30年近く不仲だった母の記憶と自分の正当性と
ハッシュタグに「3人育児」をつけてるものの、ここ半年、全く育児感がなかったことに気付く。
末娘が3歳になってから、格段と育児が楽になりつつある。もちろん、長男の塾探しとか、次女の受験とか、色々騒がしい半年だったけど、どうにか、とうとう「抜けた」っぽい。
髪を振り乱し、身なりもそこそこに、病気や呼び出しに怯え、余裕のかけらもなかった日々から、いつ抜け出したのか?
末娘を産んだ3年ぶり3回目の乳児と3回目の産後うつに疲弊していた頃、長女の同級生のママ達が、ボサボサオーラから「抜けて」どんどん身なりが整い綺麗になっていくのを横目で見ながら、「3年の我慢、、、」と耐え忍んだ。
やはり、3歳の壁があるのを末娘で改めて感じる。3歳まではほとんど赤ちゃんのようなもので、全てが危うくて結構な労力がかかる。
オキシトニンサンに溢れて、育児一色で、愛情に満たされて幸せであった一方で、全部自分を持っていかれた感もあった。本能と言ってもいい。私という人格というより生き物の本能として、育児をしていた。
しかし、イヤイヤを抜けたあたりか、トイレトレーニングを終えたあたりか、確実に自分に余裕ができる。がむしゃらに本能のままに、生物学的に生きてきたのが、突然転換したようだ。
抜けた今だから、この3年というか、長男から数えて9年。気が狂ったように生きていたなと思う。
これもまた自分、と思いながら、見たくない生き物の本性がかなり曝け出された。
とはいえ、面白いモノで、あんなに疲弊していた日々も、全部さっぱり記憶からなくなる。罪悪感も後悔も懺悔も皆、どっかに飛んでいく。
昔、母に「私はいい子育てしたでしょ?」と言われて、目が飛び出るかと思うぐらい驚いた。母と自分の記憶が違いすぎて笑った。
でも、忘れるぐらいで丁度いいのかもしれない。自分の子育ては間違ってなかったと思う両親だったからこそ、今の自分がある気もする。
正直、何が正解かなんて一つもわからないからこそ、今この瞬間の自分の正解を選び続けたい。
何にしても、自分の子ども達は逞しく生きることができると信じてるから、結局、自分がどうしたいか、なんだよね。
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