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Who is "whom design"? - 経歴 -

どんな人?何してる人?今までのキャリアは?みたいなことを一言でまとめるのは非常に難しい。
ポートフォリオで公開できない制作もあるし、伝えきれない思いなんかもあるけれど、サイトで語るには長すぎる。
ので、自身の職務経歴書的なものとしてここに記録し、自らのキャリアの棚卸しとして残すものです。(ちょくちょく編集します)

長いですが、人となり含めてご理解いただけたなら非常にうれしいです。
です。


「デザイナー」という職業との出会い。

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たまたま雑誌で見かけた「デザイナー」という言葉。
子供の頃から何かを作ったりするのは好きだった。
プラモデルだったりラジコンだったり、それを原体験と言うには烏滸がましいくらいの趣味。手が器用だねって言われる程度。その頃から器用貧乏だったんだと思う。
その延長として工学部のある大学へ進学したものの、将来の事はとても漫然としたものだった。
携帯電話はi-Mode(Z世代には意味わからないと思う)。最新機種はなんとE-Mailが携帯電話で送信できるすぐれもの、だった。

大学在学中(1995-2000)、特になりたい職業もみつからず、就職についても漠然と考えていた頃、雑誌で偶然みかけたデザイナーという職業。
当時はMacも知らなかったし、そもそもパソコンすら持ってない。

美術の成績も良かった記憶がない。大して絵もかけない。そんな自分でもMacがあればなんとかなるんじゃないか?とものすごい単純な思い込みで興味を抱く。絵はかけなくてもパソコンが代わりに絵を、図形を書いてくれる。あとはアイデアさえあれば。考えるのは嫌いじゃない。なんて素晴らしいんだ!と。

そうして就職は先延ばしにして、大学卒業後にスクール的なところへ進む。
一年間、週2日、DTPとWeb、デッサンが少々。
記憶が正しければ、ツールの使い方の基礎の基礎とお遊びデッサンしか学んでない気がする。
スクール「的な」と書いたのは、そもそもデザインについて深く学べたわけではなく、あくまできっかけができたと思えるほどの中身だったからだ。

授業のない日はひたすら自宅でIllustratorとPhotoshopで遊んだ。文字通りまさに遊んでた。
何かが形作られるたびにワクワクした。
知人のDJイベントのフライヤーを作っては喜んでもらえるのがただ嬉しかった。
数年以内にもし就職できなかったらまた別のこと頑張ろう。新しい趣味ができたとして楽しもう。
それくらいの意気込みだったと思う。絶対にデザイナーになってやろう!というほど意気込んでいたわけではなかった気がする。

1社目:未経験からのスタート。

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写植からDTPへ。
そんな時代だったので、グラフィックソフトが扱えばオペレータなどの仕事もあったと記憶してるので、そういう意味ではラッキーなタイミングだったのかもしれない。

2001年、グラフィックデザイナーとして従業員6名ほどの小規模制作会社へ入社できた。当然、実務未経験である。

プロの現場を初めて味わった会社。
個人的にイベントフライヤーなど知人に依頼を受け制作した経験はあるものの、まず味わったのは、デザイン技術もさることながら仕事意識のレベルの差。デザイナー云々の前に社会人1年生として、電話の応対一つとっても「声が小さい」「覇気がない」「伝わらない」など技術以前の問題で注意を受けた。

半年くらいはそういうものを叩き込まれたと思う。
創る前にすることがある、という意識をそこで覚えた。

仕事内容はWordの書類の整理から。
採用に至った経緯の一つに「Word使える」があったそう。
今では何ともちんぷんかんぷんな採用理由だけど、当時の仕事で某銀行のマニュアルのフォーマット作成などがあった。レギュラーワークの傍らで、何千ページもの書類を半年間ひたすら調整し続けた。(今思えばこれもデザインかと思えるけど)
なお、Wordスキルは全く上がっていない。むしろ綺麗サッパリ忘れた。

上記の作業をこなしながら、不動産系の新聞広告、流通チラシ、パンフレットの作成。戦略意図の説明を受け、それをビジュアルに落とし込む。褒められたり(少なめ)叱られたり(多め)。

ある時、毎年参加している正月の新聞15段広告のコンペに参加していると聞いた。その年は私にデザインを担当しろとのこと。
新人には刺激的(というかプレッシャーやばめ)な業務。自分のせいで途切れたらやだなーと思いつつ、何とか連続記録は途切れずに済んだ。それがダメだったらもっと早く辞めてたかもしれない。

