第三章 僕の名前はMr.スティッカー。
2018年3月9日、オーストラリアに来てから4ヶ月間通った学校を卒業した。
最高の学校にうしろ髪ひかれながら、僕は次なる目的を果たすため、ブリスベンを後にした。
その次の目的とは、セカンドワーキングホリデービザ。
特定の条件をクリアすると、2年目のワーホリビザを取得できる。
その条件というのは以下のようなことだ。
・ 指定された地域で働く
・ 指定された期間働く
・ 指定された職種で働く
・ セカンドビザの申請が1回目
・ 31歳になっていない
✱2019年4月現在の情報です。今後変わる可能性もありますので、各自確認をお願いします。✱
オーストラリアに来る前は、2年間ワーホリで滞在するか迷っていた。ファームなんか行きたくなかったし、日本へ帰ってきたい気持ちも強かった。
でも、日本に帰りたい気持ちは、語学学校の楽しい4ヶ月間で消え去った。セカンドを取らないと絶対に後悔すると思うようになった。
それと同時に、選択肢も欲しかった。
セカンドビザを申請できる条件をクリアしたら、すぐに申請しなくても良い。31歳の誕生日までにセカンドビザを取得していれば問題ない。
逆にすぐに申請して、連続2年間オーストラリアに滞在することも出来るし、一時帰国をして日本から申請する事もできる。
つまり、オーストラリアに滞在もできるし、日本へ帰ることもできる。はたまた、他の国へ行ってから、オーストラリアに戻ってくることだってできる。
セカンドを申請できるというだけで、選べる選択肢は無数に広がるのだ。
オーストラリアの楽しさを知ってしまえば、もう取らないという選択肢は無かった。
ファームに行きたくないという事実は、1ミリも変わらなかったけど。
日本で仕事を辞めてから、4ヶ月間も学校だけ行って、能天気に(色々考えてはいたけど)過ごしていると、元々働きたくないのに、もっともっと働きたくなくなった。
のんびりスローライフをしたいし、あくせく働いて疲れるのも嫌だった。ファームでは英語で働くだろうから、精神的にも相当疲れる事は容易に想像できたし、何よりも、それら全ての何よりも、僕は虫が嫌いなのだ。
特にゴキブリとハチ。彼らには申し訳ないけど、見るだけで不快になる(笑)絶対ファームは出ると思っていたし、なんならブリスベンの街でもゴキブリ様に関しては、毎日見ていた。本当に嫌だった。ハチも刺されたら痛そうだから、怖い。
刺されたことは、無い。
お金を払ってセカンドビザを買えるなら、いくらでも払ってやる!と言っていた。(買うのは違法なので、気をつけてくださいね。)
ただ、3ヶ月間のファームを耐えたら、もう1年、オーストラリアへの滞在が許可される。
そして、それを選ばないなんて事も出来る。
自分で人生を決められる。
そう思ったら、なんだかワクワクしてきた。
人生100年のうちの、たった3ヶ月。アリンコみたいなもんだ。僕はそう思って腹を括った。
学校のクリスマスホリデーに入るあたりから、ファームの情報収集を始めた。
フィリップ(学校の先生)の紹介で、ファームに行っていた日本人の方を紹介してもらったり、Facebookのコミュニティを見てみたり、オーストラリア政府のホームページを見てみたり。
エージェントにも、ファーム行きたくないですぅ…と言いながら、情報を聞きに行った。
目的は、お金を稼ぐ為ではなく、セカンドビザをとる為なので、ファーム選びは慎重に行った。
というのも、ビザが欲しいワーホリメーカーの足元を狙ってくる悪徳ファームも少なくないからだ。
違法賃金で小間使いをしたり、ペイスリップという給料明細をくれなかったり、給料を振込ではなく現金で渡してきたり(脱税の疑いあり)、そもそもセカンドビザが取れるエリアじゃないのに、取れますよ!とか言っていたり。
ちなみに、ペイスリップは、ビザ申請の際に提出する事もあるので、必ずもらうようにして欲しい。
ネットでは情報の善し悪しが判断できない求人が多いので、それはもう慎重になった。
ここまで読んでくれているきみはもう知っていると思うけど、僕はビビりだ。
せっかく決まったファームがもし、悪徳ファームだった…なんて事になったら、ただオロオロしてしまう。
よし、じゃあ次なるファームを探そう!なんて気にはならずに、ブリスベンに帰って、仲間たちとシティで仕事を探して、1年目が終わって、日本へ帰らなければいけなくなる時、ファームを諦めたことを後悔する。
なんて未来を、それはもう太平洋のど真ん中、真っ黒な夜空に北極星を発見するかのごとく、ありありと見ることができた。
