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午後3時の交渉学 第7話「断りの作法」
1. 二つのメッセージ
カフェ・フィロソフィアの夕刻。 榊原教授は、いつもの窓際の席で若い女性の表情を見つめていた。
「どちらも、断りたいんです」
スマートフォンを握りしめる手が、わずかに震えている。山下直子、28歳。教授の教え子の後輩にあたる彼女は、二つのメッセージに追い詰められていた。
一つは親友からの結婚式の二次会幹事の依頼。 もう一つは、上司からの休日出勤の要請。
「山下さん」教授はゆっくりとコーヒーカップを置いた。「なぜ、断ることに躊躇いを感じるのでしょう?」
「それは...」直子は言葉に詰まる。「せっかく信頼してくれているのに、期待を裏切るようで」
「なるほど」教授の声が柔らかくなる。「私も若い頃、『No』が言えずに苦しんだ経験があります」
「先生も?」
「ええ。それが禅寺で学んだ『間』の大切さを知るきっかけになったんです」
その時、カフェの扉が開いた。 スーツ姿の中年男性が、少し疲れた様子で入ってくる。
「おや、田中さん」教授が立ち上がった。「今日は早いですね」
先日の対話で起業の決意を語った田中だった。 彼の表情には、何か悩ましい影が浮かんでいる。
「先生...」田中は深いため息をつく。「実は私も、断り方で悩んでいて」
教授は、静かに微笑んだ。
2. 禅寺での学び
「お二人とも、まずはゆっくりと深呼吸を」 教授はウェイトレスに目配せし、新しいコーヒーを注文した。
「田中さんの方は?」
「ええ」田中は椅子に座りながら言った。「起業の準備を進めていることを、今の会社に話し始めたんです。すると、重要なプロジェクトの責任者に...」
「指名された」教授が言葉を継ぐ。「断るに断れない立場で」
「はい。でも、これを引き受ければ、起業の時期が...」
直子が思わず身を乗り出す。 「私も同じです。友人の結婚式、断れば関係が壊れるかもしれない。かといって、休日出勤も断れば...」
教授は、窓の外を見つめた。夕暮れの空が、紫がかった色に染まり始めている。
「私が30代の頃」教授はゆっくりと話し始めた。「広告代理店で過労寸前になっていました。次々と舞い込む仕事を断れず、気がつけば週末も深夜も...」
二人が、静かに耳を傾ける。
「そんな時、恩師に勧められて訪れたのが、京都の禅寺でした」教授の目が遠くを見つめる。「最初の一週間、ただ座禅を組んで『間』を感じる。何も答えず、何も求めず...」
「それで?」直子が促す。
「すると、不思議なことが見えてきた」教授は穏やかに微笑んだ。「私たちは『No』を言うことを恐れる。でも実は、その『恐れ』こそが、関係性を歪めているんです」
ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。湯気が立ち上る様子を、三人はしばらく黙って見つめていた。
「禅寺では、『間』という時間が、とても大切にされています」教授が続ける。「その『間』があるからこそ、本当の対話が生まれる」
「『間』...ですか?」田中が首を傾げる。
「ええ。では、実践してみましょうか」 教授はそう言って、白いナプキンを取り出した。
3. 三つの「間」
「断りの作法には、三つの『間』があります」 教授はナプキンに三つの円を描いた。
「一つ目は『受け止めの間』」教授が最初の円を指す。「相手の依頼を、まずは十分に聴く時間です」
直子が小さく頷く。「でも、すぐに返事を求められると...」
「そこで大切なのが、二つ目の『考えの間』」教授は二つ目の円に触れた。「『即答は控えさせていただきたい』と伝える。これは失礼なことではありません」
「そうか...」田中の目が輝く。「『検討の時間をいただけますか』という言葉は、むしろ誠実さの表れ、と」
「その通り」教授が満足げに頷く。「そして最後が『伝えの間』。これが最も重要です」
その時、直子のスマートフォンが震えた。友人からのメッセージだ。 『幹事、引き受けてくれる?』
「さて」教授が静かに言った。「ここで『三つの間』を実践してみましょうか」
「はい...」直子は深く息を吸った。
「まず、友人の気持ちを受け止めてみましょう。なぜ、あなたに依頼したのでしょう?」
「それは...」直子は考え込む。「私のことを信頼してくれているから。段取りが得意だって、いつも言ってくれて...」
「素晴らしい」教授が頷く。「その『受け止め』がまず大切。次に『考えの間』。スマートフォンを置いて、コーヒーを一口」
直子は言われた通りにする。温かい珈琲が、緊張した身体をほぐしていく。
「そして『伝えの間』」教授はゆっくりと説明を続けた。「ここで大切なのは...」
カフェの外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
4. 二つの約束
「『伝えの間』で最も大切なのは」教授は静かに言った。「相手の期待に対する『代替案』を示すことです」
「代替案...」
「例えば、直子さんの場合。二次会の幹事は難しいけれど、その代わりに...」
直子は少し考え、おずおずと言った。 「写真係なら...私、カメラは得意だし」
「そう」教授が嬉しそうに頷く。「相手の期待の本質を理解し、自分にできることを提案する。これが『建設的な断り方』なんです」
