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SS87 「音が気になる」
隣の部屋、どんな奴が住んでいるのか。
先月引っ越して来たマンション。1DKでそんなに広くは無いが、住みやすい。勤務先からも近くて、近所には大きいスーパーもあって便利だ。夜も静かで言うことなしのようだが、一つだけ気になることがある。
隣の部屋の住人は朝が早い。恐らく4時頃に起き出して、5時過ぎには出て行く。部屋の壁は厚みがあって、話し声やテレビの音なんかは漏れて来ないのだけど、クローゼットやドアの開け閉めの音は伝わってくる。その音で目が覚めてしまうのだ。もう一度眠るのだけど中途半端で、ぐっすり眠った感じがしない。僕もかなり不規則な仕事なので他人に言えたものではないが、それだけにゆっくり眠れる朝にはこれが辛い。
しかし、顔も何もわからない。生活のリズムが全く異なるようで、廊下でばったり会うことも無い。最近のマンションはどこもそうだが表札も出していないから名前も知らない。管理事務所に聞いても、個人情報保護にうるさい今の時代、教えてくれないだろう。
バタンと隣の玄関ドアが閉まる音がした。今朝はまた早いなあ。ガタガタ音がしていたが、少し内側から壁を伝って「バン」と大きな音がした。内扉を閉めた音だろう。うるさいな、何をしてるんだ。今度は壁をドンドン叩いてくる。なんなんだ。しかし、なんだかおかしい。「ドドド、ドンドンドン、ドドド」と繰り返している。あっ、これモールス信号のSOSじゃないか。
勇気を出して、壁を叩く。叩く音が返ってくる。まだ、管理人がいない早朝。玄関を開け、隣の玄関ノブに手をかける。鍵はかかっていない。扉を開けると男が立っている。驚いた顔でこちらに振り返る。内扉の向こうから声が飛んで来た。「助けて!」
男の両手を見る。刃物は持っていない。よし、いけそうだ。向かってくる相手をかわしながら廊下に出し、体を入れ替えて背後から組み伏せる。僕は元自衛官、徒手格闘術を身につけている。「警察に連絡して」と中に向かって声をかけると背の高い女性が現れる。玄関に落ちている携帯を拾い、警察に電話した。
「本当にありがとうございます」彼女は市場で働いていて、あの男は同僚。自転車通勤しているのだが、車を持っているあの男が「たまには乗せてあげよう」と前日に言って来たそうだ。そうしたら、部屋まで迎えにきてしまい、あんなことになったと。男が襲ってきた時に、思わず携帯を投げつけてしまい、電話ができなくなったらしい。
警察の聴取が終わったので、着替えてから会社に出勤する。信じられないが、まだ定時に間に合う時間だ。今日の職場は平穏な一日で、普通に仕事をこなし、部屋に帰ってくると彼女が待っていた。「お礼をしたいのですが、恥ずかしいのですけどあまりお金を持っていなくて。職場で買った果物なんですけど、受け取ってください」
ちょっと迷ったが、受け取った。それ以来、彼女は何回か果物を持って、部屋の前で待っている。「ありがとうございます。もういいですよ。大したことしたわけじゃないんで」
普通なら、ここから親しい関係になるところなのかもしれないが、そうはいかない。僕は彼女の顔を見たときから気づいている。彼女はC国の工作員の疑いがある人物だ。僕は政府の調査機関に勤めている。彼女は入国後に一度所在がわからなくなっていたが、こんなところにいたとは。
まさかとは思うが、彼女は僕に接触するために身元がバレるのを承知の上であの事件を自ら仕掛けたのかもしれない。そう思うと全く気が休まらない。しかし、このことは上司も知っており、隣人の動静を見張れと言われている。引っ越すこともできない。
突然、壁から音がする。「ドドド、ドンドンドン、ドドド」
うわ、どうすりゃいいんだ。