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SS 28 「ツルツル」
いつもの帰り道、なんとなく惹かれる気がして右側の横丁に目を向けてみた。奥の方に見た事の無い看板が出ている。なんだろう、と近づくと、「冷やかけ蕎麦専門店」とある。無類の蕎麦好きである僕は、俄然興味が湧いた。
小さめの暖簾をくぐって引き戸を開ける。中に入ると10坪ほどの小さな店。2人がけの小ぶりなテーブルが8台。半分ほど先客が座っているが、皆ひとり客だ。なんとなく暗い表情でこちらに目を向けてくる。ちょっと気持ちが引いたが、そこにダシの効いたそばつゆの匂い、ほのかに蕎麦の香りがする。ああ、旨そうな匂い。つい、空いた席に座ってしまった。
メニューは冷やかけ蕎麦しかない。早速注文。こだわりの蕎麦屋は普通はせいろの蕎麦に力を入れる。その方が蕎麦の香りが良くわかるし、ツルツルとした食感も味わえるから。しかし、ここは冷やかけ蕎麦専門店。一体、冷やかけ蕎麦とはなんだろう。どんな蕎麦が出てくるのか。
数分で運ばれて来た。薄い藍色の丼、冷たいつゆの中に蕎麦がある。なるほどそういう事か。早速割り箸をパキンと割って、食べ始める。ズズッと一口。うん、うまい。喉ごしを楽しむようにそのまま飲み込む。ツルツルと食べ続けられる。
それにしても、この蕎麦は長い。口の中に運び続けるが、切れ目が無い。噛まずに飲み込むのが粋な江戸蕎麦の食べ方、なんて言うけれども限度がある。噛み切ろうとしたところ、切れない。異様な弾力で前歯で切ることができない。奥歯で噛んでも同じだ。なんなんだ、これは。胃の中の蕎麦と丼の中の蕎麦が繋がっている状態。已むを得ず、もう少し食べ続けるがいっこうに切れ目が無い。店員にハサミをくれと言いたいのだが、この状態では喋れない。目線を店員に向けると、うっすらと笑っている。周りの客は蕎麦を口から垂らしたまま、悲しみの目線を向けてくる。全員そうなのか。
なんでこんなものを食べさせているのか。さっぱりわからない。苦しみながら、もう吐くしか無いと決めて、指を口に突っ込もうとしたら、店員が血相変えて近寄って来て、信じ難いことにテーブルの下で手を縛られてしまった。
カラカラと戸が開き、新しい客が来た。「頼む、この異常に気づいてくれ」と目線を送るが、鼻をクンクンとさせて唾を飲み込んでいる。ああ、僕と一緒だ。