それだけは避けたい。もう1年いたいのに、いられない。そんな状況だけは避けたかった。
それから、学校に行きながらファームの情報をいろいろな場所で集めた。最終的には、フィリップに紹介してもらった日本人の方に紹介してもらったところへ行った。
元々はブリスベンからあまり離れたく無かったので、Facebookで見つけた、カブルチャーのいちごファームに行くつもりだった。
今ワーホリ中で、ファームを探している人、ファームジョブをしている人は分かると思うが、いかんせんカブルチャーの良い話を聞かない。もちろん、ファームによっては優良ファームもあるけど。
セカンドを取れなかった人こそ聞いたことないけど、トラブルが多いエリアだという認識だった。それでも、ファームへ行きたくない思いからくる、"ファーム選びの面倒くささ"に負けて、カブルチャーに行きかけた。
そんな僕は結局イニスフェイルに行った。イニスフェイルはケアンズからバスで約2時間南下したファームで有名なエリアだ。
そこを紹介してもらったのだか、そこを選んだのには、"人の縁"という理由がある。
✱ ✱ ✱
ここで話は東京に住んでいた2012年に戻る。
当時僕は建築事業・不動産を扱う小さい会社にいた。僕の上には社長と専務だけ。他には経理の人とデザイナーが1人いる小さな会社。
社長が不動産を、専務が建築(新築住宅やリフォームの現場など)を担当していた。この頃の僕は、インテリアデザイナーを志していたので、仕事は常に専務とツーマンセル。どの現場にもくっついて、勉強していた。
後に、その専務と独立した会社で揉めてしまい、喧嘩別れのようになってしまうのだが。今でも連絡は取っていないが、本当は謝りたい。
その専務とは揉めてしまったが、仕事の面ではかなり尊敬している。それは、今もこれからもずっとそうだと思う。
特に"人の縁"を大切にするところ。
お世話になった人、力になってくれた人、お客様、その家族…周りの人をとにかく大切にする人だった。その姿勢があったから、独立当初から、仕事が舞い込んでいたのだと思う。もちろん専務の実力・デザイン力もあったと思うけど。
僕はあの専務に会うことが無ければ、ここまで人間関係を大切にしようとは思わなかったと思う。それほどに僕の人生に影響を与えてくれた。
僕はそれから専務を見習って、周りの人達、そし出会った人の縁を特に大事にしていこうと決めた。
僕と出会えた人は、何かの理由があって出会う事が出来ていると思う。出会いは偶然ではなく、必然だ。その縁は大事にしなければいけない。
旅で出会う人たちと今でも繋がっているのは、この想いが強いからだ。
それは、オーストラリアに来て、より強く思うようになった。同じ日本人でも、日本で生きていたら絶対に知り合うことは無かったであろう人達。
そんな彼らがいたから、僕はオーストラリアで楽しく過ごす事が出来た。
彼らの中には、もう連絡を取らなくなってしまった人もいるけれど、あの瞬間を共に過ごした大切な仲間達だ。また会った時には、思い出話に花が咲くと思う。
✱ ✱ ✱
そんな想いを大切にしている中、フィリップが1人の日本人を紹介してくれた。名前はケイスケさん。
話を聞いてみると、ケアンズ近く、イニスフェイルのバナナファームで働いている人だった。
そして、バッパー(ワークホステルのこと。仕事を紹介してくれる。)なら紹介できると。
フィリップに紹介してもらって、話を聞いた時はブリスベン近くに行こうと思っていたし、「ケアンズか…遠いな。ありがたいけど、自分で探そう。」と思っていた。
そして紹介してもらった日の夜。
僕は語学学校の、あの好きな子に誘われて、クリスマスパーティーに参加していた。途中で、買い足しが必要になり、別の友達とシティへ。なぜあの子と行かなかったのか、未だに謎である。そして悔やまれる。笑
クリスマスに向けて浮き足立つブリスベンの街。夜ともなればパレードもあり、たくさんの人が街に出てくる。
クリスマスパーティーの日のブリスベン。
この人混みだ。歩くのも大変だった。
しかしその瞬間、たまたま街を歩いていた、ケイスケさんに会った。
立ち止まって世間話をしていると、
「僕も今からパーティーに行くんだよね!それで家を探しているんだけど…どこか分かる?」
という話になった。
そしてその住所を見てみると、まさかの僕らが参加しているクリスマスパーティーだった。
友達の友達が、ケイスケさんだったのだ。
僕はこの時に、この人との縁は大切にしなきゃいけないと思った。
何かあるぞって思った。
