365日あつまれ(2021〜)
365篇のエッセイと詩を、まとめようと決め、かれこれ10年以上。毎日書く、続ける、というのは、なかなか難しいことで、それはダイエットや資格試験の勉強によく似ている。
書く気が起きなかったり、書き忘れたり、書くことが見つけられなかったり……でも、なかなか進まないながら、やっと365個に近づいてきたので、あっちこっちバラバラに書かれた彼らを、ここにこっそり集合させる計画。
そもそも、なぜ書きはじめたか、きっかけは過去数回、数ヶ月の長期入院の日々に。
ーーー毎朝8時50分。病院中に、アナウンスが流れる。「今日は「○○の日」です。この日は……」と、今日が、なんの日であるかと、その由来の説明がなされる。そして、「今日も1日、よろしくお願いします」と結ばれる。
初めのころは、聞き流していたけれど、だんだんと、アナウンスの言葉が、耳に、心に、留まるようなっていった。
入院の毎日というのは、とにかく単調で「同じ顔」をしている。曜日の感覚もあまりなくなり、季節感覚も失せてゆく。変化といえば、自分の体調や感情、あと看護婦さんの交代くらい。外から、世間から、遠く離れ、取り残されたような気持ちにもなる。
そんな中、朝のアナウンスを聞いているうち、「今日は何かの日」であるということに、興味が湧いてきて、同じような顔した毎日にも名があり、個性があるように思えてきた。「昨日とは違う、今日」を生きている感覚になることができた。
それは、真っ白のページに、ぺたんと小さく付けられた、カラフルな付箋のようであり、はたまた、四方の壁に、ぷかり浮かんだ小さな窓のよう。
そこから、外の光が、風が、吹き込んで、「○○の日」から地続きの今を、生きているのだと、はっと、ほっと、した。
退院してからも、定期検診で朝9時ごろ病院にいると、外来にもアナウンスが流れる。日常の生活の忙しさに、入院とは違う意味で季節感がなくなった時も、このアナウンスを聞くと、入院の日々を、季節を、思い出す。
「今日」という日の感触を、心に感じて生きようと思える。
そして、小谷ふみも、「顔のない毎日」に、目や鼻や口を描き入れるように、「何の日」にまつわる一編を、書いてまとめたいと思うようになった。
ということで、
これまで書いてきたまま、まずここに集める。それから、言葉や構成を直したりの作業をする。ひとまず、12ヶ月分のnoteを完成させる。
(文の細々、気になるけれど、内容など見直さず、とりあえずブチこむ。)
2021年 小谷ふみ☺︎
追記(2022年):
「何の日」に加え、病や健康にまつわるものも多々あり。別冊noteに保存。
追追記(2024年):
8年ぶりに入院をした(治療のため)。朝8時50分。「何の日アナウンス」は健在だった。ここ数年、再発が続いて、生きているだけで疲れてしまって、表立って文章を書く気力はもうないなと感じていた。何かが枯れてしまったような私の心に、病院の朝に響く「何の日」の言葉は、かすかな風のように触れてきた。