【創作】Memories
紫陽花をベッドサイドに置いて、僕はすやすやと眠る母を見つめた。カーテンの隙間から漏れる陽射しが母の顔に差し込んだ。一瞬眩しそうに顔をしかめるが穏やかな表情で眠り続ける母の姿に溜息を一つ吐いた。
ここ最近の母の物忘れはどんどんと酷くなっていた。昨日のことはおろかついさっき食べたご飯のことも忘れることが多くなった。それでもまだ昔のことについては憶えていることが多かったが、だんだんと記憶違いや断片的に忘れてしまうことが増えてきた。
きっと僕と母との想い出の紫陽花のことも忘れてしまっているだろう。
僕が小学生の頃だった。おこずかいを貯めて母の誕生日に紫陽花をプレゼントしたことがあった。しかし紫陽花だと思っていた花は実は大手毬だと母から教えてもらった。恥ずかしくて顔を真っ赤にして俯く僕に母は優しく微笑んでくれた。
「聡ちゃんがくれたお花だもん。紫陽花も大手毬もお母さんは大好きになったわ。ありがとう」
大手毬を両手で大事に抱える母はとても喜んでいた。それから母は大手毬を庭に埋めた。その数日後には大手毬の隣に紫陽花が植えられた。大手毬と紫陽花を母はずっと大切に育てていた。毎年、綺麗に咲いた花を僕に見せては自慢していた。
そんな紫陽花や大手毬も数年前に全て枯らしてしまい、庭にはもう何も植えられていない。
「あんなに大切に育てていたのになぁ」
枯れた花たちと自分を重ねて言葉がこぼれた。同時にコンコンと部屋をノックする音が聞こえる。返事をすると扉が開かれて施設の職員さんが「失礼します」と笑顔で部屋に入られる。
「野田さん、そろそろお食事の時間ですよ」
職員さんが眠る母に優しく声をかける。その声に母がゆっくりと目を覚ます。欠伸を噛み殺し少し身体を起こすとベッドサイドの紫陽花に視線を向けた。
「あら、綺麗なお花。紫陽花ね」
母はそう言ってベッドから立ち上がると紫陽花に近づきそっと花びらに触れた。
「昔ね、息子が誕生日プレゼントに紫陽花を買ってきてくれたことがあってね」
母の言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。
「でも、それが紫陽花じゃなくて大手毬だったのよ。ほら良く似てるじゃない。そんな間違いをする息子が可愛くって愛おしくて、私紫陽花も大手毬もいっぺんに好きになったわ」
まるでついさっきの出来事のようにフフフと声を漏らして無邪気に笑う母。
そんな母を見ていると自分が抱えていた不安や悩みなど、ちっぽけに思えてくる。今、母が幸せならそれでいい、そう思えた。
「良かったですね、息子さん」
職員さんが僕に声をかけてくれる。声の先にいる僕に母が気が付いた。僕を見つめて母が優しく言った。
「初めまして、こんにちは」
そう微笑む母に僕も微笑みを返した。
おしまい(1111文字)
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