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Midnight #9 「三方向に揺れる交差点」

扉の向こう ― 路地に沈む灯

夜の銀座は、明るいメインストリートを抜けたその先で、まるで時間が止まったかのように静まりかえっていた。人影の消えた裏通りに、控えめな真鍮プレートがひっそりと灯る。扉を押せば、柔らかなジャズのメロディが出迎えてくれる「Bar Exchange」。

店内は薄暗い照明のもと、白いジャケットのマスター――鷹宮 匠がカウンターの奥でグラスを磨いていた。控えめな音量のサックスが、氷の音と溶け合いながら空間を満たしている。

その晩、店の扉をゆっくりと開けて入ってきたのは、三十代半ばほどの男性、三原 玲司
胸元に少し疲れを滲ませつつも、どこか決意めいた表情を湛えている。

三原「こんばんは、マスター。…ふう、すみません。ちょっと頭が煮詰まっちゃって、ここなら落ち着けるかと思って来ました」

カウンター席に腰を下ろした彼を、鷹宮は軽く会釈して迎えた。

鷹宮「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。最初の一杯は、いつものようにジントニックになさいますか?」

三原は小さく笑みを返しながら、
「ええ、お願いします」とうなずいた。


一杯目 ― 苦味の始まり

ライムの爽やかな香りが立つジントニックが三原の前に差し出される。三原はその縁を指先でそっと撫で、ひとくち口に含んだ。

三原「…やっぱり落ち着きますね。職場ではなかなか飲めない味なんですが、ここで呑むとホッとします」

彼はゆっくりとグラスを置き、思い詰めたように口を開いた。

三原「実は今、自治体で進めている地域活性化プロジェクトがあるんです。あらためて大々的に観光資源をPRしようって話なんですが、大学の研究室にも協力をお願いして、データや分析を活かそうとしていて…。そこまではまだ良かったんです。
でも、そこに地元企業が絡み、さらに外部の投資家まで参加することになって…。皆さんがそれぞれ言いたいことを主張するもんだから、ちっとも話がまとまらない。
なんとか糸口を探そうとして、マスターに前にアドバイスをいただいたでしょ? あれを参考にやってみたら少しは見えかけたんですけど、最近になってまたステークホルダーが増えて、もうカオス状態で…」

ジントニックを見つめながら、彼は深いため息をつく。

三原「僕としては、誰かをないがしろにすることなく、うまく共存させたいんです。でも大学は研究成果をどんどん活用したいし、企業は利益を出したい。投資家はROIばかりを気にするし、住民は住民で“開発で暮らしが乱されないか”って不安に思っていて…。相手が多すぎると、どこから手を付けていいのか分からなくなってしまって」

鷹宮はカウンター越しに静かに聞きながら、グラスを磨く手を止める。
三原の苦悩は、いわゆる多者交渉の典型的な難しさを物語っているのだ。


二杯目 ― 揺れる三方の理

少し間をおいてから、鷹宮が用意した2杯目は、ほのかな柑橘の香りがアクセントになったアレンジ・マティーニ。オリーブの代わりに柑橘ピールが浮かび、キレのあるジンの苦味を和らげている。

鷹宮「これは“トライアングル・マティーニ”とでも呼びましょうか。通常のマティーニに、シトラスリキュールをひとさじ加えてあります。ほんのり酸味が立つので、複雑でありつつも飲みやすいかもしれません」


三原が軽く口をつけると、最初はジンのドライな香り、続けて奥から甘酸っぱい余韻が鼻腔をくすぐり、思わず顔をほころばせる。

三原「うん…マティーニらしいキレの中に、ふと心地よさが混ざりますね。まさに三方向くらいの味わいがバランスしてる感じだ」

そう呟くと、三原は少し考え込むように眉を寄せた。

三原「だけど現実のほうは、三つどころか四つ、五つ…本当にバラバラでどうにもならなくて。こっちで合意しかけると、あっちが不満をこぼすし…。一緒に合意に漕ぎついてくれそうなグループをまず探せばいいのかなと思っても、どこも一筋縄じゃいかないんですよね」

