柔道とボランティアしかしたことがなかった私が、経営者のコーチになるまでの『私の履歴書』
このnoteでは、初めましての方や、面識はあるけれど私のことをよく知らないという方に向けて、自己紹介をさせていただきます。
初めまして。
「柔道」と「ボランティア」しかしたことがなかった私、松本興太(まつもとこうた)が、父が病に倒れたのを期に、会社経営の世界に飛び込み、リーマンショックや危機的状況を乗り越えながら、事業立て直し、無借金経営などを経て、2017年3月に会社を手放すまでに学んだ「実体験から得た知恵」を分かち合えればと思い作成しました。
現在は、家族との時間を大切にしながら、日本だけでなく海外のクライアントも対象に、経営コンサルティング・コーチング事業を提供させていただいております。
「就職経験」も「資格」も「人脈」もない「地方在住者」で、「柔道」と「ボランティア」しかしたことがないのに、
なぜ、コンサルティングをしているのか?
なぜ、今のような状態になったのか?
不思議に思われることもめちゃくちゃ多いので、(不審に思うレベルの方もたまにいるのですが(笑))
まずは、お伝えさせてください。
そして、私が何を考え、何を思いながら生きているのか、私の価値観や世界観もあなたに共有したいと思います。
ここから、びっくりするくらい長いですm(_ _)m
私は24歳の時、「柔道指導者」から一転、工場の経営に携わることになりました。
大学生のころ、国連で働きたい!と思うにいたる出来事がありまして、(ここはまた追々書きたいと思います)まずは海外での実務経験が必要だ!ということで、同級生が企業に就職していくなか、卒業後すぐに、青年海外協力隊に参加しました。
実は、卒業のための単位もギリギリだったんですが、なんとか卒業させてもらえました(笑)
そして、中東のヨルダンという国で、2年ほど柔道を指導していました。
アラビア語を駆使して、次世代のナショナルチーム選手を育成する仕事は、投げ出して帰りたくなるような程大変なことも多かったですが、とても良い経験になり、その交友関係は今でも続いています。
そして、0から始めた教え子達が、なんと、2020年東京オリンピックを目指せるほどに成長し、頑張っています。(※国際柔道連盟がヨルダンの教え子を取材した動画がYouTubeで公開されています)
海外経験も積んだし、仕事の魅力もやりがいも体感した。なにより、文化も習慣も全く違う人達と、柔道という日本の国技を通して、お互いの気持ちを通じ合わせ、一つの目標に向かって熱い気持ちを共有できた経験は、
世界の平和に貢献する仕事がしたい、国際協力の世界でやっていきたい!
次の進路は海外の大学院だ!
という気持ちをより一層強いものにしました。
そう考えていたのも束の間、父から
『癌になった。長くもたないかもしれない・・・・。』
との国際電話。
こんなに早く親が亡くなるかもしれないなんて・・・。
強烈なショックでした。
父は中卒で、苦労して事業を立ち上げた、たたき上げの経営者でした。当時、53歳で、多くの社員を抱えていました。
「俺も好きに生きてきたから、おまえも好きに生きろ」
そう言われてきました。
じゃないと、
「海外に行く!?いいじゃないか!」
なんて、親としては、なかなか言えないですよね。
特に継いでほしいと言われたこともなかったのですが、(53歳だったので、まだまだやる気だったことでしょう)今は自分の夢ではなく、家族のために、自分が出来ることをするほうが先なんじゃないか?そんな気持ちが湧いてきました。なぜかというと、ヨルダンで過ごす2年の中で、『家族の大切さ』を学んだからです。
それまでテレビや報道で見る中東のイメージとは違い、僕がお世話になったヨルダン人は、人生の中で何よりも家族を大切にしていました。
私は世界の平和に貢献する仕事をしたいと思っていました。
でも、ヨルダン人と接するなかで、家族が平和で、安心した暮らしがあってこそ、身近な安心や平和があってこそ、平和なのではないかと、強く思うようになりました。
工場では、主に電気とか機械を扱っていましたが、私自身は全く触ったこともありません。数学も理科も赤点レベルの苦手分野。
自分に何ができるのか?
入ったからといって、うまくやれるのだろうか?
