離れないよ
入学式が終わり、クラスで簡単なガイダンスを受けて、十二時少し前に学校を出た。
ガイダンスは三十分くらいで終わったから、親と一緒に写真を撮っている子がパラパラと何人かいた。
写真を撮っている人達を横目に校門へ向かう。満開の桜から落ちてくる花びらを浴びながら校門を潜り抜けた。
友達もできて、一緒に写真を撮ったが、イヤホンを落としたせいで、先に帰ってもらうことにした。どっちにしても電車に乗るみたいだし、方向が違ったからよかったかもしれない。
ポカポカとした光が何にも遮られず優しく体を温める。
そう言えば誰だろうか、事務室の人が言っていた花束を持った女の子とは。イヤホンを拾って届けてくれたお礼を言いたいけど、今から探せるわけないしな。
そんな事をグルグルと頭の中で考えていると、前から強い風が吹いた。目にゴミが入らない様に、自然と左を向いた。
その時、道の反対側で公園のベンチに花束を置いてその隣に座る女の子を見つけた。反対側に渡って小さな公園に入って、彼女に声をかけた。
「となり座っていい?」
「あっ…。はい」
そう言って彼女は、隣に置いていた花束を抱えた。
小さな公園に一つしかないベンチに俺と彼女は並んで座ることになった。
特に話をするわけでもなく、公園の真ん中に咲く桜が散っていくのを眺めていた。
多分、イヤホンを拾ってくれた子だからと思って、声をかけてみようと思ったけど、会話が無いのは気まずい。
でもきっとこういう、小さな出会いが新しい春の始まりなのかもしれない。
柔らかい日が差す真っ青な空に、桜が流れているのをよく覚えている。
「家、この辺なんですか?」
「何で分かるんですか?」
「あ~。魔法使いなんで」
彼女はフフッと少し笑って、花束で顔を隠した。
「あと、さっき黒のイヤホン拾いましたよね?」
驚いたのか、花束を顔から離して、目を丸くしてこっちを見ていた。
「なんで知ってるんですか⁉」
あまりの良いリアクションに、笑いながら俺は言った。
「俺のイヤホンなんで」
「は~。そういうことか」
少し背もたれに寄りかかって、彼女は落ち着くように何度か深呼吸をしていた。
「面白かったからこれあげる」
そう言って花束の中から、茎の先に紫色の花が沢山ついた花を何本かくれた。
「これ何の花?」
「スターチスって花。花言葉は、知識とか上品って意味」
「俺にピッタリだな~」
「是非とも、そうなってくれると嬉しい」
「初対面なのに言い過ぎじゃない?」
「別にいいでしょ?」
「あ~。寒すぎ~!」
「そりゃあ、冬だし。花屋の花も枯れそうな寒さだね」
「そんなことが聞きたいんじゃないし、うちで売ってる花は枯れません~! 冬に咲く花もあるんです~!」
「あっ、そうなのね~。てか、寒いなら制服の下に、ズボンでも履けば?」
「そんな意見ならもういいです~!」
「的確なアドバイスだけどな~」
「ねえ!さっき、誰かさんが会計の時に財布忘れたからって、チョコパイとオレンジジュースのお金貸してあげたこと忘れてないよね」
「忘れてないよ」
「優しくない男からは、ぜったい明日、返してもらうから~」
「はいはい」
「忘れないでよ」
そう言ってマックから出た俺たちは、駅まで並んで歩いていく。
まだ、六時を過ぎたくらいなのに、もう外は暗くなっていて、駅前のクリスマスイルミネーションがやけに明るくいつもの一人で歩く帰り道よりも綺麗に見えた。
二回目のお正月も、去年と同じく二人で少し遠出をして大きな神社に初詣をしに向かった。駅に着くと、まだ二日だったからだろうか、大勢の人が駅のホームから神社へと流れていっていた。
その流れに流されるままに、ホームからエスカレーターを上がって、神社の方へとゆっくり歩いていく。
「そういや髪切った? もっと長くなかったっけ?」
「切ってないよ~。まさか、他の女の子と勘違いしてる?」
「いや、そんなことないって。ほら、いつもよりお洒落だからそう思ったのかも」
「いつもは、お洒落じゃないってことですか?」
「そんなことは言ってないけどさ」
