それでも作ろうとしている人がいる
8月11日未明に寝られないテンションで書き走ったキャラクター論(にも満たない末文)です。ツイートのスレッドが読みやすいようでそうでもないので全部まとめました。
漫画に小説にキャラクターに…いまもうすでに大人気キャラが存在しているのに、それでも作ろうとしている人がいる究極の理由は「自分ら、もっと言えばいまいるキャラクターがいなくなった後の世界で、自分らの子孫が生きたキャラクターに触れられるようにする」ためではないかと…
未だにポケモンのアニメは続いてるし、ミッキーは小学生の頃と全く変わらない元気な声をしているし、彼らのような友達はずっといるものだと思ってるんです。それが普通。きっと子供ができたらアンパンマン見せるし、しまじろうのパペットで一緒に遊ぶと思う。
けど、作る側に立ったり、ちょっと深入りすると「考えている人がいる」っていうのをかなり重大な事実として理解するわけです。キャラクターからすれば全く分離した存在の大人たちが、必死になって血を通わせてるんです。
キャラクターがみんなのお友達になるまでに、また友達として接している間も、仲良く、裏切らず、楽しい日々を過ごしてもらうためには、相当な量のアイデア、思考、作業があるわけです。ぬいぐるみに骨は入ってないけど、つま先まで神経が通ってる。
一番重要なのは、少なくとも「友達のあの子」という認識が消えるまで「キャラクター側からは居なくなれない」ということ。アニメの最終回を迎えたり、業務として企画が全て終了するのとは全く意味が違う。
東京事変の何度でも再生機器で回して…ではないけど、会いたいときにはVHSテープを再生したし、DVDを観るんです。友達と会って遊ぶような、そのくらいの軽い意識で。だからこそ真正面から遊べる友達でないといけない。打算ではなくて。
ぶっちゃけミッキーが長生きすぎるというのもあるのですが、ひとりのキャラクターに命を吹き込み続けられる限界は必ず来るんです。だから大小問わず、屈託のない笑顔で「お友達になろうよ」と言えるキャラクターが後世でまた生まれることができるように、技術を継がなければいけない。
ピカチュウやミッキーの再来ではなく、本質的に友達になれるキャラクターがきっと生まれてくれるように…というのがキャラクターを作り出している皆さんの無意識にある…とは思うのですが、考えすぎかもしれない。
現状のアニメ市場が大人本位であるという点も留意しなければいけませんが、本当だったらキャラクターひとりひとりに対して血を通わせて濃くしないといけないところ、圧倒的多産多費な状況になり、キャラクターと作者・中の人が分離しなくなってきた。見る側も作る側も。
古い歌とかアニメとか、それこそ歌手や声優のイメージはつけど、主役は物語の中にいるキャラクターだったんです。作り手のパーソナルな資源を使った上で作り手から徹底的にキャラクターや物語が分離するように仕掛ける。ちゃんと分離した形で見る側も楽しんでたはずなんですね。
コンテンツが大量に生み出される中で、表も裏も楽しむオタク的鑑賞スタイル、また声優文化、SNSでの双方向コミュニケーションによって作品を楽しむというより、作家を楽しむ趣が強くなっていったのではないか?と考えています。
キャラクターと作り手の分離は「子供相手だけ考えていればいい」と言われればその通りです。現在でも児童向けアニメなどは新しい情報の紹介にプロデューサーやディレクターが本編に出てくることは半々くらい(ポケんちには増田さんが来る等作品の世界観には依る)です…よね?
本当ならば別々の入り口である本編とスタッフインタビューがシームレスにつながってしまい、アニメや漫画という物語を観るような体験が、もうANNやJUNKや音泉聴くみたいな行動とほとんど変わらない訳です。イデアまで筒抜けになってしまってる。
物語体験は、向こう側にいる「本物の人間」を見破るためじゃなくて、まんま物語を体験することが目的のはずなんですよ。ポケモンで言えば昆虫採集や釣り、町の探索といった体験を擬似的に追うのが体験であって、決して田尻智さんの人生を知るのが目的ではない。
作品と作家は分けて考える、というのは本来はじめから分離することが徹底されなければ成立させにくいわけです。もっと言えば、徹底してても外から崩すメソッドはいくらでもある。だからこそ物語を作る人間は自分の姿を見られたとき、苦しいとこも全部見せてから笑わないといけない。
道楽で書くのは簡単ですよ。もちろん最初から作家自らを全面に出すものに対してはそれが正攻法です。あくまでキャラクターが主体性を持つフィクションでのお話。キャラクターが生きていくのは、それこそ現実に子供を育てるようなエネルギーを注がないといけない。
子供を育てるんですもの。まず自分が心身健康で他人を支える力をつけること、誰かに助けを乞うこと、物事をきちんと教えられること、たまには放っておけること、愛すること、その大変さと楽しさを伝えられるように、今日も血反吐を吐きペンを走らせる人がいる。