悩みに悩んだ末、日本に残り、工場の経営に携わることを決めました。
現場を知らなきゃいかん。
と言われ、会社に入った直後に出向することになり、新聞に取材されたり、どこへ行っても、「Sensei、Sensei!」と慕われる海外生活から、一介の工場の生産ライン作業者に。
この経験は想定外なことの連続で、
「柔道」と「ボランティア」しかしたことがないの?何しにきたの?
(小柄でカワイイ年下の)派遣の女の子より、全然使えないなお前。
と罵られる。毎日、無価値を突きつけられる厳しく辛いものでした。
これまでの自分を否定されたような感覚。
一応、自分なりに人生頑張ってきたはずなんだけど・・・
でも、受け入れるしかない。
会社、家族の将来がかかっている。社員もいる。
これ以上使えないと思われると、取引してもらえなくなるのではないかと、ビクビクしていました。当時はそんな風に考えていて、責任感でガチガチでした。
出向先は、山形の雪深い片田舎。
工場の近くの、ネットもほぼ使えない、民宿のような宿での生活。
朝は製造ラインが動いてないから、作業工程を確認し、準備ができるので、始業時間よりも1時間は早く出勤。
ちょうど仕事の多い時期だったので、忙しくて研修もありません。OJTもそこそこに、先輩の作業の様子を後ろで見ながら、ひたすらノートにメモ、メモ、メモ。ほとんど見て学べ的な環境でした。当時は、機械の絵を描いたり、作業ノートを作ったりして仕事を覚えていきました。
取引先の次の経営者となれば、工場内での視線も違います。
露骨に馬鹿にされることもありました。
今となっては時効だと思うので告白しますが、一回だけ、仮病で休みました。
心では、行かなければと思っているのですが、体が言うことをきかず、ドアノブに手を触れることができず、寝返りを打つと落っこちてしまいそうな狭いベットの中で泣きました。
悔しかったです・・・
できれば思い出したくない事ばかりです。
檄を飛ばされながら、使えねーなとディスられながら、一つずつ、着実にやり、恥とか、プライドとか関係なく、わからないことはわからないと素直に言って、なんとか仕事を覚えていきました。
しかし、そんな努力の裏で、世界は着々とリーマン・ショックに向かっていました。
3年はいるはずでしたが、リーマン・ショックの影響で仕事量が急減し、希望退職も募るような状態になりました。
真っ先に出向者は切られます。
結局、仕事もイマイチ覚えられない中途半端な状態で、不安しか無い中、新潟に戻ることになりました。
生産ラインでの日々もなかなか辛かったのですが、ここからもっと辛い日々が始まりました。
なんと、受注していた仕事がほとんど無くなったのです。
仕事の急減で一時期は週休6日の日々。
輪をかけるように品質不良による取引先とのトラブル。
社員にも辞めてもらわなければいけない。心苦しい日々。
お金は出ていくばかり、社内の人間関係も悪化、
頭をよぎるのは、「倒産」の二文字。
当時26歳。
青春を謳歌しているはず、海外で夢に向かって生活しているはずだった人生は、どん底にまっしぐらなジェットコースターに乗っているような状態でした。
なんとかしなくては・・・。
そう思ってはいたのですが、何から初めていいかわかりません。
経営者といっても、結局、技術を学ぶための出向がメインだったので、お金のことも経営のこともまったくわからない、ゼロからのスタートでした。
当時の社内には、システムも組織もなく、帰ってきたときは、会議すらありませんでした。
・お金のこと
・組織やマネジメント
・ビジネスモデルのこと
・社内の人間関係のこと
・営業のこと
何から手をつけていいかわからない。
これからどうしていくのか?
社内で、いろいろモメました。
まぁ、詳しくは書けませんが、あなたがご想像されるようなドロドロな感じですよ(笑)
そんな中、
まずはホームページだ!