「ふ~ん。まあ、それはそうと、今日は凄い人多いね~」
「まあ、みんな初詣好きなんじゃない?」
「去年もこんなに人多かったっけ?」
「去年行った時は、もうちょっと遅くて五日ぐらいに行ったから、そんなに人多くなかったんじゃなかったっけ?」
「そうだったかも~」
駅を出ると、そのまま流れに沿って巨大な鳥居を潜り、神社の中へと入っていく。
森の中を進んで行く参道は、とても大きく長く、駅のような満員という感じの込み具合ではなかった。
本殿に向かう人よりも帰ってくる人のほうが、少なく一度行ったら中々帰って来れない場所のようだ。もしかしたら、中で何かが……。
そんな下らない妄想をしながら、隣の少し狭い歩幅に合わせて石畳の上を進んでいく。
「駅の方が混んでたね」
「確かに、境内に入った方が動きやすいわ」
他愛もない会話をしながら、澄んだ冷たい空気の中を進んで行く。
本殿の近くに着くと、交通整理が行われていた。時間によって区切られていて、二、三分その場で待つことになった。
「お参りするところは、やっぱり混んでるね~」
「流石にここまで来ると、混んでるな」
「みんなどんなお願いするんだろうね?」
「受験生とかは合格祈願とか、大会とかコンクールで優勝できるように願ったりとか、そんなこと願ってるんじゃないの?」
そうこう言っているうちに、前へと少しづつ動き始めた。
「そっか~。でもさ、おじいちゃんに聞いたんだけど、神様には健康と安全しか願っちゃいけないんだってよ」
「なんでその二つだけなん?」
「その二つは、自分にはどうしようもないから願ってもいいけど、後の大抵のことは、自分が頑張って手に入れるものだからダメなんだって」
「ふ~ん。自分で努力しろってことか~」
「そうそう」
「神様のくせに、結構ケチだな」
「あ~! そんなこと言う人の願いは絶対叶えてもらえないから~」
「はいはい」
本殿の前には、白い布が敷かれた大きな場所が出来ていて、皆遠くからそこにめがけてお賽銭を投げていた。
なんか、本殿の前にあるお賽銭箱に直接入れられないし、ご利益とかパワーとか薄そうだな。
一応、周りの人を真似して五円玉を下から投げ入れる。そして、二礼二拍手一礼。
皆が健康でいられますように
麻里とずっと一緒にいられますように
「なに願ったの?」
「それ言っちゃいけないんだよ~。叶わなくなっちゃうから」
「じゃあ聞かね」
「後でさ、さっき外にあったベビーカステラ食べようよ」
「ベビーなものが好きなんだね」
「うっわ! じゃあそんなこと言う人には買っても一口もあげないから~」
「冗談だって」
人の流れに沿って、本殿を後にして進むと、おみくじやお守りを売っている売店が見えてきた。
「お兄ちゃん、お弁当忘れてるよ」
「あ~。そっか、ありがと」
「なんか、大丈夫?」
「大丈夫だって」
「学年末テストが近いから疲れてんの?」
「そうそう」
美奈は、少し不安そうな顔でそう言ったあと、自分は後の電車に乗るからと言って、駅の前で別れた。
まばらに人がいるホームの上で、さっき貰ったお弁当袋を眺める。
「なーに、お弁当の袋眺めてんの?」
耳元で突然現れた声に驚いて背筋が伸びる。
「驚かせんなよ!」
「ぼーっとしてる人が悪いんです~」
「いや絶対、驚かせた方が悪いだろ!」
お腹を抱えて、さっきの俺を真似しながら笑っている麻里の姿は、小さな子供のようで、周りにキラキラと小さな光が、弾けているのが見えた。
朝、階段を下りてくるとリビングに居た父が言った。
「最近、成績下がってるみたいけど大丈夫か?」
「別に、親父に心配されなくても大丈夫だよ」
「まあ、まだ先だしゆっくり勉強頑張れよ」
「お母さんにも大丈夫だって言っといて」
「分かったよ」
冷たい冬が終わって、花が少しずつ咲き始めているのに、俺はまだ冬にいるみたいだ。
最近夢をよく見る。夢の中ではどこか知らない雪山の中に一人で佇む俺がいる。強く吹き付ける雪の中で、どこに向かっているのかも、どこから来たのかも分からない。
