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「あいつキモいからハブろうぜ」のそれっぽい核心
「それっぽい核心」シリーズは、毎回1つの課題を設定し、その根本っぽいことを探ります。
第4回の課題は、
「あいつキモいからハブろうぜ」
です。
■今回のそれっぽい核心
「違う世界線だったら、キモいのは自分かもしれん。明日は我が身だ。」
それっぽい核心。
これを仏教的に考えると「因果応報」とか、そんな言葉になりそう。
確かに、
「仲間はずれ」がダメなことは、感覚的になんとなくわかる。
だけど、
「みんな違って、みんな良い」ってしちゃうと、マジでヤベェ奴もOKってなっちゃう。
だから、
人間は「社会契約」といううまいルールを作ったわけよね。
そもそも、
「キモいとかヤベェとか」そういう判断がどうやってまかり通るようになったかを、フーコーさんが分析してるので紹介します。
僕は、なるほどなってなりました。
▼フーコー的「常識」論
常識は都合の良い事実の積み重ね。
常識の起源に向けて歴史を遡ると、この常識にそぐわない事実も存在する。
※詳細は第3回『「常識知らず」のそれっぽい核心』に記載
▼そこでフーコーは「狂気」の歴史を遡る
・中世以前、狂人(=精神病者)は「悪魔に取り憑かれたもの」として共生。
・17世紀、宗教的な考え方から、近代社会的な考え方が「当たり前」に。社会を統治しやすくするために、狂人は隔離される。
・18世紀、医療の発達により、治療の対象として隔離される。
↓
何かの都合のために、名前を付けることは、人を排除することに繋がる。
↓じゃあ...
▼なぜ人類は、名付けちゃうのか
・物事の判断基準(名付け)は、昔の誰かの都合で生み出されている。
・この「誰かの都合」と言うと、「国家だの政府だの、それに類する権力」的なことを想像しちゃうけど、そういう反体制的なことが言いたいんじゃない。
→人間ってそもそも、何か得体のしれないものを、名付け、分類し、溜め込みたい欲望がある。この「とにかく整理したい病」的なものが、「常識」を生み出してる。
そんなふわっとしたもので常識が生まれるとしたら、
・あいつが「変」なのも、たまたま(というか勘違い)
・自分が「普通」なのも、たまたま(というか勘違い)
考え方、時代、場所が違えば、キモいとかやべぇとかは違ってくる。明日は我が身、というか今日も我が身。この瞬間も我が身。
■僕の生活と「それっぽい核心」
・僕は、割と秒で、あだ名をつける能力がある
・得体の知れないものを把握したい、とにかく整頓したいって欲望があったのかもしれない
・あと、あだ名って笑える。一時期お笑い芸人の有吉さんがあだ名をつける芸で一世を風靡してたが、割と大勢笑ってた。
・歯に衣を着せず、かつ、あだ名が的を射ていると特に笑えたんだけど、それは、
・あだ名をつけられた人が「標準」から逸脱していることが明示化されて笑えた
・あだ名をつける行為自体が、常識から逸脱してて笑えた
ってところだろうか。
・もしかするとあだ名が面白いという常識が刷り込まれてて、僕は、笑っていない人を見ないふりしていたかもしれない
・何にしても、人にあだ名をつけるのはほどほどにしよう。
■考え続けたい問い
「区別するためのラベリングは諸刃の剣。一方で課題を表出化し、一方で多様性を根っこから否定する。名前をつけずにみんな幸せになるにはどうしたらいいのだろう ?」
▼参考になりそうなオンライン授業
第2回 障害と教育について対話する「僕らの哲学座談会」
■引用書籍
内田樹『寝ながら学べる構造主義』、文春新書、2002年