コウメ太夫と神秘主義
"敵ながらアッパレかと思ったら~、 カフェでコ~ヒ~になってました~。 チクショー!! #まいにちチクショー" https://x.com/dayukoume/status/1817825773790609704
本当に何のことだかわからない。各所解説を参照する限り、この文章にも何らかの含意(含意というよりは事象をと感性をある程度読み替えたもの)があるものと思われるが、社会学、哲学などの一定の学術的方向性に絞ったほうが読解が容易と思える。
もろもろの現代アートに比べれば一見した読解の難易度はかなり低いが、これを読み込む体力を果たして、一般のツイッターユーザーが持ち合わせているのだろうか。大多数の人間がこれをまともに解読するつもりがないのならば、この読み替えはなぜここまで市民権を得ているのだろう。
最近、一見してなんだかよくわからないもの、に対する受容が高まっているように感じる。インターネット上の一度のみのヒットならば偶然ともとれるが、コウメ太夫のツイートに対する注目の度合いはかなり安定している。一定の人口にとっての需要が存在することを示していると考えられる。
Youtube上で人気の高い"バーバパパ"も、実際伝達内容に対してかなり抽象性の高い表現が目立ち、その内容に触れるものは視聴者全体に対してそこまで多くない。一見してなんだかよくわからないものに対する、従来の芸術鑑賞とはまた違った、さらに大きな規模での受容であるように思われる。
なんだかよくわからない、というのは魅力的である。わからない、その余白があるだけで楽に感じる。自分の想像もしないような普遍的事象が紛れ込んでいるかもしれないのである。非常によく見られる構造で、中高生にとって一つや二つの違いの上級生に憧れるようなものだろう。実はよく分析してみると、なぜ先輩がそんなに大人びてみえたのかはよくわからないのである。
自分のまだ踏み込んでいない領域を知っている、謂わば小さな神のような存在がそこに仮定されている。それに憧れるのはごく自然なことであるし、先輩の憧憬化を支えているのはごくありふれた組織的仕組みであったりするのだから、自分がいざ先輩になってみると、大したことがないような感じもするだろう。
神が死んだとき、我々はどうするのかといえば、大体うまいこと新しい神をみつけだしてくるのである。コウメ太夫も、誰かにとっては小さな神として機能しているのだろう。あるいは、憧憬はとっくに破綻していて、本人もそれに内心気づいていながら、すでに空虚と化したそれを昔の癖で繰り返しているだけなのかもしれない。
(未完)