遠くから、俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
呼ぶ声の後ろから強い光が当たっていて、呼びながら手を振る影が吹雪の中に映る。
声の方に向かって歩く、目の前まで近づいて影に触ろうと、手を伸ばすと吹雪は消え、そこにいたはずの人影も、呼ぶ声も無かったみたいに消える。
真っ白な世界に一人残される。
春季講習の授業が終わり、左から射すオレンジ色が教室全体を薄く染め上げていた。
「ねえ~。春休み終わったら絶対二月まで、遊べなくなっちゃうし、今度久しぶりにどっか行こうよ」
「良いけど何処いくの?」
「う~ん。なんか良い案ある?」
「まあ今なら、やっぱ桜じゃない?」
「確かに!たまにはいいこと言うじゃん」
「いつもな」
「ハイハイ。じゃあ、去年の所でいっかベンチ座って、お菓子でも食べよ」
「あ~。うん。オッケー。じゃあそこで」
「ホントに分かってる?」
意地悪な笑みを浮かべながら君はそう言う。
「分かってるって」
土曜日は、強い雨が降っていて、駅前にいた俺は、駅の前で咲いている桜の花びらが、一枚一枚地面に叩きつけられていくのを眺めていた。
そういえばなんで、駅前で桜を見ているんだろう。水溜りの中で黒く濁った桜を見ていると、何ともいえない不安が、雨の冷たさと共に体に染み込んでくる気がした。
駅に来てから三十分くらい経っても、特に何も起こらないので、とりあえず家に帰ることにした。
傘を開いて、駅を出る。駅前の待ち合わせ場所になっている噴水には、淡いピンク色花びらが沢山浮かんでいるのが見えた。
急に、ポケットに入れていたスマホが鳴った。ポケットから取り出したときに、足元を黄色いレインコートを着た小さな子供が走っていくのに気が付いた。
突っかかりそうになりながら子供を避けるとその先にあった、車止めのポールにつまづいて水溜りの上に転んだ。
起き上がると小さい子のお母さんらしき人が、大丈夫ですかと声をかけてくれて、後でお父さんらしき人が、小さい子を抱えて謝りに来た。
スマホは、噴水に落ちたみたいで、弁償をすると言ってくれたが、どうせもう古いしこれを機に買い替えてもらおうと思っていたので、大丈夫だと言った。
転んだ時に、びしょ濡れになった服を引きずったまま、二十分ほど歩いて家に帰った。
白い部屋から見える桜の木は、小さな新芽を茎の先につけて穏やかに佇んでいる。
「体調大丈夫なの? 頭に風邪の菌が入ったけど少しすれば治るって、さっき、お母さんに言われたけど」
「あ~いや。別に」
「別にじゃないじゃん。連絡もしてくれなかったし」
麻里がこんなに怒っているのを見るのは、初めてだ。重苦しい空気が流れた。それでも、時計だけは、重力が無いみたいに正確に時を刻んでいる。
十分ほど黙っていただろうか。
くぐもった声で……。今にも泣き出しそうな声で麻里は言った。
「なんで、何にも教えてくれないの?」
下を向いて泣いている麻里に、何も言うことが出来なかった。
「何か言ってよ!」
「ごめん」
「謝らないでよ」
それだけ言って、麻里は部屋から出て行った。
俺はずるい。自分の我儘だけで麻里を縛りつけている。「別れよう」って言ったら何もかもが無くなってしまいそうで、怖かった。
好きな人の幸せを願うなんて気持ちは、その幸せの中に自分もいたいというだけの、エゴで塗り替えられていく。
自分が幸せにできない事なんて前から分かっていたはずなのに。
情けなくて、怖くて、離れて欲しくなくて、誰にも見られないように一人で、みっともなく一晩中泣いた。
彼の病室を出て、強い夕日に照らされた廊下を歩いて外に出る。自分の言いたい事を全部言ったはずなのに、結局、何も解決しなかった。
心配して来たのに、彼は相変わらずのんきに笑っていて、だけど時々、見せる悲しそうな笑顔の理由は教えてくれなくて。
私って、どういう存在なのかな……。
思い返せばいつもそうだ。私は、心配だったら言うし、嫌なことがあったら言う。だけど、彼は聞いてくれるだけで、何も言わない。
大切だって思ってたのは私だけなの?
