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Midnight #3 「沈黙の向こう側」 真夜中の賢者 

梅雨空が夜の帳に溶けていく六月の終わり。銀座の裏通りに佇むBar Exchangeの重厚な木戸に、細かな雨粒が静かに打ちつけていた。

店内では、マイルス・デイビスの「Kind of Blue」が、琥珀色の照明に溶け込むように流れている。白いバーテンダージャケット姿のマスターは、いつものように丁寧な手つきでグラスを磨いていた。その切れ長の目は、雨に煙る通りを見つめながら、何か遠いものを見るような色を帯びている。

カウンターには、わずかな水滴を含んだ氷が、静かに溶けていく音だけが響いていた。

時計が午後十時を指す頃、重厚な木戸が開かれ、スーツ姿の中年男性が滑り込むように入ってきた。肩に雨を含んだスーツは高級な生地で仕立てられ、その佇まいからは豊富な経験が滲み出ていた。

「いらっしゃい」

マスターの静かな声が、空間に馴染むように響く。

一杯目 「空白の重み」

「お久しぶりです」

声の主は村上誠一。大手商社で国際案件を手がける敏腕バイヤーだ。42歳にして、すでに数々の大型案件を成功に導いてきた実績を持つ。普段は自信に満ちた表情を浮かべる彼の顔が、今夜は珍しく曇っていた。

「いつもの席にどうぞ」

マスターは、カウンターの端から三番目のハイチェアを示した。村上が好む、程よい距離感のある場所だ。

「ここ最近はアジアを回っていたんですよ」

村上は、ネクタイを少し緩めながら座り込んだ。

「大型案件の交渉があって。シンガポールからジャカルタまで、二週間ぶっ通しでした。実は今日の午後、成田に戻ったばかりなんです」

その声には、単なる疲労以上の何かが滲んでいた。

「今夜は、何になさいますか?」

「ああ...そうですね。実は、今回の案件で悩んでいて」

村上は言葉を探すように一度黙り込み、ため息まじりに続けた。

「インドネシアの新規サプライヤーとの商談なんです。森林認証材を扱う、現地では名の通った企業です。先方のオーナーは昔気質の実業家で、私たちの提案に対して、やたらと長い沈黙を挟むんです」

村上の声には、どこか焦りが混じっていた。

「私たちのチームは、その沈黙に耐えきれなくて。次々と新しい条件を提示してしまう。本来は出すつもりのなかった譲歩案まで、つい口走ってしまって...」

マスターは黙って聞きながら、棚のボトルに目を走らせていた。しかし、まだグラスに手を伸ばすことはない。

「日本の商社の中でも、私たちは特にアジアビジネスには自信があったんです。文化の違いを理解し、尊重することには長けていると。でも今回は、その自信が仇になったのかもしれません」

村上は、自嘲気味に笑った。

「相手の沈黙に、私たちは『No』を感じ取った。でも、本当にそうだったんでしょうか」

その言葉に、マスターはふと手元の作業を止めた。

「具体的には、どんな場面だったんですか?」

「ええ、例えば先週の価格交渉です。私たちは市場調査に基づいて、かなり競争力のある価格を提示しました。FSC認証材としては破格と言えるレベルです」

村上は少し体を前に乗り出し、声を落として続けた。

「その時、オーナーは資料をじっと見つめたまま、実に5分は黙り込んでいました。私たちのチームは、その沈黙を『不満』のサインだと解釈して、すかさず値引きを提案してしまった」

「それで、オーナーの反応は?」

「また沈黙です。今度は私たちの焦りも極限に達して、支払い条件の緩和まで持ち出してしまいました」

窓の外では雨足が強まり、ガラスを打つ音が鮮明になっていた。

「最終的に、その日の交渉は『持ち帰って検討する』という言葉で終わりました。でも翌日、現地コーディネーターから『最初の提案で十分だった』という話を聞かされたんです」

