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【心優しい科学の子】
「頭を借りたいんだけど」
夕食後、リビングでダラダラしていた僕に奥さんが唐突に声を掛けてきた。「頭を借りたい?」オウム返しのように口を開いた僕に奥さんは真剣な表情で頷いた。
僕はこう見えて会社では介護事業部の統括責任者を任されている。80人を超えるスタッフをまとめたりトラブルなどが起こった際には迅速に対応している。そんな僕の頭、つまり頭脳を借りたいとは奥さんは一体どんな問題を抱えているのだろうか。腕が鳴るぜ。
「学校でヘアカラーの授業があったんだけど、全然上手くできなくてさ。ちょっと練習させてくれない?」
どうやら奥さんの言う”頭”とは髪の毛のことのようで、僕の頭脳には1ミリも用事はなかった。
僕の奥さんは今年から美容専門学校に通っている。最近、ヘアカラーの授業が始まり、なかなか苦戦をしているみたいだった。
僕は40歳を超えたあたりから白髪目立つようになり、トリートメントタイプの市販の商品で自らの手でヘアカラーをしていた。
もちろん美容院などのヘアカラーと比べると綺麗に染められてはおらず、ところどころまばらになっているが、僕は逆にそれがオシャレな雰囲気を醸し出していると思っていて、自分で言うのは恥ずかしいけど実は気に入ってたりする。
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本当はあんまり今のスタイルを崩したくはないが、愛する奥さんの頼みとあれば「喜んで!」と引き受ける選択肢以外は僕にはなかった。
渋々引き受けた僕に早速奥さんは毛染めの準備を始めた。奥さんが選んだ色は黒だった。本当はもっと明るい色が良いと思ったが、やる気満々の奥さんの姿に僕は黙って頭を差し出した。
専用のハケを使ってペタペタと僕の髪の毛にカラー剤が塗られていく。授業で習っているからなのか、とてもスムーズに塗っているように感じた。自分ではどのように塗られているか確認できないが、真剣な表情で塗る奥さんの姿を見ると、「頑張っているんだなぁ」と少し感慨深くなった。
全体的に満遍なく塗る奥さんだったが、フロント部分が塗りにくいのか前髪辺りを時間をかけて塗っていた。
毛染めを開始して数十分経った頃だろうか。急に奥さんが笑い出した。
「ふふ、ぷくく、ぶははっ、わははははは!」
その笑いはどんどん助長されていき、もう毛染めどころではなくなっていた。僕には何がそんなにおかしいのか全然分からなかった。お腹を抱えて笑う奥さんが僕に言った。
「あはは、あんたの頭が、ははは、鉄腕、ぶはは、アトム、くはは、みたいに、なははは!」
どうやら僕の頭が鉄腕アトムみたいと言いたいようだった。
鉄腕アトムとは、説明不要の手塚治虫先生の不朽の名作である。十万馬力の心優しい科学の子だ。
ヘアカラー中に頭が鉄腕アトムになるなんて聞いたことがなかった。そんなことがあるはずがない。
僕を指さして笑っている奥さんをよそに僕は鏡に写る自分をマジマジと見つめた。
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おじさんのアトムがそこにいた。
想像以上のアトムっぷりに驚きを隠せなかった。だけどこれはもう絶対にわざとやっているに違いなかった。きっとフロント部分を塗っている時に面白くなったのだろう。どおりで前の方をやたら入念に塗っていると思ったぜ。
「ちょっと!俺の頭で遊ぶんじゃないよ!ちゃんと練習しないと」
「ごめんごめん、だんだん楽しくなってきちゃって」
ひとしきり笑い終えると奥さんは仕上げに入った。「はい終わり。10分くらい経ったら洗い流してね」そう僕に告げて奥さんは手についたカラー剤を洗い流すために洗面台へと向かった。
僕はスマホのタイマーに10分とセットしてぼーっとTV画面を眺めた。すると洗面台の方から奥さんの声が漏れ聞こえてきた。
「あれ?やばい。これ全然取れないじゃん!」
なにやら慌てている様子で必死で何かをしているようだった。洗面台へ向かうと奥さんはカラー剤が付着した手を一生懸命に洗っていた。
「この毛染め、結構強力!洗っても洗っても全く落ちない!!」
なるほど、そりゃ毛を染めるだけあってすぐに落ちたら意味ないもんな。美容師さんって大変だなぁと呑気に思っている僕に奥さんが言い放った。
「いやあんたのデコもやばいって!明日っからアトムになるよ!」
奥さんの言葉にハッと我に返った。
「アトムさんおはようございます」「アトムさんちょっと相談していいですか」僕のことをそんな風に言う利用者やスタッフを想像して背筋が寒くなった。急いで洗い流そうとする僕を奥さんが制止する。
「だめ!まだ10分経ってない!」
奥さんはちゃんと全体的に染めることができたかを確認したいようだった。そっか、もう美容師としての自覚があるんだね、すごいなぁ……ってそんな悠長な事を言ってる場合じゃなかった。
こちとら明日からアトムになるか否かの瀬戸際に立たされているのだ。こんなおじさんアトムの誕生はきっと手塚先生だって望んでいないはずだ。
しかし奥さんは頑なに譲らなかった。焦る僕とは裏腹に「あと5分」と冷静に時計を見て言った。
こうなった奥さんはもう止められないことを僕は知っていた。観念した僕はスマホの画面に表示されているタイマーを哀しい目で見つめた。僕は明日からアトムになります。
程なくしてスマホから時間を知らせる音が流れた。「いいよ」と奥さんは僕を風呂場へと促した。いつも以上におでこをゴシゴシと洗ったため先ほどよりかは薄くなったがそれでもアトムの名残りは確実にあった。
「よし!綺麗に染まったね!」
お風呂からあがった僕の髪色を見て奥さんが得意気に言う。髪の色なんてもはやどうでも良かった。そんなことより名残りアトムをどうにかしたかった。
あまりの悲しみに空を超えてラララしそうな僕に奥さんが近づいてくる。そして手に持ったコットンで僕のおでこをひと撫でした。
「うん、やっぱり落ちた」
そう言って奥さんはカラー剤が付着したコットンを僕に見せた。どうやらメイク落としを馴染ませたコットンで僕の名残りアトムを拭いてくれたみたいだった。奥さんから渡されたコットンでおでこに付いているカラー剤をふいた。あれだけ洗顔料でゴシゴシしてもなかなか落ちなかったカラー剤が嘘みたいに綺麗サッパリ落ちていく。
「科学の力ってすごいでしょ」
奥さんのニヤニヤした顔を見ると、きっとこの人は最初から科学の力を使うつもりだったのだろう。くそう科学の子め。
それでも明日からアトムにならずに済んで安心した僕は、綺麗に染まった自分の髪を見て黒髪も悪くないなと思ったのだった。
※ちなみにこんな仕上がりになりました。
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