業界に長くいればいるほどひしひしと感じます。

日本の音楽大学は、高度成長期の一億総中流といった全体意識のなか、【音大=良質な花嫁学校】として栄えた。という側面があります。

女の子であれば音大を卒業しておけば、とりあえず結婚に困らない。結婚したあとも、家事をしながら自宅でピアノを教えれば、おこづかい稼ぎになる。そうした背景もあってピアノ教室業界はますます発展していきました。

ところが、今はその頃とは大きく違います。ピアノ教室業界に限ったことではなく、これまで当たり前とされていた常識がことごとく通用しなくなってきた。通用しない常識を守り続けていくことはリスクですらある。とぼくは考えます。

本文では、ぼくがピアノ教室を運営する立場として、これからの時代に求めらられるピアノ教育のあり方と、それを実現させるための指針についてまとめました。

(ちなみに、日本における音楽教育のはじまりと発展についてわかりやすくまとめらた書籍を紹介します。)

“お利口な演奏”が良しとされていた音大繁栄期

ピアノ教育を考えるとき、ピアノ教育のことだけしか視野に入っていないのでは、有益な結論にいたることはないと思います。高度成長期の日本において、どのような社会的背景があって音楽大学というものが繁栄したかは先ほど書いた通りです。

ところで音楽大学に入るためのピアノの演奏能力というのは、どういうものでしょう。それは「どんな審査員からも安定して高い点数が取れる演奏」です。別の言い方をするならば「お利口な演奏」です。

個性を発揮しようとして、あまり奇をてらうようなことをするのはちょっとリスクが高い。それを好む人もいれば、好まない人もいるからです。極端なことを言えば、100点も0点も同時についてしまうような演奏は、受験ピアノとしては厳しいと言っていいかもしれません。

「芸術は爆発だ!」といったメンタリティで、世の中に問い続けた岡本太郎さんが、生前どのような酷評を受けていたかを思い出せば、想像がつくかと思います。

まんべんなく点数を取るためには、非の打ちどころがない演奏をしなくてはなりません。【非の打ちどころがない】とはつまり【無難であること】です。0点も一緒にもらってしまいそうな100点を目指すのではなく、無難に70〜80点くらい取ることを目標とする。

つまり、ピアノ教室は個性を掘り起こす場ではなく、無難な点数を獲得するためのテクニックを教え込む場であったと言っていいと思います。無難であることは平均的であるとも言い換えられるでしょう。

平均的な演奏をするために、それほど多種多様なカリキュラムは必要ありません。【ピアノと言えばバイエル、ハノン、ソナチネ、ソナタ・・・】というお決まりのイメージが未だに抜けきらないのは、日本のピアノ教育界全体がそれを目指している期間が長かったからです。


未来へつなぐことを考える

平均を目指す教育は、なにもピアノ教育に限った話ではありません。そもそも、日本の義務教育自体がそのようにプログラムされています。国民の多くが平均的にさまざまな知識を持ち、能力をそろえていくこと。そうすることで国としての発展を目指し、それが実現できたわけです。

だからぼくは、今までのやり方が間違っていたとは思いません。過去を批判するのではなく、多くの人によってつながれてきたこれまでの線を、どう未来に描き渡していくか。これを考えていくべきだと思います。


自分だけの“楽しい”を見つける場

【平均的にみんないっしょ】から【個】が重要視される時代がはじまりました。ことば上のことだけではなくなってきています。個人の「好き」「楽しい」がそのまま、人の心を動かし、社会貢献になり、経済も大きく動かすような現象がさまざまなところで起こりはじめています。

研究者、メディアアーティスト(その他、肩書き多数)の落合陽一さんは、「新しい学び方」についてこのように書いてます。

▶︎結局、どんな状況にあっても楽しく学び続けられる人、前提を無視し、ストレスを感じず、常に柔らかな跳躍ができる人が強いということです。

“楽しく”学び続けること・・・ぼくも大賛成です。

そしてぼくは、ぼくのピアノ教室を「楽しいを発見する場」である。と、定義し、そのためにできうるピアノ教育のあり方を日々研究しています。そのための基本的な指針について紹介します。

「楽しい」を見つけるための3つの指針


1.楽しいのモデルになること

「音楽は楽しいもの」と思っているうちはまだ良かったけれど、「楽しまなくてはいけない」「楽しませなくてはダメ!」なんて強迫観念に囚われてしまったら負のスパイラルのはじまりです。

ぼくは音楽が好きだから音楽を教える仕事をしています。どうして好きかと言えば楽しいからです。ぼくの楽しいは、ぼくだけのものです。人に押しつけられるものではありません。

その代わり、ぼくが楽しんでいるところを人に見せることはできます。それこそが、ぼくがピアノ教師として一番重要視していることです。

楽しいの姿を見せること、つまり楽しいのモデルになることです。

子どもたち(生徒たち)が音楽が好きなろうが嫌いになろうが、ぼくはまったく重要視してません。どっちでもいいんです。

それよりもぼくが「楽しい」のモデルケースのひとつになることで、子どもたちの楽しいの指針になれればと思います。


2.余計な思考を取り除かせること

ここで言う「楽しいこと」とは「楽チンであること」とは違います。本来の自分が心底で求めているものを探し出し、それを実行することです。余計な思考や意識で固められているうちはそこに気が付けません。そこで、ピアノというのは役に立つことがあります。

近年、脳科学の世界でささやかれ始めている通り、ピアノ演奏というのは見た目以上に脳に負荷がかかるものです。楽譜を目で追い、88もある鍵盤を10本の指で操作して、鳴った音を耳でキャッチする。すべてのことを同時に、そして連続的に行っていくのです。だから、余計なことを考えている暇はありません。

ピアノを弾くために余計な思考を外した瞬間、子どもたちは突然、なにかに気がついて生き生きと話し始めることがあります。それはピアノやレッスンとはまったく関係のないことばっかりです。昆虫、恐竜、飼っているペット、野球・・・etc.

ぼくには理解できないことも多いのですが、子どもたちはふと気がついたように猛烈な勢いでそのことを喋りはじめるんです。ぼくは完全に聞き役です。そしてひと通り話し終えたらまた黙々とピアノに向かう。

そんなことが日々おこっています。


3.ピラニア になって緊張感を演出する

なぜピラニアなのかを説明します。

【鯉の輸入】の話です。鯉の輸送はとても難しく、空輸している間に多くが死んでしまう問題がありました。それを回避するために編み出された方法がピラニアなんです。鯉と同じ水槽の中に数匹のピラニアを入れるだけで鯉を死なせずに運ぶことができるのだと。

鯉の立場からすれば、ピラニアが同じ水槽の中にいることで、常に緊張感を強いられることになります。その適度な緊張感こそが、生命を維持する上で大切なのだそうです。これは鯉に限らず、生物というのは、ある程度のストレスがかからないと、逆に生命力を弱めることになるとのことです。

ぼくはこの話を読み「時として自分がピラニアになって、緊張感を演出することも大事なんだ」と思いました。

「優しい」と「易しい」は違います。その人がその人らしさを発見し、発見するだけではなく、実行するまでに持っていくには、「易しい」だけでは無理なんです。

そしてこれはピアノのレッスンの中でも出来うること。と考えています。


まだまだ道はつづいていく

以上、ぼくが考える「これからのピアノ教育のあり方」と「それを実現するための指針」をまとめました。

しかし、ぼくの人生はまだまだこれからつづいていきます。小さなトライ&エラーを繰り返している日々です。

またその時がきたら、同じテーマについて改めてまとめるかもしれません。


いいなと思ったら応援しよう!