見出し画像

Midnight #6 「双面の月」 真夜中の賢者

枠の向こう側

銀座の表通りでは、年末商戦の喧騒が最高潮を迎えていた。高層ビルのガラス面に、クリスマスの装飾が鮮やかに映り込む。行き交う人々の表情には、一年の締めくくりへの慌ただしさが浮かんでいた。

その賑わいから一本路地に入ると、静けさが戻ってくる。古い石畳の路地には、大正時代から続く老舗の提灯が、今宵も柔らかな明かりを灯していた。

Bar Exchangeの前で、スーツ姿の男性が足を止める。中西篤志、45歳。老舗出版社でデジタル戦略室の室長を務めている。物腰は柔らかいが、目の奥には芯の強さが感じられた。

明日は重要な経営会議。デジタル戦略の新たな方針を、保守的な幹部陣に説明する必要がある。部下から提案された企画書を、今朝方却下したばかりだった。その判断は正しかったのか。答えは、まだ見つかっていない。

木戸の向こうから、ビル・エヴァンスの「Some Other Time」が静かに流れ出ている。しばし躊躇った後、彼は重い扉に手を掛けた。

「いらっしゃいませ」

マスターの声が、落ち着いた空間に響く。

「初めて来ました...阪口さんから、このお店のことを」

「ああ、阪口先生ですか」

マスターの目が、懐かしむように細められた。

一杯目 『静かな揺らぎ』

「カウンターはいかがでしょう」

鷹宮は、端の席へと視線で案内した。カウンターに並ぶボトルの群れが、琥珀色の光を柔らかく反射している。

中西は静かに腰を下ろすと、革のブリーフケースから一冊のファイルを取り出した。「デジタル戦略 2025」と書かれた表紙が、ほんの一瞬、照明に照らされる。

「お飲み物は...」

「ハイボールを」

少し疲れた声で、中西は答えた。

マスターは無言で頷き、背の高いグラスに氷を入れ始める。氷と硝子が織りなす澄んだ音が、静かな空間に響く。

「阪口先生とは、よくお話をさせていただきました」

ウイスキーが注がれ、その上からソーダ水が静かに加えられていく。

「先生は、御社の編集顧問を...」

「ええ。40年近く。私が入社した時から、ずっと御指導いただいています」

中西は差し出されたハイボールに手を伸ばした。炭酸の泡が、グラスの中でゆっくりと上昇していく。

「実は、明日...」

一口飲んで、中西は言葉を続けた。

「重要な経営会議があるんです。デジタル戦略の新方針について。今の出版界は、大きな転換点を迎えています」

マスターは黙って聞いていた。グラスを磨く手を止めることなく。

「若手から面白い提案が上がってきました。既存の書籍を全てデジタル化し、サブスクリプション型のサービスを展開する。斬新なアイデアです」

そこで言葉を切る。氷がグラスの中で、かすかな音を立てた。

「でも、私は今朝、その企画を却下しました」

グラスの中で、泡がゆっくりと立ち上っていく。

「若手たちの提案は、確かに革新的でした。既存コンテンツのデジタル化、月額制の読み放題、AIを活用したレコメンド...技術的にも、マーケティング的にも、よく考え抜かれていた」

