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感情電車 #12 「The Show Goes On」

私はあの時、意地でも一人で海外に行ってプロレスを見てやると心に誓った。母に怒鳴られたあの時だ。

事業の失敗を繰り返す父と離婚した母は、一家の四人目として生んだ私を女手一つで育ててくれた。私が中学生になった頃には既に三人の娘達が社会に旅立っており、経済的にも精神的にも少し余裕が見えてきた。私を片親で育ててしまったことで自責の念に駆られていた母は、「4人姉弟の中であんただけ塾一つ通わせることができなかったから」と、私を色んな街に連れて行ってくれた。
北海道から沖縄まで、日本全国のあらゆるところへ連れて行ってくれた。中学三年の夏休みには、「受験勉強より大切なことを教えたい」と言い、カタール経由の格安航空券を手にパリへ連れて行ってくれた。私が高専に入学してからも、春休みと夏休みの、年に二度、母は海外へ連れて行ってくれた。パリ、ミラノ、ヴェネツィア、ローマ、バルセロナ、ヘルシンキ。カタール経由の航空券を格安サイトで探しては購入し、私にいろんな景色を見せてくれた。
世間を賑わせた「てるみくらぶ」事件に巻き込まれたこともあった。パリへ出発する一週間前に「いつもならとっくに届いてるはずのホテルのバウチャーが届かないのはおかしい」と言い出した母は、てるみくらぶに電話で問い合わせた。てるみくらぶから謝罪を受けた後、ホテル代の支払証明書を受け取っていた。
あの時、ホテル・デュ・ルーブルに滞在していた日本人観光客で、追加料金を支払わずに済んだのは、母と私だけだった。利用していた旅行代理店が旅行中に倒産しようとも、被害に見舞われることを回避できるほど母は格安旅に慣れていた。
母は旅を通して、やりたいという気持ちと言葉さえあれば、どんなところへだって行けることを教えてくれた。私が滑り止めの高専ではなく、第一志望の進学校に入学していたら、母と海外へ行く余裕はなかっただろう。海外へ行く度に、こうして母と時間を共有できているのだから、高専に来たことも悪くなかったのかなと、自分が進んだ道を少し肯定できた。



二人の海外旅行もすっかり定番となった2015年9月。ローマ旅行から帰ってきた時のことだった。

「まだ行ったことない場所で行ってみたい場所とかある?」

母が私に問うた。今まで多くの場所を連れて行ってくれた母だが、その全ては、私が行きたいと思う場所というより、母自身が行きたい場所であった。初めて母が私に行きたい場所を聞いてくれた。そんなの一つしかなかった。ニューヨークだ。

***
小学四年の頃に新日本プロレスに嵌り、以降も新日本プロレスの情報を追っていたのだが、気が付けばドラゴンゲートも追うようになった。その後プロレスリング・ノアも追うようになった。中学生の頃は、サムライTVに夢中だった。DDTプロレスリングのような比較的有名なインディー団体から東京多摩ルチャスのような本当のインディー団体の情報まで追うようになった。
試合映像を観るだけではなく、プロレスへの知見を深めるためにファンのブログをよく読んでいた。
新日本の選手の食事会に頻繁に参加してる謎のファンのブログ。
選手に書いて貰ったサインの写真を添えて、そのサインを貰った時のエピソードを毎日投稿しているファンのブログ。
今日1日の日本のプロレス界の出来事をまとめているファンのブログ。
しょうもないけど笑えるプロレス界の小さなニュースを取り扱うファンのブログ。
試合の感想をひたすらに綴っているファンのブログ。
幾多のファンのブログを読んだ。試合を観ている時間よりもファンのブログを読んでいる時間の方が長い時期もあった。とにかく多くのファンのブログを目にして、脳に刺激を与え、自分のプロレス観の礎を築いていた。

2014年3月。中学二年の春休みのある日。面白いブログに出会いたい一心でその日もインターネットを漁っていた。刺激的なブログがヒットした。ROHニューヨーク大会を観戦したという日本人プロレスファンによる観戦記だった。
客席から撮ったリング上の写真。会場入りする選手と一緒に撮ったツーショット写真。会場周辺と会場内のリポート。全てが目新しかった。アメリカのインディー団体の興行を観るために渡米までする日本のプロレスファンがいたことにまず衝撃を覚えた。海外で引っ張りだこでなかなか来日する機会がない外国人選手達と一緒に撮っている写真を見て、羨ましく思った。
その頃から私はROHの試合を少しずつ観るようになった。また、会場周辺のリポートの影響を受けたのか、ニューヨークという街自体にも興味を抱くようになったのだった。
***