鷹宮は静かにうなずきながら、グラスを手に取り話を続ける。

鷹宮「そうですね。多者交渉がややこしいのは、全員を同時に満足させるのが難しいからです。だからこそ、連立交渉というやり方が有効になります。
まずはある程度近い意見を持つ相手から合意を作り、その“ひと塊”になった提案を別のグループに示す。その繰り返しで、少しずつ輪を広げていくんです。
“部分合意”を足がかりにして、新たな仲間を巻き込む、と言えば分かりやすいでしょうか」

三原「連立交渉…なるほど。一度に全部じゃなくて、まず一部で合意を作るってことですね」

鷹宮「ええ。たとえば大学と投資家が“社会貢献と宣伝効果を同時に狙える”という点で折り合えたら、その成果を今度は地元企業に見せる。すると企業も『それならうちも一枚噛もう』となるかもしれません。自治体としては、次に住民の不安を解消しながら、その企業を先例として活用できる。
要はみんなで一斉に議論するだけでなく、小さな連携を少しずつ作っていく、といったイメージですね」

三原はマティーニをもうひと口味わい、深く息をつく。

三原「そっか…小さな協力から始めればいいのか。すべてを一気にまとめようとしてたからパンクしそうだったんだな。
大学×投資家の合意があるなら、うちとしても“成功事例”みたいにして、それを町内会や住民に見せれば少しは安心してもらえるかもしれない。ありがとう、何だか光が見えた気がします」


三杯目 ― 交差点に灯るオリジナル

鷹宮が最後に差し出したグラスは、淡い琥珀色が印象的なオリジナルカクテル――**「Crossroads(クロスロード)」**と呼んでいるという。スパイスの香りとシトラスの清涼感がほんのり漂う。

鷹宮「ジンとベルモットに、少量のシナモンリキュール、そこへライムを足しています。意外な組み合わせですが、うまく混じり合えば独特の深みを出せるんですよ。
“交差点”と名付けたのは、交わる先々で新たな道が見えてくる…そんなイメージからです」

三原はそっと口をつけ、スパイスの余韻を味わいながら微笑んだ。

三原「すごく複雑なのに、何だかうまく溶け合ってますね。このプロジェクトも、きっとこういう風にバランスが取れればいいんだろうな」

カウンターにグラスを戻すと、彼は小さく決意を固めたように拳を握る。

三原「部分合意で連立を広げる…そのやり方、試してみます。焦らずに、大学と投資家、あるいは地元企業と少しずつ合意を重ねて、その流れで住民に話をしていく。
みんなが納得できる形は時間がかかるかもしれないけど、まずは焦りを捨ててやってみますね」

鷹宮が静かな笑みを浮かべて、「ええ、頑張ってください」とだけ返す。その声には、どこかかつての自分自身を思い起こすような、淡い温かみが感じられた。


結び ― 写真が語らぬもの

三原が一礼してバーを出て行くと、店内には再び穏やかなジャズの旋律だけが漂い始める。
グラスを拭き終えた鷹宮は、ふと奥の壁に視線を投げかけた。そこには、鍵付きの棚と一枚の写真が並んでいる。若き日の鷹宮と、もう一人の男性が笑顔で肩を組む姿。
鷹宮は写真に目を留め、その微笑みに宿る記憶を噛みしめるかのように、ほんの数秒、言葉もなく立ち尽くした。

鷹宮「……連立、か。昔はもっと複雑だったな…」

独りごちて、指先が棚の小さな鍵に触れかけるが、すぐに静かに手を引く。
それはまだ、開く時を待っているのかもしれない。
再び静寂を取り戻したカウンターには、ほのかに漂うシトラスの残り香と、スパイスの余韻だけが揺れていた。ジャズのメロディが沈む夜の銀座へ溶けていく頃、鷹宮の胸には、過ぎ去りし日々の記憶が微かに疼く。

――多方向に揺れ続ける交渉の先で、やがて迎える合意は、果たしてどんな味を生むのだろうか。
Bar Exchange の夜は、静かな期待とともに更けていく。

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