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【創作】姉の下書きを弟は丁寧になぞる

「お姉ちゃんが跡をつけておいたから。あんたはここをなぞればいいよ」

姉はそう囁いて1枚の半紙を僕の前に置いた。半紙には姉が”はる”と爪で跡をつけていた。書道教室の課題の”はる”という字を上手く書けずにいた僕に、姉が助け船を出してくれたのだった。子供ながらに明らかな不正だと思った僕はその文字をなぞることに躊躇していた。

「早く書いて。合格しないとお姉ちゃんも帰れないじゃん」

また姉が囁く。
観念した僕は姉がつけたその跡を丁寧に筆でなぞった。これまで僕が書いてきた文字とは明らかに違う、形の整った”はる”が出来上がる。

「うん、いいね。先生のとこ持っていきな」

姉の言葉に釈然としないまま、結局僕は黙って先生にその半紙を見せた。先生は爪の跡には全く気付かずに「これまでで1番上手よ。よく書けました」と花丸をつけた。素直に喜ぶことができずに複雑な表情を浮かべる僕を姉は笑顔で見守っていた。

「早く書いて」

あの頃のように僕を急かす姉にそんな昔のことを思い出していた。書道教室はあれからすぐにやめてしまった。

事故で両親が亡くなったのは書道教室をやめてから5年後のことだった。姉が高校2年生、僕が小学6年生の時だった。突然の出来事にただ泣くことしかできない僕とは違って姉はとても気丈だった。親戚たちからの誘いを頑なに拒み僕と二人だけの生活を選んだ。高校を中退した姉は地元のホームセンターに就職をして僕を育てるためにずっと働いてくれた。裕福とは言えない生活だったが、両親がいない負い目を感じたことがなかったのは間違いなく姉のおかげだった。

そんな姉が今、半紙とは違う別の紙を僕に差し出して署名をするように迫っていた。僕はこの紙に署名することを、昔のように躊躇していた。

「こういうのって弟が書くんじゃなくて、もっと相応しい人がいると思う。ほら店長さんとか」
「もう貸して!」

煮え切らない僕の態度に苛立った姉は紙を奪い取ると、鉛筆で証人の欄に僕の名前を書いた。

「下書きしてあげたから。あんたはここをなぞればいいの」

そう言って姉はその紙をまた僕の前に置いた。僕は下書きされた自分の名前を見て寂しさを募らせた。
僕の大学卒業に合わせて姉が結婚を決めた。姉の婚約者はとても良い方できっと姉を幸せにしてくれるだろう。僕を育ててくれた姉には本当に感謝をしていて、僕はこの結婚に何の反対もなかった。

ただ、この紙に証人として署名をすることで、姉が遠くに行ってしまうような気がして僕は名前を書けずにいた。僕の気持ちに気が付いたのか、姉は優しい声で言った。

「私は家族に結婚を認めて欲しいの。私の家族はあんただけだからさ」

姉が言った家族という言葉に、胸のつかえが消えていくのが分かった。

「さっさと書いてよ。お姉ちゃん帰れないじゃん」

姉がまた僕を急かす。
観念した僕は、目の前の紙に下書きされた自分の名前を丁寧になぞった。そんな僕を姉は笑顔で見守っていた。



おしまい(1,200字)

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