俗訳のこころみ
私は普段、イタリア語の詩を日本語訳で読むことがない。が、この間ペトラルカの『カンツォニエーレ』の解説動画を作る際、池田簾の名高い邦訳を見てみた。以下が第1ソネットの訳文である。
きみよ 折ふしのわが詩片(うた)に 面ざし
少しく今と変わりて 早春(はる)の日
愛に惑い 胸養いし溜息の
調べしみじみ聞きたもうたひとよ、
とても美しい文章だが、私は強烈な違和感を覚える。あまりに優れた日本語表現になっているため、イタリア語原文から離れていく感覚を抱いてしまうのだ。これはあくまで個人的な感覚である。ペトラルカのような大詩人の場合、日本の古典に精通した訳者が彫琢した日本語で訳し上げることは、むしろ多くの人が望むところだろう。だが私は、もう少し「普通」の文章で訳してみてもいいかと思う。例えばこんな感じ。
私が今の自分と少し異なっていた頃、
若き日の最初の過ちの中で心に蓄えた溜息
その音を様々な形の詩で
聞いていただくあなた方よ。
うーむ……我ながら拙い訳である。それでもやはり、池田訳より意味が伝わる文章になっているとはいえるだろう。こういう訳の仕方を仮に俗訳と呼んでみよう。池田訳のような美文調の名訳の価値は絶対的なものだが、俗訳の方も、もう少し巷間に広まってもよいかな、というのが私の見解である。
そういえば昔、レオパルディの「シルヴィアに」という作品の邦訳を試みたことがある。レオパルディの詩にも、脇功の名訳が存在しているのだが、私は「シルヴィアに」に関して、これをですます調に訳す方がよい気がしている。こんな風に。
シルヴィア、まだ覚えていますか。
あなたの命がこの世にあって、
微笑みを湛えうつむきがちな
あなたの両眼に、うつくしさが
きらめいて、
そしてあなたが、幸せそうに思い悩みつつ、
青春の敷居を跨ごうとしていた
あの頃のことを。
こんなペトラルカやこんなレオパルディを読んでみたい!という声が集まれば、色んな詩を翻訳してみようかしらん。たぶん、集まらないと思うが。