並行して、テンプレート化されたレギュラーワーク。
使用するカラー(二色刷りの選定)とレイアウトを前回のものから変更する。
最初こそは意気込んで向き合ってきた仕事も、だんだんとそれを「やりたいこと」として認識することが出来なくなっていった。

結果的には1年で退社。
もっとこう、華やかなさ、あるでしょフルカラーのバーンって広告、そういうのやりたいんスよ。(心の声)

目指していたものはこれじゃない!と社長に啖呵を切ったは良いものの、「お前はまだどこに行っても通用しない、まずは3年うちにいなさい」と。
そりゃそうだ。たった一年弱のペーペー如きが何を言い出すのかと。
ただ、天の邪鬼な自分は言い出してしまった以上、もうここにはいられないと決め、そのまま退職。

いざ転職。のはずが・・・。

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まさか?の転職失敗。
すぐに2社目に転職、と言いたいところだけどいきなり冬の時代…。

1社目を退職する前、ひそかに転職活動を続けていた。
エンタメ系のデザインがしたい!と意気込んで応募し、1社目を辞める頃には最終(3次)面接まで進んでた。

CDジャケットやバックインレイなどを顧客の依頼に応じて作成する会社があり、その最終面接まで進んでいた。CD音源を持ち寄るのはプロではなく、アマチュアバンドや個人的な趣味の方々。
最終面接では与えられた素材を使ってCDジャケットを作成。
意外とイケてるのでは?
これはもらった、どんな人達が働いているのだろう、と未熟者が調子に乗って合否発表までのんびり待っていたら、まさかの不合格…。
ありがたいことに、面接官の方が他の方の作品を見せてくれた。
その瞬間に不合格の理由を察してその場を後にした。

社会人2年目にして無職。
残る生活費は持って2ヶ月。その間に他の就職先を探さないと。
焦って探すも早々都合のいい話はない。前職の社長の言葉が蘇える。
部屋の天井を眺める時間が続く。このままでは生きていくことすらままならない。

そう思って就職だけに限らずバイトとしての受け入れ先も視野に。
紆余曲折ありながらもなんとかギリギリで働き先にありつく。

スポーツ関連イベントのポスターやパンフレットを作成する業務。
主に格闘技系のイベントが中心。内容自体はとても華やか。時給も割と良かった。しかし懸念材料がないわけではなかった。

デザイナーは私一人。
自分にはスキルが足りないと思っていた矢先、これまで以上に人の目に触れる制作物に対しての不安。そして、教わるべき人がいない環境。

後楽園ホール、横浜アリーナなどの大きな場所にどかーんと貼られるポスター、観客や関係者の手にわたるパンフレット等。
聞こえは良いし華々しいけど、クオリティがどこまで担保できているのか。常に不安だった。

そんな中でも社長や選手の方々が喜んでくれたのは救いだった。
ただし、あくまで自分はアルバイト。
これでプロと名乗るにはまだまだ足りないものが多すぎる。
多少生活基盤ができるようになった半年が過ぎた後、また新たに就職活動を開始する。

2社目:グラフィックデザイナーとして再出発。

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2003年、冬。
ありがたいことに、就活をはじめて1社目で採用が決まる。
正直もう少し苦しむかと思ってたし、これはご縁という他ない。

バイト時代に作ったものはほぼ写真の合成が多く、そのスキルが2社目の業務の中心となるとのことで興味を持ってもらう。
1社目と比べると人数も増え(20数名程度)、グラフィックデザイナーとコピーライターのみで構成される制作会社だった。
事務の1名を除いて全員がクリエイター。やっとこれで修行できる
この時点ではまだぺーぺーという自己評価のため、先輩や上司との切磋琢磨に憧れてた。

ベテランさんの抜けた穴を埋めるべく。
配属されたのは某電子楽器メーカーの担当。
先輩が1人退職し、その補充要員だった。先輩デザイナー2名、コピーライター1名、アートディレクターの上司。
おお、チーム・・・と初めての共同作業にテンションも上がる。

これがプロか・・・。
始まってみるとこれがまぁ役に立たない
写真の合成には少し自信があったものの、もう天と地ほどのスキル差を叩きつけられる。やることなすこと全く追いつけない。小さい仕事からコツコツ積み重ねるしか無いと改めて痛感。そもそもデザインのイロハが分かってなかった。勉強する時間なんてあっただろうか。徹夜も珍しくはなかった。