中西は、ハイボールを一口含んだ。炭酸の刺激が、喉の奥で弾ける。

「でも...これを経営会議に出せば、必ず反対されます。『伝統ある出版社が、本をサブスクで売り切るのか』『作家や取次との関係はどうする』と。結果は目に見えている」

「だから、先手を打って却下したと」

マスターの静かな声に、中西は小さく頷いた。

「若手を傷つけたくなかった。でも...これで良かったのかな」

グラスが半分ほど空になる。外では、冷たい冬の雨が降り始めていた。

「彼らの表情と言ったら...」

中西の声には、後悔の色が滲んでいた。若手社員たちの落胆した顔が、まだ目に焼き付いている。

二杯目 『透明な境界線』

「二杯目は、いかがいたしましょう」

マスターの声が、重くなりかけた空気を軽やかに切る。

「ジントニックを」

夜も更けてきた。カウンターに並ぶボトルたちが、より深い輝きを帯び始めている。

「かつて、私が国際交渉の場で経験したことですが...」

マスターは、背の高いグラスに氷を入れながら言った。

「同じ提案でも、その『枠組み』によって、受け取られ方が大きく変わることがあります」

ジンが注がれ、その上からトニックウォーターが静かに加えられていく。

「例えば、あるプロジェクトで『30%の失敗リスクがある』と説明するのと、『70%の成功率が見込める』と説明するのとでは...」

「全く違う印象を与えますね」

中西の声が、僅かに上がる。

「心理学では、これを『フレーミング効果』と呼びます。同じ事実でも、それをどういう枠組みで伝えるかによって、人の判断は大きく変わる」

マスターは、ライムを丁寧に搾りながら続けた。

「若手の提案を、『伝統的な出版のデジタル化』として伝えるのと、『デジタル時代における新たな本の伝え方』として伝えるのとでは...」

その言葉に、中西は息を呑んだ。

「あの国際交渉では、最初、双方の主張は真っ向から対立していました。でも、議論の『枠組み』を変えることで、突然、解決への道が開けた」

グラスの中で、小さな気泡が静かに上昇していく。

「そうか...」

中西は、ジントニックを一口含みながら、今朝の企画書を思い返していた。若手たちが必死で書いた文字の一つ一つが、新しい意味を帯びて蘇ってくる。

「デジタル化は、本を軽くすることではない。新しい形で、本の価値を伝えることなのかもしれない」

外の雨は、いつの間にか雪に変わっていた。

三杯目 『境界線の向こう』

窓の外では、雪が静かに降り続いていた。ビル・エヴァンスの「Some Other Time」が終わり、新たにマイルス・デイビスの「Blue in Green」が流れ始める。その即興的な旋律が、これから始まる何かを予感させるように響いていた。

「最後に、特別なものを」

マスターは、背後の棚から二つの異なるグラスを取り出した。一つは背の高いストレートグラス、その姿は現代的で洗練されている。もう一つは伝統的な錫製の酒器。幾度となく使い込まれた表面には、柔らかな光沢が宿っていた。

「同じものでも、器が変われば印象が変わる。ちょうど、お話の『枠組み』のように」

まず、ストレートグラスに透明な液体が注がれる。マスターの手元では、一滴一滴が光を透かすように落ちていく。クリスタルのような透明感を持つグラスに、現代的な印象を受ける。

続いて、同じ液体が錫の酒器に注がれた。金属特有の重みのある音が、静かに響く。古めかしくも趣のある佇まい。光の加減で、表面には幾重もの年輪のような模様が浮かび上がる。

「かつて、ある美術館で出会った館長から教わったことがあります」

マスターは、二つの器を並べながら言った。

「同じ絵画でも、どんな空間に、どんな光の中に置くかで、まったく異なる印象を与える。大切なのは、作品の本質を見失わないこと。そして、その本質をより良く伝えられる『場』を選ぶこと」

中西は、それぞれの器を交互に見つめた。ストレートグラスでは、液体が冷たい光を放っている。対して錫の酒器では、温かみのある艶を帯びていた。

「このカクテルの名前は?」

「『Janus』」

マスターは、静かに答えた。

「古代ローマの神で、過去と未来、始まりと終わりを見つめる二つの顔を持つ存在です。一つの真実も、どちらの顔から見るかで、まったく違う表情を見せる」

ストレートグラスを手に取ると、爽やかな吟醸香が、現代的なクリスタルの縁から立ち上る。一口含むと、クリアでシャープな味わいが、舌の上で広がった。

対して錫の酒器からは、落ち着いた深みのある香りが鼻腔をくすぐる。まるで長年の時を経た古書のような、懐かしさすら感じる芳醇な香り。口に含むと、さらに違いが際立つ。同じ液体とは思えないほど、まろやかで深い味わいが広がっていく。

「本というメディアも、同じかもしれません」

マスターの声には、確かな示唆が込められていた。

「デジタルか紙か、という対立軸ではなく。それぞれの表情で、本の価値をより豊かに伝える。そういう視点もあるのではないでしょうか」

「なるほど...」

中西は、二つの器を見比べながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「私たちが守るべきは、本の『形』ではなく、『本質』なのかもしれない。デジタルも紙も、それぞれの特性を活かしながら...」

窓の外では、雪が静かに降り続いている。マイルス・デイビスのトランペットが、深い余韻を残して消えていく。

「明日の会議では、こう切り出してみましょうか」

中西は、両方の器を、ゆっくりとカウンターに置いた。

「私たちは、新しい『顔』を手に入れようとしているのだと。それは決して古い『顔』を捨てることではない。むしろ、本の可能性を、より豊かに広げていくための選択なのだと」

伝統と革新。相反するように見えた二つの価値が、今、確かな調和を見せ始めていた。

(終)

いいなと思ったら応援しよう!