この広い地球。ブリスベンこそ小さいコミュニティだけど、1日に2回も同じ人に出会うだろうか。しかも、紹介された当日に。しかも、友達の友達。
これが、僕のタイプの女性なら、恋をしていたかもしれない。(単純)
そして、それから3ヶ月後、僕はケイスケさんにバッパーを紹介してもらう事にした。
語学学校から始めて出る。ブリスベンから1人、行きたくないファームへ行く。その不安の中で、唯一の繋がりだったのが、ケイスケさんだった。
もちろん、とても信用できる人だったし、旅をしながら、自分の足でファームを探したケイスケさんがすごいと思った。
この異国の地で、自分の足で良いファームを探す事がどれほど大変なことか。
それを気持ちよく紹介してくれるケイスケさんに、甘えることにしたのだ。
僕はケイスケさんとの縁でイニスフェイルへ行く事に決めた。そして、この判断は僕にとって最高の判断になったのである。
ちなみに、今でもケイスケさんとは連絡を、取り続けている。ブログでいつの日か、コラボする時が来るかもしれない。
✱ ✱ ✱
2013年3月9日、僕は学校を卒業した。
そして、ファームへ移動する為に準備をする。ケイスケさんに紹介してもらったバッパーのオーナーに連絡。しかし、1週間待っても連絡は返ってこない。
時期は雨季だった。
イニスフェイルは大洪水に襲われていて、ファームへいく事さえもできない。仕事が無い。オーナーはその始末に、てんやわんやで、メールを返す時間も、電話に出る時間も無かったのだ。
ケイスケさんが、バッパーにいる友達に連絡を取ってくれて、イニスフェイルの状況を知ったのだが、仕事が2週間もストップ。ファームで働けずにバッパーを離れる人もいるような騒ぎだったそうだ。
そんな中、他に行くあても無かったので、オーナーから連絡は返ってきてなかったけど、ケアンズ行きの飛行機と、ケアンズからイニスフェイルまでのバスのチケットを買ってしまった。
石橋を叩いて叩いて渡るタイプの僕からすると、これは結構な賭けだった。もし、バッパーに行ってベッドが無かったら・・・仕事が無かったら・・・ケイスケさんは、大丈夫と言ってくれていたが、内心、不安で不安でどうしようも無かった。
オーストラリアにきてから遊びほうけていたので、余分なお金もない。
語学学校に行っていた時は、バイトもしていなかったので、貯金を削って生活していた。そのツケを払う事になるかもしれない。
最悪、仕事が無かったらセカンドは諦めて、ワーホリも諦めて、日本へ帰ってやろうかなって。そんな事も考えた。「わりぃーわりぃー!帰ってきちゃった!」なんて笑って言えば、地元の友達も、親も兄妹も、また迎え入れてくれるかなって、考えた事もあった。
でもそれは逃げてきたオーストラリアから、また逃げ出す事になる。
日本から逃げてオーストラリアに来て、オーストラリアから日本にまた逃げるなんて。そんなの世界中どこに行っても逃げきることなんかできない。
そりゃあそうなんだよね。
だって何から逃げてきたって、日本からでもなく、職場からでもなく、家族からでもなく、自分からなんだから。
僕が僕として生きている限り、自分から逃げ切る事なんてできない。
逃げる自分を一生抱えて生きいかなければならない。逃げ続ける自分を無視し続けられるほど、強い人間でもない。そんな強い人間なら、そもそも逃げてもいないだろう。
だから、自分から逃げるのをやめた。
チケットを取って、ダメならダメで腹括ろうって、次に行けばいいんだって。
そして2018年3月24日、僕はイニスフェイルの地に降り立った。
ブリスベンからケアンズまで飛行機で約2時間。そこからバスを乗り継いで、約2時間。オーストラリアで初めて、ブリスベン以外の街の景色に触れる事ができた。
しかし、依然として雨季。
イニスフェイルからは歓迎されないかのような、しとしと雨の中、バス停からバッパーまでスーツケースを引っ張った。
バス停から歩いて10分。
バッパーに到着した僕は、その足でブリスベンに帰る事を心に決めた。いやいや、帰ろうと本気で思った。
着いた日は土曜日。そして雨。
仕事もなく、遊ぶ場所もないイニスフェイル。バッパーは完全にクラブと化していた。
爆音のミュージック。
踊るヨーロピアン。
転がるビールビン。
汚い吸い殻。
そして、初めてでもその匂いで分かった。
マリファナだ。
不安で完全に涙目。雨に濡れたパーカーとデニムにスーツケースで入り口に立つ日本人に向けられる、ヨーロピアンのたくさんの目。
こんなところに3ヶ月も住めるか!