自分の手で、目で、感覚で覚えていくしか無い。会社がブラックなのではなくて、スキルが足りないから覚えていく必要があっただけ。

一部では制作会社はブラックだ、という論調もあった(そういうところもあるかも知れない)けど、己の未熟さ故に辛さを感じる程度だった。
スキルが足りなければやるしか無い。ただ、それだけ。

チームとしての作業内容は多岐に渡った。
商品パンフ、リーフレット、チラシ、ポスター、各種広告の制作、屋外広告やラッピングバスに至るまで様々経験した。
紙媒体メインだったため、Webは画面デザインやバナー作成など。
撮影(ロケハン、カメラマンの手配)、各作家さんへの発注、印刷の立ち会いでは丸一日印刷所で過ごしたり刷り直しの対応で超絶テンパったり。

芽生える自己主張。
ヘロヘロになりながらも数年経った頃、やっと先輩達にほんの少し近づいたと感じ始める。少しずつだけど、自分のアイデアが社内にもクライアントにも認められるようになってくる。3案提出するなら1案は絶対もぎ取ってやろうと今まで以上に没頭した。

この頃から少し調子に乗りやすい時期に突入してしまう。

自分たちのチームは社内で相対的にスキルの高い人が集まっていた。別チームのデザイナーさんに対して「暇なら手伝ってくれよ」と思ったり、「いちいちツールの使い方を聞きに来ないでほしい」とか、「なんで他のチームはあんなに楽そうなのに給料が高いのか」など。
だんだん会社に対してストレスを感じ始める。若干ではあるけど、また転職という言葉がよぎる。チーム以外の同僚にライバル意識を持てなくなっていたし、自分たちのチームこそ会社に貢献しているのだという自負も合った。

誰かに見透かされたかのようにチーム異動。
入社から4〜5年経った頃だろうか。
そんな思いを抱いていた頃、急な辞令で直クライアントチームから代理店チームへ異動が決まる。これもまた転機だった。
チームのリーダーは代理店側から名指しされる社内No.2。
会社を支えているのはアートディレクターであるその人じゃないかと、みんな裏では理解していた。
誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで仕事していた。

チームに合流すると、まず仕事の仕方の違いに戸惑う。
直案件との大きな違いは、クライアントの先にエンドクライアントがいるということ。これが意外と慣れなかった…。
連絡体系や関係者の多さ、一体誰と仕事しているのかわからない。
それを一人でまとめ上げるリーダーは半端ねぇーって感じ。
打ち合わせに代理店に赴くと、数時間は戻れない。話がまとまらなければその場でアイデア出しが始まりラフを書き出す。

某大手飲料系メーカーがエンドクライアントの仕事では丸一日読み合わせ(カタログの校正を何十人も見守る中音読してミスがないか確認する作業)に付き合い、会社に戻るのは21時。戻ったらすぐ入稿データの修正作業して同日再入稿。
おいおいおいおい。。。これほぼ一人で担当してたのかよって唖然とした。
もちろん他にメンバーはいたけど、仕切っているのは彼。
そりゃ負担も大きかろうと。少しでも負担を減らせるよう自分が呼ばれたんだなと理解した。

他にも直案件も掛け持ちし、そのいくつかを私が担当した。これまでのチームに比べると、案件規模は大きく重責も合ったと思うけど、それまでのようには楽しめなかった。
そして、一度会社に対して抱いてしまった感情。これが拭えないまま数年が経った。

時代が変わっていくのを感じ出した二度目の転機。
いよいよ転職か。と考え始める頃、また社内に動きが。

Web制作チームの設立。その立ち上げに任命された。
おそらく2013年くらい。
ここまでWebに関しては画面デザインのみで、構築から制作に関わったことはもちろん無い。HTMLとはなんぞや。そんな時期。経験者が一人もいない中、独学で勉強を始めることになる。
業務を一部セーブしてもらい、勉強時間を設けてもらった。
その間、会社に対する貢献度は少ない。勉強してただけだから。

成果(案件)に繋がりだしたのは半年以上経ってからじゃないだろうか。
プロとしてコーディング出来るレベルとはどこまでかも定まらない中、ちょっとしたキャンペーンページのデザイン・コーディングなどを引き受けるようになった。

とは言えこちらは素人に毛が生えたとも言えないレベル。JavaScriptなんて分からないから友達に外注してたし、不安だらけでテンパりまくり。
ちなみにそのときはHTML4と5の境目。どうせなら新しい方だろと思って勉強してたらクライアントの環境がHTML4で、当時は全くその差が分からなかったし??しかなかった。

