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SS 29 「古書店にて」

さくら並木の古書店街。何年振りだろうか。ふらりと入った店の棚に古びた小説を見つけた。「ああ、中学生の時に好きだったお話だ」

懐かしい。手にとって開き、ぱらぱらとめくっていく。奥付を見ると初版だ。そこに小さな鉛筆の落書きがある。「あっ、まさか」

この落書きを描いたのは僕だ。これは僕が中学生の時に繰り返し読んでいたあの本だ。大学に入る前に本棚を整理して、古書店に売った。その中にこの一冊もあった。それが巡りめぐって、いまここにある。

驚きと共に手の中のハードカバーをじっと眺めると、当時の思い出が溢れて来た。人間の記憶とは不思議なもので、長い間忘れていたことが一気に浮かび上がる。もう一度開いて、落書きを見て、棚に戻した。

僕は70歳。そして、末期癌を患っていて、医師から余命宣告を受けている。今日はたぶん最後の外出になるだろう。なぜ古書店街に来たくなったのかわからなかったが、あの小説は懐かしい思い出をくれた。それを土産にして、病院に帰ろう。

もうページも焼けて色が変わり、見た目は悪いけれど、あのお話はとても良い。手に取ったどこかの誰かをきっと楽しませてくれるだろう。

店から出ると桜の花びらが舞っていた。

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