田中も何かを思いついたように身を乗り出した。 「私の場合、新規プロジェクトは辞退するけれど、後任者への引き継ぎを丁寧にやることを約束する...」
「その発想です」教授が言った。「『No』は終わりではなく、新しい可能性の始まり。禅寺で学んだ最も大切な教えの一つです」
その時、カフェの入り口のドアが開いた。 スーツ姿の女性が、少し躊躇いがちに入ってくる。先日、結婚式の相談をした南條だった。
「あの、先生」 彼女は申し訳なさそうに近づいてきた。 「昨日、母から新しい提案があって...」
教授は穏やかな笑みを浮かべた。 「では、お二人の『断りの実践』の前に、その話も聞かせてもらいましょうか」
夜の帳が降りていく中、カフェの灯りは優しく人々を包み込んでいた。
5. 人とひととの間
「実は」南條は少し困ったように言った。「母が『披露宴は大きくやらないなら、その分の費用で新居の頭金に...』って」
「ほう」教授の目が輝く。「先日の対話が、新しい提案を生んだわけですね」
直子と田中は、その会話に聞き入っていた。
「でも今度は、主人の両親から...」南條が言いよどむ。
「断りづらい提案が?」
「はい。『せめて親族だけでも、きちんとした披露宴を』って...」
教授はゆっくりとコーヒーカップを手に取った。 「『断り』の本質は、実は『つなぎ』なんです」
「つなぎ、ですか?」三人が同時に顔を上げる。
「ええ。私が禅寺で過ごした二週目に、老師から言われた言葉があります」教授の声が静かに響く。「『人とひとの間には、必ず橋がある。その橋を見つけるのに、急いではならない』」
窓の外では、街灯の明かりが雨上がりの道を照らしていた。
「南條さん」教授が優しく言う。「両親たちが望んでいるのは、本当に『披露宴』なのでしょうか?」
「それは...」
「おそらく、その奥には『家族の絆』への願いがある。だとすれば...」
南條の目が、少しずつ輝きを増していく。 「そうか...披露宴という形にこだわらなくても...」
直子と田中も、何かを悟ったように表情が変わっていた。
6. 断りの向こう側
「そうですね」教授は頷いた。「家族の絆を深める機会は、他にもたくさんある。例えば...」
「新居の内覧に、両家のご両親を招いて」南條の声が弾む。「その後、みんなで食事会を。そうすれば、もっと自然な形で...」
「素晴らしい」教授が微笑む。「『No』の先に、新しい『Yes』が見えてきましたね」
直子は、自分のスマートフォンを見つめ直していた。
「私も...」彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。「友人の結婚式、二次会の幹事は難しいけれど、その代わりにウェディングフォトムービーを作らせてほしいって。実は前から、彼女との思い出の写真を集めていて...」
「私の場合は」田中も続けた。「新規プロジェクトこそ辞退するけれど、これまでの経験を活かして、月一度のアドバイザーとして関わることを提案しようと思います」
教授は満足げに三人を見渡した。
「『断り』は、関係の終わりではない。むしろ、より深い関係を築くチャンス。私が禅寺で学んだ最後の教えは、まさにそれでした」
窓の外では、夜の帳が完全に降りていた。 しかし、カフェの中は、温かな光に満ちている。
「さて」教授が言った。「それぞれの『新しい提案』を、具体的に組み立ててみましょうか」
その時、カフェの扉が再び開いた。 今度は、先日リフォームの相談をした藤本が、晴れやかな表情で入ってきた。
「先生!ご報告があって...」
教授は、静かに微笑んだ。 また新しい物語が、始まろうとしていた。
7. 新しい約束
「工事が始まったんです」藤本は嬉しそうに写真を見せた。「A社の担当者が、母のための工夫をいろいろと提案してくれて...」
南條が興味深そうに覗き込む。「素敵な空間になりそうですね」
「ええ。それに...」藤本はちょっと照れたように続けた。「先日の教授の『価値の対話』のおかげで、予算の使い方も変わりました」
教授が静かに頷く。「どんな形で?」
「当初予定していた高級な建材は諦めて、その分を手すりや段差の解消に。母が安心して過ごせる場所作りを優先したんです」
直子は自分のスマートフォンを見つめ直していた。
「私も決めました」彼女は深く息を吸って。「友人には、こう返信します」 スマートフォンのメモ帳を開き、打ち始める。
『大切な結婚式、幹事は申し訳ないけれど遠慮させて。でも、あなたとの思い出をムービーにしたい。実は前から準備していたの...』
「そして上司には?」教授が優しく促す。
「休日出勤については...」直子は少し考えて。「代わりに、平日の早朝対応を提案しようと思います。その方が、実は効率的かもしれないって」
夜も深まり、カフェの外の通りは静けさを増していた。
「『断り』の先にある約束は」教授がゆっくりと言った。「しばしば、最初の依頼以上の価値を生み出す。それは、相手のことを本当に考えたときに見えてくる答えなんです」
田中が立ち上がった。「では私も、明日の朝一番で上司と話をしてきます」
「あ、私も」南條も背筋を伸ばす。「両親と、新しい提案について...」
教授は、去りゆく人々の背中を見送りながら、静かに微笑んだ。
カフェの灯りは、今夜も誰かの新しい一歩を、優しく照らし続けていた。
(第7話 終わり)