明日のバスで絶対帰る。ブリスベンに戻る。あの綺麗なシェアハウスに戻る。
心の中には、逃げる自分でいっぱいになった。
オーナーも見当たらず、玄関に立ち尽くしていると、オージーの女性に声をかけられた。その女性は、オーナーの妹だった。彼女もオーナーと共にバッパーを切り盛りしているらしい。
この時の僕の英語力なんて、オーストラリアにきた時からミジンコほどしか伸びていなかったけど、人間どうしようもなくなると、すごい能力を発揮するらしい。
彼女はもちろんオージーだったし、初めましてだったのに、彼女の言っている事がほぼ理解できた。あ、これ英語力伸びてたのかな。(って今書いてて気づいた。)
気が強い人で、口調も強かったからか、同じバッパーの日本人女性は嫌っていた人も多かった。
でも、そんな彼女も優しいところもある。
到着したその日に、
「私が会ってきた日本人の中で、あなたは英語が一番うまいわよ。友達の日本人なんてまるでダメ。何言ってるか分からないもの。」
こう言ってくれた。
これが、不安げな僕の緊張を和らげようとしてくれた優しさなのか、本当にそう思っていたのかは分からないけど、その一言でかなり救われた事は間違いない。
ネイティブに、英語うまいね!って言われるうちはまだダメだ!なんて言う人もいるけど、素直に嬉しい。僕の母国語は日本語だし、それに誇りを持っている。日本人である僕にとって、英語が第二言語である事は変わりない。だから、褒められたら素直に嬉しい。
僕はそんな彼女に恋をして・・・いない。
そんな彼女の第一声は強烈なものだった。
「あんた誰。」(意訳です。あの時の雰囲気はマジでこうでした)
「あ、こーたです。ニック(オーナー)に今日着くって連絡したんだけど・・・」
「知らない。聞いてない。ほんと?」
めっちゃ疑われた。
本当に帰りたかった。もう嫌で泣く寸前。マジで。
そう言われても、言ったものは言ったのだからという気持ちもあったので、メッセンジャーでのやりとりを彼女に見せる。
これがその時のメッセージ
メッセンジャーの全部のやりとりを見た彼女は、納得してくれたのか、そそくさと手続きを始めてくれた。
ボンド(敷金のようなもの)と1週間分のレント(家賃)を払い、部屋へ案内してくれた。この時の部屋がもし、僕が過ごした部屋でなかったら、僕はブリスベンへ帰っていた事は間違いないだろう。
僕がいたバッパーは、ほとんどがヨーロピアン。イギリス人が約半数、他にはイタリア、フランス、スペイン、スウェーデン、日本、韓国etc.
