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SS ③ 「僕は愛用の傘を広げない」
僕にはお気に入りの折りたたみ傘がある。とても軽いのに拡げると大きくて、しっかりと身体をカバーしてくれる。何より素材がすばらしい。雨を受けると色が変わるのだ。それも温度によって違う色に。夏の夕立では朝顔の花のような爽やかな青。冬の冷たい雨では穏やかな橙色に。
働き始めて最初の給料で購入。当時の僕には、ちょっとした勇気がいる値段だった。仕事カバンに折りたたみ傘を入れているのが活動的な営業マンみたいな気がしていて、見た目も格好良い物を探して手に入れた。それほど珍しいものではなかったけれど、老舗百貨店の傘売場まで行ったことをよく覚えている。店員さんから「最新の素材を使っていて、男性女性を問わず人気の品ですよ」との説明を聞き、目をつけた自分を褒められたような気がしたからだ。
この傘をさすと、なんだか注目されているようで嬉しかったし、仕事の出先での急な雨にカバンから取り出して広げると、「オシャレだね」なんて同僚から言われて、悦に入っていた。
休みの今日は、バックパックにこの傘を入れて北関東の山にきている。トレッキング向けの渓谷沿いの道を登っていく。5月の眩しい陽射しが木陰に入るとまばらになるのが楽しい。滝の近くにやってきて、そのしぶきを傘を広げて受けてみる。綺麗な青やエメラルドグリーンが表面に散らばる。お昼の弁当を食べる場所を探していると、サーっと雨が降ってきた。一度畳んだ傘をパッと拡げると、青紫に染まる。楽しくてしようがない。
楽しい休日を過ごして自宅に帰り、傘を丁寧に拭いて、乾かしてから仕舞う。もう、この傘は手に入らないから。この傘だけじゃない。東京では雨傘を売っていない。地球の水循環を人間がコントロールできるようになって10年。雨は貯水池のある地域にしか降らない。東京では雨の日はこない。でも、僕の傘は日傘にするには勿体無いのだ。