と思い立ち、一人でホームページを立ち上げ、営業を始めました。
ビジネスは素人でしたが、「会社のルーツを紐解き、強みを見つける質問」を作りだし、そこから導き出されたことを形にして、コンセプトとポジショニングを明確にしました。
そして、そのコンセプトとポジショニングに基づいて作ったホームページをきっかけに、新規受注を得ることができ、これがV字回復の大きなきっかけとなりました。
やりゃーできるもんだな、と思いましたが、ビギナーズラック。
それなりのボリュームのある仕事を受注したので、会社のキャパを考えるとたくさんの会社を受けることができませんでした。
営業だけでは長期的には無理だし、そもそも経営について、何も知らない。学ばなくてはいけない。
ちょうど商工会かどこかから送られてきたDMで知った”経営管理全般について学ぶ講座”に、わらにもすがる思いで参加しました。
なんとか学ぶ場は見つけたのですが、自分が何も知らない、という現実を突きつけられ、激しく落ち込みました。
『君、こんなこともわからずに、来てるんか?経営者って言ってるのか?』
と、先生にどやされる始末。
内心、
「いやいや、素人にちゃんと教えるのが学校だろ、、。」
と思っていたのが正直なところ。
腸が煮えくり返ったりもしましたが、そんなことは言っていられません。
良い同期に恵まれ、学んだことを素直に実践していくことで、次第に状況も改善していきました。
倒産が頭に浮かんだ手取り10万円生活から、経営を安定させていくことができました。それからも幾度か困難な場面に直面しましたが、出会った先生や活躍されている方に個別に会いに行き、相談に乗ってもらいました。
ビジネスのこと、社長とは、リーダーとはなど、参考になる本や考え方をいろいろ教えてくれる方が現れ、当時のことをうまく思い出せないくらい、必死に、がむしゃらにやった結果、業績は向上し、無借金経営になりました。
最悪期を抜け出し、自分の仕事も任せる余裕が出てきたのは嬉しかったのですが、ふと一息つく時間が持てるようになると、心にモヤモヤしたものを感じることが多くなりました。
俺の人生って、ただ頑張るだけなんだっけ?
自分の才能や自分らしさをもっと発揮したいって思ってなかったか?
当時は、よく分からなかったのですが、心から満足していない自分がいるということには薄々気づきはじめていました。
モヤモヤした気持ちを心に抱きながらも、時間があったのもあり、自分の海外での経験や、仕事について、母校や、地元を中心に小学・中学・高校・大学、またはロータリークラブや一般向けセミナーや公開講座などで講演をさせていただく機会がありました。多いときは1ヶ月に2回も講演させていただく機会がありました。
メインメッセージは、
「今、一生懸命になれることを、一生懸命やろう」
とお伝えしていました。
自分自身、中学生から始めた柔道に夢中になり、気づけば12年もやっていました。辛いときの方が長かったですが、一生懸命になれる一つのことを、一生懸命やり続けたことが、振り返ってみると今の自分に繋がっているな〜と思っていたので。
しかし、頂く感想に、いつも胸がチクチク痛むことに気づきました。
そういえば、今の俺って、一生懸命になれているんだろうか?
家族のために地元にもどり、会社に入り、目の前の仕事の忙しさと責任に、いつの間にか自分のことについて考える余裕がなくなっていたことに気づきました。
人のためには動いているけど、自分の一生懸命に対しては・・。
どうだろう?
俺、偉そうに語れる資格があるんだろうか。
それから、
「自分が本当にしたいことって何だろう?」
「自分は何に一生懸命になれるんだろう?」
世界の平和に関わりたい。
そんな総理大臣が言うような、大きなことは出てくるのですが、じゃ、
「資格」も「人脈」も「就職経験」もない「地方在住者」のお前に何ができるの?
考えれば考えるほど、自分には無理。無力だというような気がしてきました。そして、どんどん、よくわからなくなってきました。
どうすれば、もっと自分がやりたいことがわかるんだろう。
そんなことばかり考えていました。
そんなある日、先輩から一通のメールをもらいました。
『外務省が主催する若手ビジネスマンをサウジアラビアに連れて行ってくれるプロジェクトがあるけど、興味ある?』
という謎のメッセージ。
ずっとモヤモヤしていましたから、海外に、大好きなアラブに、無料で連れていってくれる!しかも外務省って・・・。
地方在住者の私には
???????????????くらい
頭に?マークがつきましたが、試験を受けるだけは無料だし、当たればタダで海外に行けるし、(このときは宝くじみたいなものと思ってました。宝くじを買ったことはないんですが・・・。)チャレンジしてみようか。これも何かのご縁かもしれない。
仕事に余裕はあったし、時間はとれる。受けることにしました。
作業着しか着たことがなかったのですが、あり合わせの服でスーツっぽいものを選び、面接のためにいざ永田町にある外務省へ。
ビクビクしながら望んだ面接。
厳しそうな面接担当の方が2名座っていて、机には応募書類とみられる山積みにされた紙の束。
「えっ、こんなに応募者いるの!?候補者いないから困っているって言ってたじゃん・・・。」
面接は英語。全く歯が立たない。
見かねた面接担当の方が、
「アラビア語でもOKですよ」
と言っていただき、さび付いてしまっていたアラビア語にて再度面接。
こちらの方が良かったらしく、ちょっと手応えを感じました。
後日、なんとか合格することができサウジアラビアへ。
そこで今まで出会ったことのない出会いがありました。
なんと、参加者の中に本を書いている「著者」の方がいたのです。
1万部を超えればベストセラーと言われるらしいのですが、なんと15万部を超えるベストセラーを出している。なのに、年齢が自分よりたった一つ上!!(当時30歳)
衝撃を受けました。
20代で本なんて書けるの?