「ニューヨークはいつか行きたいね」と母に告げた。母は「よし行こう」と明るく返事してくれた。



母にニューヨークへ行きたいと話した半年後の2016年3月、高専一年の課程を修了した春休みに、私は母と本当にニューヨークを訪れた。滞在時間の四日間、ニューヨークの観光スポットを回れるだけ回った。
黒っぽい洋服を身に纏った人々が行き交うシャンゼリゼ通りを歩いた時も、ブラーノ島の虹のような住宅街を歩いた時も、トレビの泉にコインを投げる大勢の観光客を見た時も、その光景には圧倒されたが、心の奥底から溢れ出るような感動は正直なかった。
感動よりも異世界にやってきたことへの違和感が勝っていた。観光は楽しかったのだけど、海外の景色を見る度に、今の私はこの魅力をまだ受け止め切れない年齢だなと思うのだった。しかし、ニューヨークは今まで見てきた世界とは違った。

初日の夜に見たタイムズスクエアには感動した。自撮り棒を伸ばして動画を撮影する大勢の観光客に、アメコミのキャラクターの格好で身を隠して無言でチップをねだる国籍の判断もつかない人。そんな無秩序に混在する人々を照らす巨大な電光掲示板。ビジネスに疎い私でも名前を知っているような有名企業の広告達が、母と私とその他大勢を囲んだ。世界の中心に触れることは、私の心の奥底に眠っていた感動に触れることでもあった。

朝一番に行ったセントラルパークは、真っ赤なアディダスのジャージに身を包んだスタイリッシュな黒人が風を切るように走っていたり、大学生っぽいブロンドヘアの女性が木陰でのどかに読書していたり、春の風で髪をなびかせているアジア人のカップルが朝からいちゃついていたりと、色んな人が色んなひと時を過ごしていた。
それは東京でも、パリでも、ローマでも見られない光景だった。母と私は心地が良過ぎる朝日を全身に浴び、まだ冷たい三月のニューヨークの風を頬に感じながら、広過ぎる公園の出口を探した。

高級ブティックが軒を連ねる5番街を母と私は歩いた。突然出てきた広場の真ん中には、アップル社のマークが目立ったガラスキューブがあった。透明なガラスキューブの中には、透明の筒状のエレベーターがあった。そんな近未来感のあるエレベーターに乗って、地下に降りると、東京のそれとは比べものにならないほど広いアップルストアが目の前に広がった。
スマホケースは買い換えたばかりだったし、特に買うものはなかったが、とりあえず店内を歩いた。プリントや刺繍一つない単色のポロシャツに身を包んだ如何にも知的そうな国籍豊かな人達がお客さんに対応していた。

秋に行われる大統領選に出馬予定で、日本のメディアでも度々取り上げられるようになった大富豪、ドナルド・トランプが住んでいるというトランプタワーを訪れた。ニューヨーク5番街の奥にあるバブル期のラブホテルのようにタチが悪い金色の建物がトランプタワーだった。中に入ると、犯罪でも犯そうものなら一瞬で殺されてしまうのではないかと思うほどの人数の警備員が館内を巡回していた。
一階のフロントのショーケースには、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」というアメリカの情勢に疎い日本人でもその背景とトランプが言わんすることが何となく想像できる言葉が刺繍された赤いキャップや、往年のプロレスTシャツのように自身の顔と名前が大きくプリントされたTシャツなどが並べられていた。大統領選に出馬する人間が映画の登場人物みたいなことに感動してしまった。アメリカという国のスケールの大きさに思わず唸った。
またしても大した用がない私達は、二階にある「スターバックス トランプタワー店」という、私の知る限り、世界で最も強烈な店舗名のスタバでホットコーヒーを飲んだ。

ハーレム地区のアポロシアターそばのマクドナルドで注文したアイスキャラメルラテはキャラメルの原液をそのまま啜っているのかと思うほど、固くて吸いにくい上に、猛烈に甘くて、とても飲めたものではなかった。だけど、その甘さは、私にアメリカとは何かを教えてくれているような気さえした。私は日本人の舌には刺激的すぎるキャラメルラテを精一杯の力で吸い続けたのであった。

