【楽譜が読めなきゃダメですか?】・・・ピアノ教育について
僕たちピアノ教育者たちは長らく、とんでもない思い込みをしてきたようです。
それは【ピアノを習う≒楽譜の読み方を習得する】です。
生徒の耳(音感)がどれだけ育ち、ピアノを弾くテクニック(運動性の部分)が上達しても、読譜力が伴わない限りはピアノ教育としての成功例にはならない。
と思われてきました。
僕も結構長いこと、この謎の常識に縛られていたピアノ教師の一人です。
▶︎「謎の常識」と言ったのには理由があります。
そもそも「ピアノ教育としての成功」とは何なんでしょう?
今の世の中、あっちこっちで「成功」という言葉が飛び交っているように見えますが、そもそも「成功」に共通の定義などないはずです。
常識というのは、いわば世間の平均値。
「だいたいの人が(なんとなく)どう思っているか。」の目安みたいなもの。
▶︎では何故、ピアノ教育において「読譜」が必須!と常識化されているかと言うと、答えは非常にシンプルです。
それは、僕も含めたピアノ教師の多くが「読譜が出来るようになったことで、ピアノを楽しめるようになった経験しかない」からです。
▶︎ピアノ教師のほとんどは、本来的には生徒に「ピアノの楽しさ」を伝えることをひとつのミッションとしていると思います。
だけどその教師の多くは「読譜が出来ない限り、音楽演奏を楽しむことは難しい。」と思っている。
だから、読譜スキルを高めてあげることが、ピアノ教育者としての当たり前の仕事。それが生徒のためになると思っている。
▶︎これがピアノ教育界の平均値、つまり「ピアノ教育の常識」となると僕は見ます。
▼“読譜苦手”な中学生の米津玄師(LEMON)
今月頭の発表会で、中学生の生徒が米津玄師の「LEMON」を演奏しました。
これ、彼が自分で耳コピしてアレンジした演奏です。
▶︎更に、原曲の調は「嬰ト短調」で♯が5つになってしまい、自分の技術では弾きにくいから♯ゼロの「イ短調」に移調してます。
ツイッターの本文にもあるように、教師であるはずの僕は、この曲の演奏に関して直接的な指導は全くしていません。
彼はこの舞台で憧れの米津玄師を弾くために必要な全てを、自分自身で整えていったのです。
で、そんな彼は、楽譜があんまり読めません。
もし仮に、彼が本番で弾いたアレンジと全く同じ「LEMON」の楽譜を渡したとしましょう。彼はすぐに挫折するはずです。
それぐらい、楽譜が読めないんです。
恐らく、彼にとって楽譜のロジックを理解することは、僕が想像するより遥かに難しいのでしょう。
▶︎▶︎▶︎だけどそれが問題ですか?
彼はレッスンの時、毎回生き生きと、自分が耳コピしてきた曲を弾き、聞かせてくれます。
レッスンの時間が終わって帰る段になっても、「この曲もあるんだけど・・・」なんて言いつつ、リュックを背負いながら“名残の一曲”を弾いてようやく帰る。
正にピアノを楽しんでるんです。
▶︎僕が人前で彼のような演奏をしたいと思ったら、間違いなく楽譜を必要とします。
仮に“耳コピ”をするにしても、聴き取ったものをいったん楽譜化することでしょう。
その点で彼と僕には大きな違いがあります。
違いがあるということは違和感がある。
違和感がある所には摩擦が生じます。
彼との使いは8年。ようやく、僕は気が付いたんです。
彼は彼の良さがあり、それを最大限に認め、許容し、エールを送るだけで彼は勝手に成長していくんだ、と。
だから、僕は言い続けることにしました。
「どんどん耳コピしてこい!」
ってね♪