しかも売れていて、海外でも講演していたり、、、。
今までの当たり前や、常識が一気にぶっ飛びました。
地方では、見ることも出会うこともない人との出会いでした。
「本当に本を書いている人って存在してるんだ」
それが正直な感想でした。
サウジアラビアで一緒の時間を過ごし、話をするなかで、
「え?こんな世界があるの??」とビックリするようなことをたくさん聞きました。
「学歴」も「資格」も「人脈」もない「地方企業」出身でも、活躍するステージはある。
「会社に居なくても仕事が回る体制は作れる」
「才能をいかして仕事をすることが最強」
などなど。
その人は、
「学歴がなくても、行動すれば勝てる」
ということについて本を書いている人でした。
この方と会うことで、自分の中に「新しい価値観」が生まれました。
そして、自分の中に現れた質問。
「俺も何かできるのだろうか?」
いや、やってみたい!
自分の才能を発揮して、生きたい!
自分も何かできるかも!
サウジアラビアプロジェクト後も個人的に会い、一緒にいくつかの仕事をする機会もあり、そこからいろんな人を紹介してもらう中で、いままでの自分の価値観とは全く違う価値観で仕事をしている人達がいることを知りました。
それからも、紹介される本を読みあさったり、成功している人に話を聞きに行ったり、東京だろうが、大阪だろうが、仙台だろうが、福岡だろうが、沖縄だろうが、どこでも新潟からセミナーに通いました。それまで以上に会社にいない日が多くなりました。
罪悪感を感じながらも、自分が興味のあることを追求しはじめました。
けれど、同時に疑問も浮き上がってきました。それは、
「すごい話を聞いた。大興奮もした!
けれど、俺、何から始めれば良いだろう・・・。」
この疑問をどうしても解消したかったのですが、なかなか最初のステップがわからなかったのです。
そんな時に、コーチングというものがあることを知りました。
ちょうど、NHKのクローズアップ現代で、「コーチをつける社長たち」という特集をやっていて、タイムリーだったこともあり、コーチをつけ、コーチングを学び始めました。
柔道のコーチだったので、コーチというものがなんとなく想像がつきました。
実際にコーチング会社を紹介してもらい、担当者を質問攻めしていたので、コーチをつける気持ちの上でのハードルは低かったかもしれません。
コーチングを学びながら、コーチをつけることで、「自分の力」 × 「他力」が加わりました。すると、今まで以上に目標設定が機能しだして、日々の仕事が効率化されて、社内の問題が解決していきました。
コミュニケーションスキルが身についたことで、社内の人間関係が改善され、よりいっそう仕事を任せることができ、組織力が高まりました。
一人で悶々と考えていたことがクリアになっていき、行動も加速し、出会う人と良い関係を築けるようになり、人生がどんどん良い方向に進むようになったのです。
積極的に行動していくなかで、メンターと慕う人にも出会う機会がありました。
特に大きかったのは経営コンサルタントの神田昌典さんが主催する「アジアで、あなたの才能を発見する」アジアユニティーというプロジェクトに参加する機会を得たことです。
神田昌典さんとの出会い。
全国、海外からも集まった60名の経営者と交流。
自分の才能って何?
何ができるんだろう?