インターネットで知った無料のフェリーで自由の女神の側まで行った。その後、気持ちのいい日差しを浴びながら、ブルックリン橋を二人で歩いた。

初めてまた行きたいと思えた国がアメリカだった。また行きたいと思えた街がニューヨークだった。



ニューヨークから日本に帰ってきて、富山の自宅で母とiPhoneで撮った写真を見返していた。

「次行きたい場所とかある?」

また母が私に問うた。

「行きたい場所ね…フィラデルフィアかな。海外でプロレス観たいっていう気持ちがあって」

ROHの本拠地と言えば、フィラデルフィアにある2300アリーナという会場だった。今は亡きECWというハードコアプロレス団体が数多くの名勝負を繰り広げた会場で、アメリカのインディーシーンの先頭を走るROHが時折使用していた。
中学の頃に出会ったブログの管理人とはまた別の日本人のプロレスファンが、ROHフィラデルフィア大会のレポートを記事にしていて、そこには「2300アリーナの熱狂は異常」と書かれていた。その異常な熱狂を経験してみたかった。

「ニューヨーク行ってる時、大会なかったの?」

「あったけどニューヨークからフィラデルフィアはちょっと遠いなと思って」

「その団体ってよく大会やってるの?」

「まあ月に二、三回ぐらいかな。フィラデルフィアではたまにしかやってない」

どんどん母の口調が荒くなっていく。

「ニューヨークからフィラデルフィアって行く方法なかったの?」

「バスとかあるっぽい」

「何で言わなかったの!そう簡単に行けない街で、タイミングよく大会やってたのに、何で言わなかったの!目の前にあるチャンスはちゃんと掴まないと駄目でしょ!そういうことを教えたくて旅連れて行ってんだよ?一回巡ってきたチャンスがもう一回やってくるとは限らないんだから、掴まないと駄目でしょ!私だって三人の娘育てるのに必死で海外に行くなんて夢のまた夢だったよ。だけど今落ち着いて来てるからヨーロッパとか行ってる訳だよ。でもこんな日々だっていつまで続くか分からないんだよ。行ける時に行かないと駄目でしょ!掴める時に掴まないと駄目でしょ!母さんの何見てきたのよ!情け無いわ!」

ぐうの音も出なかった。本当にそうだった。「やりたい気持ちと言葉があればどんなことだってできる」と初めてパリに行った時に言われたことを思い出した。塾を経営しているだけあって英語が堪能な母は、言葉と熱意で世界のあらゆるところを訪れていた。
本当に私は母の何を見てきたのか、何を学んできたのか。自分で自分が情け無くなって、その場で泣いてしまった。でも、その時私は誓った。意地でも一人で、自分のカネで、海外へ行ってプロレスを観に行ってやると。



2018年8月。高専四年の夏休みに、私は本当に貯めに貯めたアルバイト代を全て注ぎ込んで、一人でプロレスを観に海外へ行くことになった。
海外でプロレスを観たい。詳しく説明すると、日本のプロレス界よりも挑戦する姿をファンに見せてくれているアメリカのプロレスをこの目で観たい。そんな熱意を持って、まだ英語は母には到底追いつかないレベルではあったが、シカゴへ向かった。
その頃シカゴでは、アメリカのインディーシーン史上初の一万人規模の興行・ALL INが開催されるのだった。興行主はCodyとヤングバックスのプロレスラーだった。近年の日本プロレス界では見られない世間と戦う姿勢、アントニオ猪木的な挑戦する姿勢に感動を覚えた私は、シカゴ行きを決めたのだった。
私が小学四年生の頃から飽きることなくずっとプロレスを観続けてこられたのは、魅力的なレスラーがいたからだ。観る者の人生を変えさせたり、観る者に勇気づけさせたりする力がレスラーにはあると思う。また、ファンもレスラーと共に歩むのが、プロレスの在るべき姿だとも思う。いくらレスラーが凄い試合をやってのけようが、その試合を観た人に「面白かった」と簡単に片付けられてしまうのでは、私はその面白いものがプロレスという舞台で表現されなくてもいいのではないかと考える。
面白かったと満足させた時点で観る者の人生にプラスの影響を与えている訳ではあるが、観る者の人生を変えてしまうからこそ、プロレスがプロレスである必要性があると私は思う。観る者の心に刻むことと、単に試合を面白いと感じさせることは、似ているようで全く異なる。プロレスに必要なのは前者である。
近年、大好きな新日本プロレスが良くも悪くも「面白かった」という印象を超えない凄い試合を連発している。そんな中で、新日本プロレスに参戦しているCodyとヤングバックスがアメリカで壮大な物語を築こうとしている姿に感銘を受けたのだった。彼らの背中こそが「プロレス」だと思った。
とはいっても、せっかくシカゴまで行くのだから、ALL IN以外にもいくつかのプロレス興行を観たい。ALL INの開催前日、前々日には、現地の小さなプロレス団体・AAWの興行が開催される予定だったので、それも付随する形で生観戦することにした。



