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たまこMJ記事vol.21『ガラスのうさぎ』を読んで

お母さん業界新聞記者としての記事が、
お母さん業界新聞サイトの移行に伴い消えまして、昔書いたものを少しずつ、こちらに移しています。
リニューアルしたお母さん業界新聞はこちら


こちらの新しいところに他の記者の皆さんは古い方の記事を移したのですが、その当時超多忙な上に、やり方がわからず、教えてもらってもすぐ忘れてわからなくなって😅し損ねた次第です。

今回は久しぶりに読み返してみたらシリアスでした。
2012年としか記録がなく、また、『ガラスのうさぎ』を読んだことも忘れていたけど、、、

そんな、わたしの2012年の記録です。
13年前か。。
東京大空襲が80年前。
南無阿弥陀仏。

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2012


『ガラスのうさぎ』を読んで
こんにちは。

皆さんも、一度は触れたことがあるのではないでしょうか。
高木敏子さん著の、『ガラスのうさぎ』です。

わたしはこどもの頃、テレビのドラマで『ガラスのうさぎ』を見ました。
お父さんが機銃掃射で殺される場面が、
今も、眼に焼き付いています。

本は、たしか、、、読みませんでした。
ドラマがあまりに強烈で、とても、活字で見る気合いがなかったと、
記憶しています。


わたしのこどもの頃、昭和50年~60年代ですが、、
戦争のドラマはたくさんありました。
昼ドラにも、結構戦争の時の話がありました。

戦争は体験していないけど、ドラマで、色々見ているので、
「赤紙だ、、、、」とかっていう、ぞっとする恐怖感とか、
「生きて帰ってきてね、、」っていう、家族の別れとか、

自分の体験か、否か、わからないくらい、感情移入して(強烈だから)
テレビを体験した、気がします。
(それくらい、数もあった、のか、選んで見ていたのか、、、)

『ガラスのうさぎ』をドラマで見たのは、ツバナレしてない(寄席の符丁?で9歳以下)
頃だった?と思うので、どこの土地の話か、認識していませんでした。


ついこの間、近所の八百屋さんの街角文庫で、『ガラスのうさぎ』の単行本を見つけ、
吸い付くように借りてきました。


改めて、通勤の行き帰りで涙しながら読破。


なんと、わたしの青春の故郷、両国が舞台でした。

私はその昔、教員をやめて三味線弾きになると志し、
横浜の実家から両国の風呂無しアパートへ
飛び出しました。


住んだのは千歳町。
総武線の両国駅と、都営線の森下の間です。
江戸時代は本所千歳町という名で、長唄「岸の柳」はこの辺りの隅田川を
唄ったものと聞いています。

普通そんな木造のアパートでは「楽器不可」、が当たり前のところですが
たまたま、4部屋すべて空いていたことと(古過ぎて敬遠され)
大家さんが花柳流の日本舞踊と、清元のお師匠さんだったので、
大変にご理解があり、どんどん稽古しなさいと、
ご支援いただいたのでした。

町の人々にも、三味線はおなじみの楽器で、お隣も、階下もお向こうも
ご近所のおかみさん方はみなさんこどもの時分お稽古ごとをなさっていた方ばかり。
早朝アルバイトから帰って決まって午後一番で長唄を稽古する、
私のへっぽこ三味線、楽しみにして、
通りに出て歓談して聞いていてくださるような町、なのです。



両国には8年住みました。
その間、国技館の近くにある、慰霊堂(元は関東大震災の犠牲者のための)
の近くには近寄れませんでした。

怖かったからです。
お昼間でもわたしは横網公園の中には入れませんでした。


両国を離れ、市川に引っ越してから、、
神社仏閣好きが高じて、般若心経を諳んじられるようになって、
はじめて、慰霊堂を訪問しました。


慰霊堂中には、黒こげの遺体の写真があります。
こちらもテレビドラマになった石川光陽氏の貴重な写真が
大きく多数掲げられています。

あまりの凄惨さに言葉がありませんでした。


『ガラスのうさぎ』では両国を舞台に、
住み慣れた土地の地名が出てくるにつけ、
現在の両国と、慰霊堂の写真の両国と、
敏子さんの体験した戦前戦中戦後の両国が
私の脳裏に鮮やかに蘇り、描かれます。

私の住んでいたアパートは戦後間もなくの古い木造で、
来る友人が100%、はじめて来たにもかかわらず
「懐かしい!」と叫ぶ造りの、畳も柱も傾いだ部屋でした。
今も、このおんぼろ(!)アパートの一室を借りて、夫の尺八工房や尺八、三味線のお稽古場所として通っています。
オンボロ過ぎての希少価値を楽しんでおりまして。。。
(あ、お弟子さんたちはヒイテルかも!?…笑)

この手の建物も眼に見えて大幅に減り、
ここ数年の両国はマンション建設ラッシュです。


67年前にはすべて焼け野原、住民の9割6分が一晩で炭化したという、
片鱗さえも、忘れ去られたかのようです。


体験された方にとっては、忘れたいこと…かもしれません。



小さなこどもをおぶったお母さんが、黒こげになっていたなんて…、

こどもをかばうために、お母さんが炭になって覆い被さっていたなんて…。

そんな悲し過ぎる光景を、誰が思い出したいでしょう。


でも、本当にあったことで、
なかったことにはなり得ないこと。
そこに、その母と子はいたのですから。
10万人といわれる犠牲者の方々のひとりひとりに、
思い出と希望があったこと。

胸が苦しく、つらいです。


お相撲さんの町両国、
吉良様の町両国、
まだまだ下町で江戸の香りも残る両国大好き人として、

折に降れ思い出して、今を生きるわたしの姿を、
大きな「鏡」となっていただいて映し出して頂き、

いのちを、
生きていただいているこの「時間」を、

大切にする智慧を教えていただこうと思います。

合掌

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