Midnight #4 「跳躍の瞬間」 真夜中の賢者
一杯目 『冬の入り口』
師走の寒気が、Bar Exchangeの重厚な木戸に霜を結ばせそうな勢いだった。銀座の街は、クリスマスイルミネーションに彩られ、年の瀬の喧騒に包まれている。その賑わいをよそに、裏通りに佇むバーの前で、一人の青年が立ち尽くしていた。
ドアが静かに開かれ、ショパンのノクターンが流れ出てきた。琥珀色の灯りが、青年の躊躇う姿を優しく照らす。
「いらっしゃいませ」
マスターの声が、温かな空気と共に青年を包み込んだ。
「あの、榊原教授に紹介されました...高瀬と申します」
高瀬裕太、27歳。スタンフォード大学院でAIと量子コンピューティングを研究した気鋭のエンジニアだ。学生時代、量子もつれの制御に関する論文で注目を集め、シリコンバレーの大手テック企業からのオファーもあった。しかし彼は、自らの理論を実証するために、帰国後すぐにスタートアップを立ち上げた。
革のショルダーバッグからノートPCを取り出し、カウンター横に置く。画面に貼られたステッカーには「QUANTUM LEAP」という社名が、未来的なフォントで描かれている。起業から一年。エンジェル投資家からの支援を得て、着実に成長を遂げてきた。だが今夜、その表情には深い悩みの色が滲んでいた。
「お飲み物は...」
高瀬は一瞬言葉を詰まらせた。普段は研究室かオフィスで過ごす日々。こういった場所には馴染みがない。
マスターは微笑んで、背の高いグラスを取り出した。
「では、まずはこちらを」
細かな氷と透明な液体が、グラスの中で静かな音を奏でる。ライムを一切れ添えたジントニックは、バーに不慣れな客が最初に出会うべき一杯だった。
「ありがとうございます」
高瀬は恐る恐るグラスに手を伸ばし、一口すすった。爽やかな苦みが、緊張した身体をほぐしていく。
「私たち、来週、シリーズAの資金調達が決まりそうなんです」
少し落ち着いた声で、高瀬は話し始めた。グラスの縁を指でなぞりながら、言葉を選ぶように間を置く。
「20億円。創業一年のスタートアップとしては、破格の金額です」
そこで言葉を切る。グラスの中で、氷がゆっくりと溶けていく音が響いた。
「実は...一年前、このプロジェクトを始めたとき、私たちは四人でした」
高瀬はノートPCを開き、デスクトップに保存された一枚の写真を表示した。研究室で撮影されたその写真には、若いエンジニアたちの笑顔が並んでいる。
「左から、システムアーキテクトの田中、アルゴリズム開発の山本、そしてハードウェア設計の佐藤。私は理論と全体の設計を担当しています」
四人とも30歳以下。しかし、その眼差しには確かな自信が宿っていた。
「スタンフォードの研究室で発見した、量子もつれの新しい制御方法。これを実用化できれば、現在の量子コンピューターの限界を超えられる。そう確信していました」
高瀬の声に、かつての熱が戻ってくる。
「従来の量子コンピューターは、量子ビットの安定性が最大の課題でした。でも、私たちは違うアプローチを見つけた。不安定性そのものを利用する。常識を覆すような発想です」
マスターは黙って聞いていた。グラスを磨く手を止めることなく、時折、小さく頷きを返す。
「最初の半年は、本当に苦しかった。資金も設備もない。でも、この四人なら、きっと何かを変えられる。そう信じていました」
そこで高瀬は深いため息をつく。窓の外では、数枚の雪が舞い始めていた。
「でも来週、大手IT企業の傘下に入ることが決まります。経営の自由は保証されているものの、彼らは短期的な成果を求めてくる。実験的なアプローチより、確実な改善を。私たちの目指す『跳躍』ではなく、『段階的な進歩』を」
「それを、仲間たちはどう考えているんですか?」
マスターの静かな問いに、高瀬は一瞬言葉を詰まらせた。
二杯目 『深まる夜』
「昨日、全体ミーティングがありました」
高瀬は、もう空になったグラスを見つめながら言った。
「田中が、突然立ち上がったんです。『このままじゃ、私たちの夢は死ぬ』って」
ショパンのノクターンが終わり、新たにマイルス・デイビスの「So What」が流れ始める。即興性に満ちたジャズが、バーの空気を少しずつ変えていく。
「二杯目は、いかがいたしましょう」
「ウイスキーベースで、何か...スタイリッシュなものを」
マスターは無言で頷くと、背後の棚から数本のボトルを取り出した。
「マンハッタンはいかがでしょうか。ビジネスの世界では、古くから愛されてきたカクテルです」
赤褐色の液体が、優雅な曲線を描いてグラスに注がれていく。
「ウイスキーとベルモットが織りなすハーモニーは、伝統と革新の調和を表現しているようでもあります」
チェリーを添えられたカクテルに、高瀬は見入っていた。その深い色合いは、昨日のミーティングルームの雰囲気を思い起こさせた。
「私たちの量子アルゴリズムは、従来の限界を超えられる可能性がある。その証明には、あと2年...いや、運が良ければ1年半かもしれない」