村上の表情に、悔しさが浮かぶ。

「要するに、私たちは相手の沈黙を読み違えた。いや、そもそも『読もう』としすぎたのかもしれません」

二杯目 「待つことの知恵」

マスターは、しばらく黙ってグラスを磨き続けていた。その手つきには、いつもの丁寧さの中に、何か思索めいたものが感じられる。

「沈黙には、様々な顔があります」

静かな声が、雨音に重なるように響く。

「特にビジネスの場面では、文化によって全く異なる意味を持つことがある。例えば欧米では、沈黙は多くの場合、否定や躊躇のサインとして受け取られます」

マスターは、カウンターの下から小さな砂時計を取り出した。

「一方、アジアの多くの地域では、沈黙は『熟考』や『敬意』を表すことがある。特に重要な決断を求められる場面では、その傾向が顕著になります」

マスターは砂時計をゆっくりとひっくり返した。細かな砂が、静かに落ち始める。

「かつて私も、似たような経験をしました」

珍しく、マスターが自身の過去に触れる。村上の背筋が、自然と伸びた。

「15年ほど前、中東での大型プロジェクトの交渉に関わっていました。相手は、その国を代表する実業家でした」

マスターの目が、遠くを見るような色を帯びる。

「当時の私も、相手の沈黙に戸惑いました。提案の後には必ず長い沈黙が続く。その度に、新しい提案を重ねてしまう」

砂時計の砂は、まだその半分も落ちていない。

「しかし、あるとき気づいたんです。相手は『考えている』のではなく、『待っている』のだと」

「待っている?」

「ええ。私が自分の提案の価値を、十分に説明し切るのを」

マスターの言葉に、村上は目を見開いた。

「沈黙は、相手に『語らせる』ための手法でもあるんです。特に経験豊富な実業家ほど、この手法を使うことがある」

「語らせる...」

「そうです。人は往々にして、沈黙を『埋めなければならない空白』だと考えてしまう。その結果、本来は言うつもりのなかったことまで口にしてしまう。時には、自分の提案の価値を、自らの手で切り下げてしまうことさえある」

マスターは、ゆっくりと棚から一本のボトルを取り出した。

「相手の沈黙に、必ずしも答える必要はない。時には、その沈黙に寄り添うことで、相手の真意が見えてくることもある」

村上は、砂時計の砂が落ちていくのを見つめながら、自分たちの交渉を振り返っていた。確かに、オーナーの沈黙の後に、チームは必要以上の譲歩を重ねていた。本来なら、最初の提案の価値をもっと丁寧に説明すべきだったのかもしれない。

三杯目 「熟成の時」

「こちらのカクテルを、Silent Wisdomと名付けています」

マスターの手元で、深紅の液体がゆっくりとグラスに注がれていく。

「交渉の場での沈黙には、もう一つ重要な意味があります」

そう言いながら、マスターは青い液体を一滴、また一滴とグラスに落としていく。液体は徐々に色を変え始め、深い紫色へと変化していった。

「見てください。この色の変化を」

グラスの中では、まるで夜明け前の空のように神秘的な色の変化が続いていた。

「この変化には、正確な時間が必要です。早すぎても、遅すぎても、この色は生まれない。そして一度始まった変化は、決して急かすことはできない」

マスターは、もう一度砂時計に目を向けた。砂は、ちょうど最後の一粒が落ちようとしていた。

「ビジネスの交渉でも、同じことが言えます。重要な決断には、それぞれに適切な『熟成の時間』があるものです」

「その通りですね...」

村上は、グラスの中の色の変化を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「私たちは、相手の沈黙を『待ち時間』と考えていた。でも実際は、それは提案が価値を増していく『熟成の時間』だったんです」

「ええ。時には、沈黙こそが最も雄弁な言葉となる」

マスターは、紫色に変化したカクテルを村上の前に置いた。

「では、次回の交渉に向けて、実践的なアプローチを考えてみましょうか」

「はい、お願いします」

「まず、チーム全体で『沈黙の価値』について、共通認識を持つことが重要です。例えば、交渉の前に『沈黙のルール』を決めておく。相手が沈黙した場合、最低でも砂時計一本分...そう、3分は待つ。その間、誰も新しい提案は出さない」

村上は、スマートフォンのメモ帳を取り出しながら、真剣な面持ちで聞き入った。

「次に、その沈黙の時間を有効活用する。相手の表情、姿勢、細かな仕草を観察する。そこから、提案のどの部分に関心を持っているのかを読み取る」

「なるほど...」

「そして最後に、沈黙が破られた時、相手が最初に発する言葉に注目する。多くの場合、その一言に本質的な関心事が含まれている」

村上は、紫色のカクテルを一口含んだ。複雑な味わいが、時間をかけて変化していく。

「それと、もう一つ重要なことがあります」

マスターの声が、より静かになった。

「『沈黙を恐れない』ということは、『自分の提案に自信を持つ』ということでもあります。焦って価値を下げる必要はない。相手が黙っているということは、つまり、あなたの提案にはそれだけの『考える価値』があるということなのですから」

外の雨音が、いつの間にか小降りになっていた。

カウンターに置かれた砂時計の最後の一粒が落ち、マスターは静かにそれを裏返した。新しい時を刻み始めようとする砂の流れを見つめながら、村上の表情には、かすかな微笑みが浮かんでいた。

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