自分が完璧な人間じゃないなんてこと私が一番知っているし、「嫌なことがあったら言って」って何度も、何度も言ってるのに「無いよ」っていつも誤魔化す。
ずるいよ。
私は……。大好きなのに。
いつもの様に学校終わりにお見舞いに向かっていると、病院の前で海斗のお母さんに会った。
「麻里ちゃんいつもありがとね。勉強大変なはずなのに、毎日来てくれてうれしいけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。私が来たくてきてるので」
「本当にありがとね。でも勉強もあるし、絶対無理はしないでね」
「はい。大丈夫です」
海斗のお母さんは、私を見つめて小さく頷いていた。
「あの、海斗の病気はどうなんですか?」
少し、黙った後、海斗のお母さんは話してくれた。
「春に、あった脳の炎症はだいぶ良くなったみたいなんだけどね。後遺症で、色んなことを忘れるのが酷くなっていくみたい」
「そうなんですね……。」
「でも、ほら麻里ちゃんは毎日来てるし、絶対大丈夫よ」
「そうですよね!」
「そうそう。ほら早く病室行かないと、時間無くなっちゃうよ」
そう言って、海斗のお母さんと病室に向かった。
チーン。病室のある階に着いた。
「あの、私ちょっとお手洗いに行くので、先に行ってください」
「そう。花束持って行こうか?」
「自分で持って行きたいので大丈夫です」
「そうだよね」
海斗のお母さんは、温かい笑みを浮かべながらそう言うと、病室に向かって行った。
病室の窓から見える木から、最後の枯れた葉が落ちていくのが見えた。
もう何日もここにいる。毎日出される薬を飲んで、味気の無い食事をする。早く家に帰りたい。
真っ白の部屋が淡いオレンジ色に染まる頃、母さんはいつも来る。
「元気?」
「まあ」
「そうそれなら良かった」
「なあ、いつまで病院に居なきゃいけないの?」
「まっ…、まだもう少しかな?」
「いつまでだよ!」
珍しく声を荒げた。
なんだか分からないけど、ずっと病院にいることに漠然と感じていた不安があふれだした。
「なんでいるのかちゃんと言ってくれねーし! 別に苦しくも、なんもないし! 早く帰らせてくれよ!」
「じ…ッ…。じゃあ毎日病院に来てるのは?」
「母さんだろ!美奈も親父も、シロもみんな覚えてるよ!だから何!」
ドアの向こうで何かが落ちた音がした。薄い紫色の花が茎の先に沢山ついている花束を拾う女の子は何故か泣いている。
銀色に光る涙が煌めくのが見えた。
体が勝手に動いた。
ベッドを飛び出して、母さんを押しのけて、廊下の向こうに歩いていく女の子を追いかけた。
淡い紫色の小さな花びらは彼女の足跡みたいにポロポロと走る彼女の後ろに落ちている。
「あの……」
腕を掴んで声をかけた。
「何ですか?」
女の子は振り向くと、涙の伝った痕を拭いながら笑ってそう言った。
「いや、あの大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。知らない私なんかを気遣って大丈夫ですか?そんなに優しくしたら、彼女さんに悪いですよ」
彼の方は振り向かず、彼が握っていた手を振りほどいて言った。
「いや別にいないから大丈夫ですけど」
だめ。どうしたって、涙を堪えられない。みっともなく鼻をすすりながら、震える声を振り絞って言った。
「そうですか。じゃあまた」
座り込まないように全身に力を入れて、廊下を歩く。
角を曲がろうとすると、立ち尽くしてこっちを見ている彼が見えた。
彼が見えなくなると、急に体の力が抜けて、壁を背に座り込んだ。
彼に聞こえないように声を押し殺し、涙が枯れるのをただひたすら待つしかできなかった。
ああ、神様はこんな小さな願いすらもかなえてくれない。
顔を上げてぼやけて歪んだ雲一つない空を睨みつけた。
ずっと、頭の中に霧があるようで、毎日うまく思考が働いていないような感覚がある。ひらひらと目の前で散っていく綺麗な桜を見ながら、面白いことが起こらないかと、神様に願う。
「となり座っていい?」
「あっ…。はい」
「お家近いんですか?」
「そこの、目の前です」
「だから、いつもこのベンチに座ってるんですね」
「あ~。はいそうっすね」
「今、嘘つきましたね」
柔らかい三月の日差しを受けながら、女の子は笑っていた。
「なんで分かったんすか?」
「もう少し話しません? そしたら分かるかもしれませんよ?」
「いや、まあ全然いいですけど」
なんだか、上手くごまかされたような気がしたが、それほど嫌な気がしなかった。
なぜだろう。
温かい日差しが照らしているからだろうか。
それとも、少し寂しそうに遠くを見つめる横顔に、不思議とやさしさを感じたからだろうか。
「そのさっきから持ってる花、何ですか?」
「気になる?」
「まっ、まあ……。」
「じゃあ、一輪どうぞ」
そう言うと彼女は、小さな紫色の花が茎の先に沢山ついている花をくれた。不思議そうに花を眺めていると彼女は言った。
「それは、スターチスって花で花言葉は、知識とか上品って意味」
頷きながら花を見つめる俺に彼女は言った。
「キミにピッタリだよ」
少し強い風が吹き地面に積もっていた桜が舞って、横に座る彼女の髪もなびいた。
ロングの茶色い髪が、ふわふわと浮いて柔らかい光をまとって薄っすら光って見えた。
たまには、神様もねがいを叶えてくれるんだな。