MAXで80人入るバッパーで、一部屋の人数は8人。さながら部活の合宿のようだった。
その中で、僕は割りふられた部屋は、一番ダントツで、それはもうバッパーのバの字が霞むくらい静かな部屋だった。
うるさいところが嫌いなので、クラブも嫌いだし、日本だったらパチンコもゲーセンも嫌いだった。そんな僕の唯一の光が、その部屋だった。
バッパーへ入居当時、日本人は僕を入れて4人。そのうちの3人が同じ部屋だった。他には、スパニッシュ・イタリアン・フレンチ・チャイニーズ。
その誰もが、パーティーはあまり好きじゃない、クラブ行かない、静かなところが好き。な人たちだった。
特に、同じ2段ベッドを共有していたスパニッシュの子は、ずっとベッドにいるし、でも話しかけたらめっちゃ英語うまいし、優しいジェントルマン。しかも同い年。しかもしかも、誕生日が1日違い。そんな奇跡ありますか。名前はラモン。
ラモンも単独行動を好む僕と同じタイプ。彼がパーティに参加していないのを見ていて、「あ、参加しなくていいんだ。」って思えた。
ラモンは僕の救世主。
バッパーがファッキンシットって言いながら、クレイジーって言いながら、バナナファームで頑張っていた彼。先に出て行ってしまった時は、本当に寂しかった。
土曜日に着いて、仕事がいつゲットできるか分からないと言われていたけれど、運良く次の日に、「月曜日から仕事あるから、長靴買っといて!」とオーナーに言われた。
紹介してくれたケイスケさんは、バナナファームだったし、イニスフェイルはバナナで有名な土地だったので、てっきりバナナファームだと思っていた。
しかし蓋を開けてみたら、パパイヤファーム。
予想の斜め45°でもない、58°くらいの宣告に、かなり戸惑った。
パパイヤファームなんて聞いたことなかったし、そもそもパパイヤって見たことが無かった。その作物も想像できないのに、仕事を想像できるはずもない。
不安だったから、googleで検索してみたけど、パパイヤファームの情報なんかまるでない。でもこの時知ったのは、日本にもパパイヤ農場があるってこと。
同じパパイヤファームのイギリス人と、イタリア人を紹介してもらって、いよいよ月曜日から仕事は始まった。
起床は5時。バッパーからファームまでは、オーナーの送迎があるので、車はいらなかった。
6時にバッパーを出発して、7時から仕事開始。9時に朝ごはん休憩があって、12時半にランチ。4時半に仕事が終わって、5時頃バッパーに戻ってくる生活だった。
ここでもラッキーだったのは、バナナファームより仕事内容的には楽だけど、同じ時給で働けるところ。
バッパーの部屋といい、パパイヤファームといい、運が回ってきたと思った。
それでも、パパイヤファームの仕事はハードだった。早起きや、体力的・肉体的には、だんだんと慣れてきたけど、精神的にきつかった。
バッパーからいろいろなファームへ派遣されるので、僕が行っていたパパイヤファームには、日本人は1人。今思うと、語学学校の4ヶ月よりも、ファームで過ごした3ヶ月の方が英語力が伸びたから良かったけれど、仕事を始めた当時は、英語の理解出来なさが本当に辛かった。
まず、仕事の指示が理解できない。
〇〇やって!はやく!って言われても、その〇〇が分からない。単純作業だから、他のワーカーを見て真似したら出来るようになったけど、スピードで言えばワンテンポ遅れていく。
自分で言うのもなんだけど、根が真面目(笑)だから、ファームオーナーの指示さえも出来ないのが悔しかったし、どうしようどうしよう…分からない!って1人で泣きそうになった。
あの時の顔を自分で見てみたい。
そんな僕に優しく仕事を教えてくれたのは、スウェーデン人の男の子だった。彼は僕が入った2週間くらい前から、いるらしかった。
2週間もいると、仕事流れは理解できるようで、オーナーの指示を聞く前に動けるくらいになっていた。彼が英語が堪能だったこともあって、今思うと、オーナーから仕事を教えてやれって言われていたのだと思う。
パパイヤピッキングはこんな中でやる。
ピッキングされたパパイヤ達。
ちょっと黄色く色付いたものを収穫する。
✱ ✱ ✱
バッパーは部屋こそ静かだけど、外の音が遮断されるわけではなかったので、うるさい、汚い、人多いの3拍子。
ファームは、英語分からない、仕事は遅い、怒られるの3拍子。
もう分かるよね。
ブリスベン帰りたかったぁ…。