そんな事を考えながら凄腕経営者の方とふれあう中で、実はうまくいっているすごい人も、”悩みが全くない”というわけではないことに気づきました。
話を聞かせてもらうことが多くなり、個人セッションのような形でお話する機会がありました。そうしたら、周囲の人も驚くような劇的な心理変化があったり、うまくいかなかった社員とのコミュニケーションが改善したり、たった一度話をしただけで、変化を受け取られる人もでてきました。
何より、
「こんなに親身に話を聞いてもらったことは、いつ以来だろう」
こう言われたことが一番嬉しかったです。
なぜかと言うと、僕は人の話が全く聞けない人だったからです。
自分のことばかり話す人でした。
けれど、自分が苦しい時に、一番してもらいたかったのは、自分の話を聞いてもらうことでした。
そして、例外なく、尊敬するメンターやコーチは全て、話を聞いてくれる人でした。
話を聞いてくれるとは、受けとめてくれるということです。
君なら大丈夫と声をかけてくれました。
自分よりも自分の可能性を信じてくれる人がいる。これは、何よりも希望になりました。
衝撃的な出会いから、自分自身を探求していく過程のなかで、思い返してみると、劣勢に立たされている立場から、何度も自分自身を立て直してきました。
日本だけでなく、ヨルダンでは海外の人達に対しても、立て直しから新しい未来をともに創り上げてきたことを思い出しました。
もともとやっていたコーチングに、圧倒的な才能があることに気づくことができました。
その後、今度は私も個別に相談に乗って役に立ちたいと思うようになり、コーチングをし始め、それが顧問契約となり、コンサルティングに発展していくなど、お声かけいただき、上場企業での研修案件に関わったり、参加された70名の前でコーチングのデモンストレーションをするなど、「資格」も「人脈」も「就職経験」もない「地方企業」出身の私には考えられない経験に繋がりました。
3年以上お付き合いのある経営者のクライアントは、出会った当初はとても気持ちが落ち込んでいて、大きな壁に突き当たっていました。そこから、自分の本当に大切にしたいこと、事業の方向性とコンセプト、行動指針を、対話を重ねながら、一人では到達しえないところにまで深く深く明確にしていき、自分が大切にしたいことに沿って、幹部や社員との関係性を再構築、立て直し、新しい可能性にチャレンジする時間を作り、社員教育のための社内セミナーをするなど社員の成長機会を作るサポートをさせてもらいました。売り上げも3年連続で右肩上がりに伸びていき、目に見える成果を得られたと同時に、出会う人も、提携する企業規模も変わり、大きな業界団体の期待の若手として、次世代理事に内定されるなど、出会ったころとは全く違う人になっていくことを支援させて頂く機会にも恵まれました。
この体験は、僕自身も変えてくれるきっかけになりましたし、ある昔の体験を思い出させてくれました。
それは、ヨルダンでの体験です。
青年海外協力隊としてヨルダンに赴任中の最後の試合。
当時のヨルダンで一番強い格上のヨルダン代表選手と教え子の高校生の体重別個人戦、決勝戦。
格上選手の勢いに押されながらも、立ち上がり、危機一髪をくぐり抜けながらの綱渡りの試合。
その接戦の最後に、相手の隙を突き、大技が決まりました!