それでも楽しかった。
新しいことにチャレンジするのはまるでマイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンのDVDを見て新しい技を覚える感覚に近い。(到底マネできないけど)

しかし社内ではコーディングがちょっぴり出来る人間が一人増えただけで、大手を振ってWeb制作得意です!と言えるほどのチームが育たない。
初めはみんな、羨ましいだの私もWeb勉強したいだのという流れが社内にはあった。コードを見せ、制作パーツの多さをレクチャーするまでは。

大変そう、難しそう、意味がわからない。
周りのメンバーには理解されない。
自分の伝え方や勤務態度(徹夜、土日出社)も一因だと思う。
徐々に全体の熱量も落ちていった。

社内LPを作成した後、コピーライターでもある社長と2人で飲みに行ったその場で言い合いになった。社長にキャッチコピーなどを依頼してたのだけど、私が「Webっていうのはもう少しこう…」と言いかけたところで「LPなんて簡単だな、もうコツは掴んだ」と一言。
この一言に猛烈に違和感を感じ、お互い負けず嫌いなところも相まって意見をぶつけ合った。激しくなってきたので一旦外へ出て、そのまま阿佐ヶ谷駅前で大声で怒鳴りあった。
結局話は平行線、その日のうちに退社を決意、翌週月曜朝イチで退職届を提出。

元チームの先輩に引き止められ、2ヶ月ほど延長したけれど決意は変わらず、当時携わっていたWebサイトを納品した後に退職。送別会は有志だけで行ってもらった。

これから絶対Webが必要になる、そう訴えてきた2社目での啓蒙活動は失敗に終わった。失敗というと語弊があるが、少なくとも私は根付かせることが出来なかったと思う。

その後の話を先輩から聞くと、Webは画面デザイン程度で他は外注とのこと。Webを覚えたいと言っていた後輩くんに退社前にコーディングを教えたりしたけど、結局は続かなかったとのこと。
あの一年、何も貢献できなかった。残してきたのは自社サイトとLPくらい。ただ、自分には多少のWebの知識が残った。それには感謝している。

ここでは11年間という長い期間お世話になった。

3社目:事業会社へ入社

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また転職活動、と思いきや。
次の転職先も決めずに飛び出したので、しばらくボーッとしてた。ちょうどサッカーのW杯があったため、見れる試合は全部見た。転職するのはいつもW杯の時だったのを思い出す。狙ったわけじゃ無いけどこれも何か意味があったのだろうか。
ある日、いつもの飲み屋でW杯を見ていると、飲み友達からこう言われた。

うちの会社で働かないか?
飲み友達が役員として勤めるその会社は、自社事業(ベビー用品輸入・店舗運営・EC事業)と制作事業(Web制作・運用)を併設している事業会社。

前職の話をつらつらしていると、「なら是非うちに来てその思いをぶつけてみてよ」と。デザイナーが退職するから新しいデザイナーを探していて、会社のテコ入れをしていきたいから手伝って欲しい、そう言われて心が揺れた。

同時期にたまたま別の知り合いからもお誘いはあった。
けど、そちらは画面設計まで。もっとWebに関わりたいし、せっかく覚えた知識をもっと伸ばしたい。
制作会社ではなく、小規模ながらも事業会社という点に魅力を感じ入社を決意した。

新たなチャレンジと問題の抽出。
前任のデザイナーが辞めるタイミングだったということもあり、デザイナーは自分一人。先のバイト時代に孤独との向き合い方も心得ている。
準備万端、やる気は整った。

当時社内メンバーはディレクター一人、エンジニア一人、コーダー一人。
EC運用担当にもう一人いたけど制作者ではない。
外部にディレクターと超つよつよエンジニアが一人ずつ。
それを統括するのが誘ってくれた飲み友達のプロマネ。

社内改革のため、プロマネ(友達)、ディレクター、私で週イチMTGを行った。これから会社をどうやって変革していくか。そこに自分がどう関わっていくか。これまでにないチャレンジ。考えることは山積みだ。

一年位色々進めてきた中で、現状では変えられない点がたくさん出てきた。話を集約していく中で社内のブラックボックスを発見する。チャットツールのDMの中で、当人同士しか理解し得ないやり取りが蔓延し、問題が起きていても周りが把握できない。クライアントからのクレームで初めて周りが気づくこともいくつかあった。
以降仕事の話でのDMは禁止、常にオープンなやり取りを。
それらを解消していく中で、社内方針の輪郭が見えてきたように思う。