でも、同時にポジティブなこともあった。
それは「2週間頑張れば、あとはいけるな」という直感。謎の自信。やってやる!という意地。
セカンドビザから…いや、今の出来ない自分から逃げたくないという、強い思い。
まずは文句を言わずに2週間頑張ろうと思った。2週間耐えれば、あとはいける。逆に2週間経って、もう嫌だ!って思ったら、ブリスベンに帰ろうと思った。
それは逃げではなく、やった結果、自分には合わなかった。というもっともらしい、自分を納得させられる理由でもあった。
この時、励ましあったのは、同じ日にバッパーに入居した韓国人。僕より2つ年上で、別の地域でバナナファームを経験していた優しい兄ちゃん。
キムチが大好きで、ケアンズのアジアンスーパーから、ダンボールでキムチを買ってきていた。
彼もパーティー嫌い、うるさいところ嫌い、大人数も苦手。かなり気が合った。
バッパーに入った当初、一緒飯を食べていたし、2人で川辺でビールを飲んだり、将来の話をしたりした。
お互いに2週間頑張ろう!と励ましあって、頑張っていた。
そして2週間後、彼は国へ帰った。
彼は耐えられなかった。
自慢するわけではないが、アーミー上がりで、しかもバナナファーム経験者、ガタイも良くて、気もいい兄貴分の彼が耐えられなかったバッパーで、僕は3ヶ月と少しの時間を過ごしたのだ。
これは今でも僕の大きな自信のひとつになっている。
僕は2週間後に、その直感が自分の心の中で、事実になったことに気がついた。汚くて、うるさくて、人が多くて、しかも自分だけの空間なんてものは存在しない、このバッパー生活に、不思議と愛着があるような気がしていた。
自分のスペースは、2段ベットの上の段の寝る場所だけ。住めば都。なんて言うが、それは本当かもしれない。って当時の日記にも書いてある。
実際は、都なんて煌びやかな世界ではなかったのだけれど。
2週間もすると、ファームでの仕事にも慣れてきた。早起きに体も慣れて、1日のスケジュールが体に染みてきた。
仕事の流れも把握して、ある程度先が読めるようになってきたのもこの頃。
しかし、2週間目が終わる木曜日、僕の慣れ親しんだポジションが変わることを告げられる。これが悪夢の始まりだった。
今までの僕のポジションは、ピッキングされてきたパパイヤの茎を切って、洗うために並べ、洗った後に、傷がつかないように保護剤をかぶせるポジションだった。ポジションに名称は特にない。
ひたすらの単純作業に眠くなることもあったけど、暑いイニスフェイルの土地に、水を扱うポジションは悪くなかった。
そして、新しいポジションはスタッキングだった。英語でStacking。スタックは英語で、積み重ねると言う意味だ。
洗って、保護剤を被せたあと、オーナー家族が出荷用にパッキングをする。そのパッキングされたパパイヤを出荷用パレットに積み重ねていくのが、僕の仕事になった。
スタッキングの仕事は、積み重ねていく意外にも、洗う前のパパイヤの茎を切る作業と、パパイヤの水洗いも含まれる。
ピッキングは別のワーカーの仕事だったので、シェッド(建物)内のスタートは茎切りからになるのだ。それが進まないと、パッキングもスタッキングも何も無い。
そしてもうひとつ。出荷の際にパパイヤひとつひとつにシールを貼る作業もある。これが果てしない。
「スタッキングの極意は、積むことにあらず。シール貼りである。」
という名言を僕は残したい。
スタッキングはとにかく正確さとスピードが要求された。それもそのはず。パッキングをオーナー家族3人でやるのに対して、スタッキングは僕1人なのだ。
彼らの3倍のスピードで仕事をこなさなければならない。そうしないと、パッキングされたパパイヤ達がレールの上で大渋滞を起こしてしまう。
レールを開けていかなければ、パッキング作業がとまる。つまり、出荷量は減り、ファームの売上に直結する事となる。
これは大変な仕事だと思った。
でも何より大変だったのが、英語だ。
今までのポジションでは、単純作業の繰り返しだったので、仕事を覚えてしまえば、特に難しいことは無かった。
時折飛んでくる指示も簡単なものだったし、特に苦労はしなかった。
しかし、スタッキングはそうもいかない。
難しい事は2つ。
1つ目は、パパイヤのオスメスを見分けなければならない。そもそもパパイヤにオスとメスがあることなんて知らなかったし、慣れるまでこれは大変だった。