一瞬、試合会場の時間が止まったかと思うほど、その場にいる全ての人が、息を飲んだ静寂。
勝利はもちろんのこと、文化も習慣も宗教も全く違う人達と、柔道を通して心を通わせ、わかり合い、その結果として共有できたあの瞬間の体験、心の内側が震える感触は忘れることができません。今でもありありと思い出せるほどに、鮮明に脳裏に焼き付いています。
「心の内側が震えた、今でもありありと思い出せる体験に、あなたのやりたいことは隠されている」
私の場合は、それを、ビジネスの世界で共に創る行為が、コンサルティング・コーチングだったんだということに気づくことができました。
同時に、思い出したのは、今は亡き、父の言葉でした。
私がまだ大学生で、いよいよヨルダンに発つというその前に父と二人きりで飲んだときに語ってくれた言葉は、当時はあまりよく理解できませんでしたが、今になると、その意味がじんわりと響いてきます。
「料理人になれなかったこと。それは、少し後悔が残っている」
父は中卒で、料理人になるために上京しました。
しかし、夢を諦めたそうです。
縁のあった会社経営者の下で働きながら電気の技術を身につけたあと、地元に帰り、事業を立ち上げました。当時、地元の高額納税番付にも載るような会社を一代で築きました。周囲の経営者仲間からも尊敬され、社員からも慕われている。地域の福祉施設設立の支援をしたり、柔道畳を道場一つ分寄付してくれたりもしました。仕事も遊びもできる。子供からみても、とても魅力的な父でした。
そんな父の、
「料理人になれなかったこと。それは、少し後悔が残っている」
という告白に、父の本当の気持ちを、垣間見たような気がします。
それは、成功したから言えることだ。
と、言うこともできるでしょう。
成功しなかったら、そんな気持ちにはならないよ。
逆に、料理人になってたとしたら、やらなきゃ良かったと今頃、後悔しているよ。
そう、言う人も実際にいました。
でも、私は、それは違うと思います。
父が語ってくれたあの言葉には、本当にやりきれなかった、自分を信じ切れなかった、努力しきれなかった、後悔の念がこびりついているように感じられました。
父は、闘病中、苦しい状況を乗り越えるために、
「退院したら、ピザ窯を作ろう。あそこの倉庫も改造して、BBQができるようにしよう」
と楽しそうに食についての夢を語っていたそうです。
もう、その頃、父は食事をすることができませんでした。
亡くなるまでの半年、食べ物を口にすることができなかったのです。
あれほど大好きだった食べることを奪われ、でも、食の夢を見る。
それだけ思い入れがあった青年時代の希望だったんだと思います。
もしかしたら、引退後は蕎麦屋でもやろうかと、密かに思っていたのかもしれません。その話を聞いた私は、あふれ出る涙を、こらえることができませんでした。端からみれば成功していた父ですが、悔やむことが全くないわけではないということだったんだと思います。
この話を思い出す時、やはり今、自分が本当にやりたいことをやる。行きたいところに行くことを選ぶことの大切さを感じました。
同時に会社の先行きを見通すなかで、長期的な発展は望めないという市場環境の厳しさが日に日に増している状況でもありました。将来を見据え、役員と話しあい、同時に、
「これからの人生をどう生きていくのか?」
ということに真剣に向き合った結果、事業譲渡と資産売却をし、2017年3月に会社を清算しました。今までにお世話になった取引先の支援もあり、5ヶ月間、きついこともありましたが、会社の清算実務もなんとかやりきることができました。生まれたころからある会社を手放すということに、悲しみを感じずにはいられませんでした。
立て直しの危機的状況の中から、10年経営しましたが、工場経営という環境の中では、本来の自分を100%発揮することはできませんでした。
お金の不自由はなかったのですが、経営のストレスで父以外にも、役員や親戚が癌になっていきました。
これが本当に幸せなのか?
と言われたら、このままの延長線上の未来に希望を感じることができませんでした。
手放した今、
会社のため、従業員のため、地域経済のため、お客さんのためと、
これまで頑張った自分を少しずつ、労ってあげることができました。
この体験から、
経営者が一人で悩み、抱え込むこと無く、心から幸せを感じられるようになることが、本来の会社のあり方だと確信しました。
私のビジョンは、
「リーダーが一人で悩みを抱え込むことなく、愛と安心と自信を実感し、未来に新しい夢を描ける世界」
です。
本ビジョンのもと、経営者のパートナーとしてコーチング、コンサルティング活動をしています。
私は本当に運良く、たくさんの人に恵まれてきました。
辛いときもいつも信じて助けてくれた妻や家族
ビジネスについて手取り足取り教えてくれたメンター
変わるきっかけをくれた友人や、刺激を与えてくれるクライアントの皆さん
私の人生のほとんどは誰かの善意のおかげです。
何度も諦めそうになるときがありましたし、人生をリセットしてしまいたいと本気で思ったこともありました。
一つ一つの出会いの中で気づいたことを行動に移し、何より、自分の未来への好奇心を持ち続けることを忘れなかったことが、今に繋がってきています。
ここまで、恐ろしく長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。これが私の履歴書です。
細かいエピソードを書けば、この3倍くらいになってしまうかもしれません。書けないことも当然ありますし(笑)
ここだけの話は、クライアントさんにだけこっそりお伝えするかもしれません(^_^)
読んでいただいたあなたにとって、あなたらしさを大切にする気づきになったとしたら嬉しいです。あなたとのご縁に、心から感謝いたします。
タイミングが合えば、実際にお会いできることを、楽しみにしています。
松本興太