一人制作会社。
しばらくして社内メンバーが一新された。
ディレクター、エンジニア、コーダーがみんな辞めた。
会社の理想に追いつかなくなったり、別の道を選んだり。
いつしか社内制作担当者は自分ひとりになった。

それからは外部つよつよメンバーとのオンライン進行。
上司が隣の席にいるのに仕事中の会話はチャットメインになったり。
ちょうど昨今リモートワークを始めた人たちと同じような心境だったと思う。様々なチャットツールの導入、MTGは常にテレカン、毎週のように新しいツールが飛び込んでくる。使い方を覚えるだけでも一苦労だった。
当時2015年か2016年くらい。その経験も今となってはありがたい。

業務内容も大きく変わる。
クライアントとの企画提案から交渉、各種シート作成、売上管理などEC業務に主軸を置く。アートディレクターという肩書ではあったものの、デザインよりディレクション業務が半分以上を占めるようになった。
職域をクロスオーバーして考え、それぞれがそれぞれの分野以外もディレクション出来たなら。誰もが専門分野のプロフェッショナルでありながら、誰もがすべての窓口となり得る。入社後に上司と語り合った理想に近い形、制作に関わるものすべてがそれぞれの分野を超えてディレクションも行う。そうすることで少数精鋭の環境を作る。
そんなディレクター不要論が実行された形になった。

自社事業ECの運用・実店舗の販促ツール制作、大手老舗レストランのEC運用(月イチのメルマガから季節のイベント提案、採用ページの更新、エンドユーザーからのクレーム対応、前年おせち販売実績からの改善提案をGWからスタートして年末年始まで突っ走るなど)。その他毎月の更新案件がいくつか。これらの業務ををかれこれ2年ほどほぼ1人(もちろん上司に相談などはしていたけど)。

業務が途切れない。スケジューリングが下手だったため、すべての業務の調整を合わせるのも難しく休みも取れない。というか連休があっても不安になるので休みたくないと思うほど。

同時進行で外部エンジニアさんとの協働。
新プロジェクトのデザイン、コーディング。年単位のシステム開発案件のビジュアル・UIデザイン。コンポーネントまでコーディングして、エンジニアさんが三人がかりで組み上げていく。Web業界の経験が浅かったこともあり、初めて経験する内容に毎日心がすり減っていく。
ただし、それを物にすれば今後この界隈で困ることはないはずと、気合だけで数年過ごした。

パトラッシュ・・・。
わりと疲れ果てた。三徹(三日間ローンチ直前まで)も初めて経験した。寝落ちしながらテストを繰り返す。どこからか迎えが来るのではないかと言う思った。自分がなんとかしなければという思いがこじれすぎて、個人の思考はほぼ皆無になった。

退職。そしてwhom designとして独立。

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前職を退職した1年後、個人事業主として開業届を提出した。
奇しくも退社した年には例のごとくW杯が開催されていた。

結果的に4年で退職したのだけれど、一旦離れてみると宝の山だったと気付く。いま個人として活動している指標は、その頃に言われていたことばかり。その経験があったからこそ、個人として広く関われるのではないかと思う。

実際に業務委託として関わっている仕事にはディレクター単体のお仕事もあったり。そこからさらに知見を広げられる感じは、前職での経験が最も大きい。

そんな感じで今の私があるわけですが、じっくり教わって過ごしてきた期間って言うのがほとんど無い。社内一人デザイナーだったり、チーム立ち上げだったり、これも独学に入れて良いのであれば、今もなお全て現場で独学し続けてる。

まだまだ終わりじゃない。
一生続く独学と言う名の仕事。
仕事しながら勉強してると言うと聞こえが悪いかも知れないけど、新しいことをするにはまず飛び込んじゃえ派なので、全てが勉強だったしこれからもそうなんだろう。

なのでこれから一緒にお仕事する方々には敬意を払って学ばせていただきます。きっと分からないことだらけなので。
お手数おかけすることもあるかも知れませんが、ご迷惑にはならないよう努力します。

ここまで長々と読んで頂きありがとうございました。
20年を振り返ると色々ありすぎて説明が難しいということが分かりました。
年末というタイミングで20年分の棚卸しが出来た気がします。
※2024年10月に編集・追記してますので20数年分

今後もチャレンジできる場所を探していきます。
ご縁があればいつか何処かでお会いしましょう。

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