2つ目は、シールと積み方の指示を毎回聞かなければならないところだ。
パパイヤのオスメスの見分けに関しては、やっぱり2週間もしないうちに、分かるようになる。
まずそもそも、なぜオスメスを見分けなければならないのか。
それはメスに貼るシールを都度変えなければならなかったり、メスだけでパッキングされるので、メスだけで積んでいかなければならないからだ。
オスに比べて、メスは圧倒的に少ない。
ひとつの箱に、オスのパパイヤなら10〜12個詰められる。メスなら6〜8個ほど。その箱が、オス約30箱に対して、メス1箱という物量だ。
しかも、メスのパレット(パパイヤを積んでいく木の台)を毎回作るだけならまだしも、その量によって、オスを積んだその上に、メスを積めという指示がいきなり飛んできたりする。
オスの箱たち。
奥はメス。
メスの箱たち。FはFemaleの意味。
数を数えて、メスならFと書く。
✱ ✱ ✱
積む段数や個数は決まっているので、それをオーバーしてはならない。かといって、メスだけ余らせてしまってもいけない。
というのも、出荷先がいくつか分かれていて、それによってオスの中でも貼るシールを変えたり、箱に被せる蓋の色を変えたりしなければならない。
つまり、あと何段積めて、あと何個積めて、今オスがこれだけ積んであって、さらにレールにはこれだけの数があって、そして今まさにパッキングをしているオスとメスの箱の数がこれだけあるから、あと〇個積める。
という事は、これ以上、あの色の箱にメスをパッキングしてしまってはダメだ!もしくは、あの何箱パッキングしてもらわなければダメだ!
というのを、どこの出荷先の物なのか指示を聞いた後、逆にこちらからオーナーに告げなれけばいけない。
箱の種類によって、積み方も変わる。
最終的に積まなければいけない箱の数も変わるので、都度確認が必要。
✱ ✱ ✱
相手はオージー。日本語など微塵も通じない。
貼るシールの色、ダンボールの色を頭で計算しながら把握しつつ、彼らの3倍のスピードでシール貼りとスタッキングをこなし、さらに、後オスが何箱積めるのか、メスが何箱積めるのかを指示しなければならない。
大変さを誇示するわけではないが、この大変さを分かって頂けるだろうか。
全て英語でやることを想像して欲しい。
前述したように、出荷先が変わるので、どの色の箱を積むのか。シールはどれを貼ればいいのか、都度英語で指示を仰がなければならない。
「分からなかったら聞けよ!」と言われるので、「分からない。もう一度言ってくれ。」と言うと、「F*UK」で返ってくる。
負けじと日本語で、うるせぇって言ってたけど。笑
でもこれが本当に辛かった。
英語が理解できない。言葉が理解できずに、怒られる。
お前ら、日本語で言われたら分かるのかよ!理不尽だ!と思いながらも、英語圏の国でそんな事を言っても仕方がない。
自分の実力不足を、嫌でも痛感させられる。
僕はワーホリに英語を求めてはいなかったけれど、やっぱり英語って必要なんだなって、心の底から思った。
と、そんな事を言いながらも、3ヶ月を無事クビにならず過ごせたのは、僕に向いている仕事でもあったからだ。
まず、単純作業はゲーム感覚で出来るから好き。
単純だからこそ、スピードが求められる。単純だからこそ、そのスピードを速められる点も限られている。そこを見つけて、突き詰める。それが楽しい。
そして、箱の数を数えたり、単純作業の中でも頭を使うから、飽きないのだ。計算間違いをして、怒られることもよくあったけど、逆にオーナー側が数を間違えることもあるし、そこは気にしないようにした。
パパイヤの茎を切るのも、洗うのも、シールを貼るのも、積むのも、僕にとってはゲームになった。
おかげで、2ヶ月を過ぎた頃にはオーナーよりも速くシールを貼れるようになったし、イギリス人ワーカーから呼ばれたあだ名は、「Mr.スティッカー」
*スティッカーは英語でシールの意味
あの時に、パパイヤにシールを貼る選手権があれば、間違いなく世界レベルで優勝出来た自信がある。
ちなみに、「シールの貼り方の極意は、貼る瞬間にあらず。シールのロールの持ち方と、台紙からはがす瞬間にあり。」
という名言も残したい。
シールによって、形がかわる。形が変われば、台紙からの剥がし方も変わる。同時にシールが変われば、ロールの大きさも変わる。
