【紅白記事合戦2024】真っ白な髪の素敵な人
先日、ある入居者さんがご逝去された。
優しくてチャーミングで本当に素敵な女性だった。なぜか僕のことをとても慕ってくれていたその方と過ごした日々を、僕は奥さんに白髪染めされながらゆっくりと思い出していた。
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その方と初めてお会いした時、真っ黒な髪をされていた。入居してからもずっと髪は黒いままだった。こちらで生活を始めてから半年ほど経った頃「実は髪を染めているの」と言われた。
「もう歳だから染めなくても良いと思うけど、つい習慣で美容師さんにお願いしちゃうの。時間とお金もかかるし面倒だから本当はやめたいんだけどね」
そう照れながら話すその方がなんだか可愛らしくてとても愛着を感じた。内緒の話をしてくれたその方が、僕に心を開いてくれたように思ってなんだか嬉しくなった。
「染めなくても素敵だと思いますよ」
そんな風に声を掛けると「お上手ね」とはにかんで笑った。
その日からその方は髪を染めることをやめた。日に日に白髪の量は増えていき数カ月後には髪全体が真っ白になっていた。いつもしっかりと手入れをされているせいか、真っ白な髪はツヤがありとても綺麗だった。
いつだったか「40年染め続けていたけど、やめてみたら案外どうってことなかったわ」と笑顔で言われていたことがあった。美しく光る白い髪にその笑顔がとても眩しく映って、素敵だなと思ったことを覚えている。
その方は僕のことを「大家さん」と呼んだ。その度に「大家さんじゃないですよ」と否定したが、その方は変わらずに僕の事を「大家さん」と呼び続けた。そのうちに否定することもなくなって僕はその方にとって「大家さん」になった。
「大家さんにはいつもお世話になって本当に感謝しています」
僕の手を握りしめながら乙女のように目を輝かせながらその方はそう言ってくれた。自分で言うのもおこがましいが、その方は僕の事をとても気に入ってくれていた。控えめに言って”大好き”だったんだと思う。
お出かけした際には必ず僕に差し入れを買ってきてくれた。スタッフにではなく僕だけにだった。
バレタインに手作りチョコレートをくれたこともあった。
デイサービスの工作でクオリティが半端ではないポムポムプリンを僕の息子のために作ってくれたりもした。
ある時には「いつもお世話になっているから」と僕に封筒を手渡してきた。中身を見ると結構な金額のお札が入っていて慌てて返したこともあった。
スタッフからは「絶対コッシーさんに恋しちゃってるわ」と揶揄されることも少なくなかった。
とても僕のこと慕ってくれるその方を僕も大好きだった。いつまでも健やかにいて欲しいと、素敵な真っ白な髪と笑顔をいつまでも見ていたい、そう思っていた。
けれど、時間は残酷だった。
年々少しずつだけど衰えていった。入居して8年程経った95歳の誕生日を迎えた辺りから、その方の状態が急に悪くなった。食事をほとんど摂らなくなり、口数も減った。それでも僕を見ると「いつもありがとうございます」と弱々しい声で言ってくれた。その姿に胸が痛んだ。
だんだんとご自分で歩くこともままならなくなり、娘さんと相談をして入院することが決まった。
その方を病院へ見送る日、もうここに戻ってくることは難しいかもしれないと思っていた。そんな僕の気持ちを察したのか、その方は僕の手を握り、「今までお世話になりました。ありがとね、ありがとね」と涙を流しながら施設を後にされた。その姿にまた胸が痛んだ。
それから2カ月ほど経った頃、娘さんから連絡が入った。
「病院から、『数日で亡くなる可能性が高い』と言われました。忙しいと思いますが母に会っていただけませんか」
その日の午後、すぐに病院に向かった。病室に入ると酸素マスクをつけてスヤスヤとベッドで眠るその方の姿があった。相変わらず真っ白な髪をしていたが、かつての輝きは失っていた。
昨夜、苦しくてほとんど眠れず、今朝になってやっと病状が安定したと娘さんが話した。落ち着いているところを邪魔したら悪いと思い、そのまま起こさずに帰ろうと思った時、娘さんがその方に声をかけた。
「お母さん、コッシーさんが来てくれたよ」
娘さんの声に閉じていた瞼がそっと開いた。視線が定まらずその目はぼんやりとしていた。
「久しぶりですね。会いにきましたよ」
ベッドサイドに腰を落として耳元でゆっくりと話して、真っすぐにその方の顔を見つめた。その方は僕の方を見ることもなく虚ろな瞳のまま「ありがとうね、ありがとうね」と囁くように言った。
なんとなく表情が和んだ気がしたが、自分がそう思いたかっただけなのかもしれない。
「もう多分目はあんまり見えていないと思います」
潤んだ目で娘さんが言った。少し話しただけだが、その方の呼吸がさっきよりも乱れているのが分かった。僕はそっと手を握って「また来るね。今日はありがとう」とだけ伝えて病室を後にしたのだった。
僕の顔を見たら喜んでくれるんじゃないかと思っていた。
「大家さん、忙しいのにありがとう」と言ってくれると思っていた。
ツヤのある白い髪で眩しい笑顔を見せてくれると思っていた。
自分はきっとその方にとって特別な存在だ。だからそんな奇跡を起こすかもしれないと勝手に思ってしまっていた。
多分、その方は誰が来たのかも分からなかっただろう。もう僕のこと自体を忘れてしまっているのかもしれない。
せっかく眠れたところだったのに、逆に苦しませてしまったんじゃないかと会いにいったことを少し後悔した。
僕が会いに行った次の日。その方が永眠されたと娘さんから連絡をもらった。
「苦しまずに眠るように亡くなりました。きっと最後にコッシーさんに会えて嬉しかったと思います」
娘さんはそう言ってくれた。真意は分からなかった。でも僕は最後にその方に会えて、少しだけでも言葉を交わすことが出来て良かったと思っていた。
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それから数日後、僕は奥さんに白髪を染めてもらっていた。ふと、その方のことを思い出す。そして自分があと何年髪を染めるんだろうかと疑問に思い、奥さんに尋ねてみた。
「白髪染めってさ、いつまでやるんだろうね」
「そりゃ、白髪でも平気になったらじゃないの。”髪を染めない自分でも良い”と思ったら白髪染めなんてしないでしょ」
あの人は白髪でも平気って思ったのかな。
もしかしてここなら、”髪を染めない自分でも良い”って思ってくれたのかな。
そんなことを髪を染められながら僕は思ったのだった。