高瀬はノートPCの画面を開き、複雑な数式とグラフを表示した。
「これが、先月の実験データです。小規模な量子回路ですが、私たちの理論通りの振る舞いを示している。あとは規模を拡大していくだけ...」
そこで声が途切れる。
「でも、大企業は待ってくれない。四半期ごとの実績を求められる。『夢』よりも『現実』を求められる」
マスターは静かに、赤褐色のカクテルが映すバーの照明を見つめていた。
「成功すれば、計り知れない価値がある。でも、失敗すれば...」
「失敗を恐れているんですか?」
マスターの問いかけに、高瀬は首を横に振った。
「いいえ。むしろ、失敗する自由を失うことの方が怖い」
その言葉に、マスターの目が僅かに輝いた。
「昨日、田中の発言の後、山本が言ったんです。『大企業の資金力は魅力的だ。でも、それと引き換えに失うものはないだろうか』と」
高瀬は、マンハッタンを一口すすった。深い味わいが、喉を通り過ぎていく。
「佐藤は黙っていました。彼は最近、給与の遅配を心配している様子で...」
外では雪が本格的に降り始めていた。窓ガラスに当たる雪の音が、静かなリズムを刻んでいる。
「量子もつれという現象は、アインシュタインでさえ『不気味な遠隔作用』と呼んで否定した代物です」
高瀬はスマートフォンを取り出し、シンプルな図を描き始めた。
「二つの粒子が、どんなに離れていても瞬時に影響し合う。常識では考えられない現象です。でも、その『常識では考えられない』ことこそが、量子コンピューターの可能性を広げる」
「従来の研究は、この『不気味さ』を抑え込もうとしてきた。でも私たちは違う」
高瀬の声が力強さを増す。マンハッタンの深い色合いが、カウンターの照明に輝いていた。
「不安定性を受け入れ、むしろ積極的に利用する。それが私たちのアプローチです。理論上は、従来の100倍以上の処理能力を実現できる」
「常識を覆す発想ですね」
マスターが静かに言葉を挟んだ。
「はい。だからこそ、失敗のリスクも大きい。でも...」
そこで高瀬は言葉を切った。マイルス・デイビスのトランペットが、深い余韻を残して消えていく。
「かつて量子力学が物理学の常識を覆したように、私たちも新しい扉を開きたかった」
過去形で語られた言葉に、マスターは僅かに眉を寄せた。
三杯目 『跳躍』
「最後に、特別なものを」
マスターは、普段は手を伸ばさない棚の一番上から、青い光を放つ不思議な形のボトルを取り出した。
「このカクテルは、まだ名前がありません」
マスターは、背の高い特殊なグラスを取り出した。氷を入れる前に、グラスの内側に透明な液体を少量流し込んでいく。
「かつて、量子力学の世界では、『不連続な飛躍』という概念が物議を醸しました」
細かく砕かれた氷がグラスに落とされる。その音が、夜の静けさに響く。
「電子は、軌道の間を連続的に移動するのではなく、瞬間的に『跳躍』する。当時の物理学者たちには、それを受け入れることが難しかった」
次に、深い青色の液体が注がれる。グラスの中で、まるで宇宙の深淵のような色が広がっていく。
「しかし、その『不可能』と思われた現象こそが、現代の量子力学の基礎となった」
そこで、マスターは銀色の器具を取り出し、何かの粉末をごく少量、カクテルの表面に振りかけた。
「時には、『段階的な進歩』ではなく」
最後に、無色の液体がゆっくりと注がれる。すると、青かった液体が徐々に変化し始めた。深い青から、紫へ、そして最後は美しい金色へと、まるで夜明けのように色が移り変わっていく。
「『跳躍』が必要となる」
完成したカクテルは、まるで朝日に輝く量子コンピューターを思わせる金色の輝きを放っていた。
「これを『Quantum Leap』と呼ばせていただきましょう」
高瀬は、息を呑んでその変化を見つめていた。グラスの中で起きた劇的な変化は、まるで彼らの研究そのもののようだった。
「昨夜、チームとの議論の後、私は研究室に戻りました」
高瀬は、金色に輝くカクテルをゆっくりと手に取った。
「そこで見た実験データの中に、小さな異常値があった。従来の理論では説明できない数値です。でも、私たちの理論に従えば...」
その瞬間、彼の目に確かな光が宿った。
「私たちは、正しい方向に進んでいる。ただ、その証明には時間が必要なだけ。大企業の資金力は魅力的ですが、それと引き換えに失うものは、あまりにも大きい」
マスターは静かに頷いた。
「このカクテルの色の変化は、実は非常にデリケートなバランスで成り立っています。一つの要素が欠けても、この現象は起こりません。まるで...」
「量子もつれのように」
高瀬が小さくつぶやいた。外では、雪が静かに降り続けていた。しかし、その白い雪片の向こうに、確かな夜明けの気配が感じられた。
「進歩は、時として不連続な跳躍として訪れる」
マスターの最後の言葉が、静かな余韻を残して消えていった。