いかに速く貼る為に、どうロールを持つのか、そして、どう剥がすのか。これが大事だ。ぜひ覚えておいてほしい。
そんなMr.スティッカーも、3ヶ月を終える頃になると、オーナーから可愛がられるようになった。
「ヘイ、スティッカー、ファームが終わったらどーすんだ?」(✱オーナーにはスティッカーと呼ばれてないので、ここはフィクション。呼ばれたかった想いを込めて。)
「ブリスベンに帰って仕事を探すよ。」
「もし、仕事が無かったら、うちに戻ってきていいんだぞ。」
そんな事も言ってもらえた。
ファームを始めた時は、いつクビになるのかビクビクしていたけど、Mr.スティッカーと呼ばれるまでに至った僕の仕事をしっかり見ていてくれた事が嬉しかった。
思い返すと、僕だけ仕事に呼んでくれた事もあったり、給料が少なくなるからと、洗車の仕事をくれた日もあった。(パパイヤの仕事が無かった時。)
ファーム側にとっても、初めての日本人。しかも他のワーカーとは違って、英語を理解しないし、仕事も遅かった。それなのに、目をかけてくれて、最後までしっかり働かせてくれた。
F*UKもたくさん言われて、怒られて、もうセカンドを諦めて帰ろうかと思う事もたくさんあったけど、今思うとすごく良い経験をした。
そんな環境にいたから、語学学校に通っていた4ヶ月よりも、ファームで過ごした3ヶ月の方が英語も伸びた。
それは、ファームの後のひとり旅で、実感することができた。英語で困ることが無かったのだ。
この話は、ひとり旅の章で話したいと思う。
そして、2018年6月27日、僕のファーム生活が終わった。3月26日からぴったり3ヶ月。実働日数は45日。
日本では絶対にできない経験を胸に、僕はイニスフェイルを出た。
バッパーのオーナーと妹にも、ハグで送り出され、オーナーもまた戻ってこいよの一言をくれた。
妹は、すごく寂しがってくれたし、辛い事もあったファーム生活も全てが報われた気がした。
後は、無事にセカンドビザを取得できるのか。しかし、それも杞憂に終わった。
旅を終えて、ブリスベンに戻ってきた7月某日、セカンドビザの申請をした。そして、申請をしたその直後、セカンドビザを取得。
僕のファーム生活はここで初めて、終えることが出来たのだ。
長かった3ヶ月。短かったとは言えない。それほどに濃い3ヶ月だった。
今となっては、僕の大きな自信のひとつであり、財産だ。
もう、ファーム生活には戻りたくはないけど。笑
そして、セカンドビザを買えるようになる日が来たら良いなと思うけど。笑
まぁそんな日はおそらく来ないと思われるので、これからセカンドビザを取得する人には、月並みな言葉だが、一言送りたい。
日本では絶対にできない経験。農場の仕事もそうだけど、多国籍で働いたり、日本語以外で働いたり、ファームならではの絶景を見れたり、野生のカンガルーを見れたり。時にはパパイヤをこっそり投げて、他のワーカーと遊んでみたり。
それの全てが、自分の財産になる。大きな経験となり、自信となる。
辛い事もあるだろう。不安になる事もあるだろう。でもそれを全部包み込める大きな人になれる。
だから踏ん張れ。頑張れ。オーストラリアに来れたきみなら、絶対に乗り越えられる。
僕は、応援している。
こんな言葉で、三章を締めくくろうと思う。
✱ ✱ ✱
第四章 ▷
✱ ✱ ✱
第三章、いかがでしたでしょうか。
ファームは僕にとってかなりの挑戦でした。毎週カウントダウンをしていたし、早く終わって欲しかった。そんな3ヶ月も、長い人生でみたら一瞬。こうして自分にとっての大変な経験も、良い思い出として僕を作っていくのだなぁと。今はそう思えます。
ファームの様子は、ブログでも細かくまとめています。こちらも良かったらご覧下さい。
✱ ✱ ✱
この本(note)やこの章の感想をTwitterやInstagramで呟いていただけると嬉しいです。全てRTしたいですし、ぜひリプでお話ししたいです。
この本をにきっかけに、ワーホリに悩む人や頑張りたい人、頑張っている人etc.ワーホリや海外へ行く、たくさんの方と繋がりたいと思っております。
ぜひ、一言で良いので、感想等を頂けると幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。
✱ ✱ ✱
こーた
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