現地時間8月28日の夜にシカゴのオヘア空港に到着した。

空港は街の中心部から地下鉄で一時間ほどかかる距離にあり、ホテルの最寄駅に着いた頃には午前一時を回っていた。
地下鉄から地上に出ると、広い道路に大粒の雨が弾かれていた。時間が時間だからなのか車が勢いが良過ぎるくらいにスピードを出していた。ほとんどの店が閉まっているが、バーやホテルは看板をネオンで照らしていた。
一人で異世界に来てしまったという不安をよそに、大好きなアメリカに一人でやってきたことへの興奮が私を包んだ。興奮する体は雨を避けるように建物沿いを歩いた。右手に支えられて、左手で作った傘によって雨を凌がれたGoogleマップが体をホテルへと案内してくれた。
ホテルに着いた。日本人が外国人を相手に話す時に使うスローな会話とは違い、フロントのおじさんは私が英語能力の足りていない人間だと判断しているはずなのに、淀みなく流れるように話を続けてきた。私は躓きながらもおじさんの言うことを確認し、おじさんに告げられた部屋へと歩いた。部屋の扉を開けると、他の宿泊者三人は寝ているようだった。少しでもお金を浮かせるために四人が泊まるドミトリーを選んだのだった。
電気をつけたら他の宿泊者に怒鳴られるのではないかと怯えた私は、真っ暗闇の中、iPhoneのLEDライトを頼りに窓側にある二段ベッドの上に上った。バックパックの中から着替えだけ取り出して、またLEDライトを頼りにトイレが一緒になったシャワー室に入り、他の三人の宿泊客のうちの誰かの石鹸をこっそり使って、羽田空港から二十時間弱移動し続けた体を雑に洗った。
シャワーを浴びたら再び二段ベッドの上に上り、ベッドの外側にあった簡易的なカーテンを閉めた。カーテンの中でブルーライトを浴びまくりながら眠気が来るまでiPhoneを触り続けた。カーテンさえ閉めていれば、光を放っていようが他の宿泊者に怒鳴られずに済むと思った。


翌日。雨粒が窓に強く弾かれる音で目を覚ました。時刻は既に午前十一時だった。他の宿泊客の騒がしい音で起きかけたが、特に時間を確認することもなく、再び眼を閉じることを繰り返した。
完全に起きた今、二段ベッドから降りると、宿泊客は三人とも外出したことが確認できた。窓から差し込んだ雨の日特有の寂しい光だけが照らしてくれている薄暗い部屋の中に一人でいると、私は何でこんなに遠くまで一人で来てしまったのだろうと塞ぎ込むのだった。
部屋の中に入ってきた清掃のおばちゃんが、真っ暗な部屋の中に人がいたことに驚いていた。私も同様にいきなり部屋に人が入ってきたことに驚いた。軽く会釈だけして、窓の前から二段ベッドの上へと移動し、カーテンを閉めた。
Twitterを覗けばプロレスファン達はいつも通り楽しそうにツイートしているし、インスタグラムを開いたら高専のクラスメイト達が夏休みを満喫している様子をストーリーにアップしている。先程より激しさの増した雨の音とそれを掻き消す業務用の掃除機の音が無秩序に重なり合う。その音をBGMに通常運転のSNSを見ていると、何でこんなところに来てしまったのだろうかと再び思い、更に憂鬱な気分になった。無理矢理まぶたをおろして、再び寝ることにした。

次に目が覚めたのは午後三時過ぎだった。曇天模様ではあったものの、雨はすっかり止んでいた。iPhoneの天気のアプリはこの後雨が降らないことを教えてくれたので、当てもなく外に出ることにした。
十数時間前に歩いた道も、夕方だと違って見えた。ホテル近くのスーパーマーケットで日本にはない味のモンスターエナジーを購入し、店の前で飲み干した。カフェインの量が多ければ、単純に内容量も多いアメリカのモンスターエナジーは、日本のそれよりも本当にエナジーを与えてくれているような気がした。これからの私の活力を与え、鬱屈とした気分も吹き飛ばしてくれるのだった。
当てもなく地下鉄に乗って、当てもなく二つ隣の駅で降りた。地上に出ると、ディズニーストアがあって、ここはシカゴの中でもそれなりに栄えた街であることを知った。CMパンクのコスチュームで見たことのあるシカゴの旗がビルとビルの間の広場に掲げられていて、ここがシカゴであることを再確認した。


天気のアプリを疑ってしまうほど光が差し込んでこない空の下で歩を進めていると、摩天楼が目の前に広がった。摩天楼が目に飛び込んできた頃には、穏やかな光が私とビルの壁を照らしてくれていた。穏やかな天気と摩天楼。それは母とニューヨークのブルックリン橋を歩いた時のことを連想させた。このアメリカの空気に私は感動したのだった。今度はあそこに絶対に一人で行ってやろうと誓ったことを思い出した。私は明日、念願の海外でのプロレス観戦という夢を叶えるのだ。


その後再び地下鉄に乗って、乗り換え場所にもなっている栄えていそうな駅を降りた。地上に出ると、辺りはすっかり暗くなっていたのだが、その暗さを幾多のネオン達が消し去っていた。
様々な国籍の人間が街を行き交っていた。透けた建物の中では高そうなスーツを身に纏ったアナウンサーっぽい白人がそれっぽい背景の前に立ってカメラの前で何かを話していた。夕方のニュース番組だろうか。


アジア人っぽいカップルがキスしながら歩いていた。アジア人もアメリカにいればアメリカの感覚に研ぎ澄まされるのだと知った。
木造のクラシカルな映画館の中に知的そうな南米人が入っていくところを確認した。私も少し中に入ってみて、上映中のポスターなどを確認した。「カメラを止めるな!」は流石に上映されていなかった。
パリでもベネツィアでもローマでも感動に至る感情を抱かなかった私が、ニューヨークには感動した訳を思い出した。何故アメリカなのか。何故あの街でプロレスを観たいと思ったのか。全てを思い出した。昼の憂鬱は何処へやら、夜の私には希望しかなかった。
そのまま歩を進めると、明日のAAWの大会ポスターにも掲示されていたシカゴ劇場を見つけた。思いがけない出会いに感動してしまった。明日、AAWでプロレスファンとしての夢を叶えるんだ。



翌8月30日。地下鉄ブルーラインに乗って、会場最寄りのLogan Square駅を降りた。会場周辺はマクドナルドとダンキンドーナツ以外のチェーン店はなく、ローカルのクッキー屋さんやローカルのカフェが並んでいた。昨夜訪れたネオンだらけの街並みとは違って、地元の人間達によって成り立っているような人情味溢れる街並みだった。これはこれで魅力的だった。
せっかくだからとローカルなクッキー屋さんでパサパサ過ぎるクッキーと甘過ぎるキャラメルラテを飲んでから、会場を目指した。
AAWのホームであるLogan square auditoriumというその地域の音楽堂であった。会場の前に到着すると、試合映像で観ていた会場の中からは想像もつかない外観をしていた。後楽園ホールを初めて訪れた時の衝撃に近いものがあった。


開場時間の五分前に到着すると、既に入場待機列が出来ていた。今日出場する選手のTシャツやBULLET CLUBのTシャツ、絶対に海賊版であるブル中野のTシャツ。待機している皆が味気のあるプロレスTシャツを着ていた。
何のアナウンスもなく十五分遅れて入場が始まった。こんなところにすらアメリカのプロレス会場を感じて興奮している自分がいた。
プロレスファンの欧米人が通るには狭いような気もする横幅の階段を上り、少し進んだ後にまた階段を上ると、スマホを片手にした大柄な男性が私を迎えた。その男性に電子チケットのQRコードを提示すると、彼はそのQRコードをスマホで読み取り、中へどうぞと言った。


中に入ると、今日試合に出場する選手達が、リング周辺でグッズを販売していた。マットにスーツケースを広げ、ロープにはTシャツを掛けている。そして、その前に選手が堂々と立っている。これがアメリカのインディースタイルだ。SNSで現地のファンが選手とツーショット写真を撮っている姿を何度も見てきた。興奮した私はすぐさまルチャブラザーズのいる方へと向かい、Tシャツを購入するのだった。

時刻は午後七時半になった。興行が開始した。リングアナウンサーが準備はできているかと客席に尋ねると、観客達は精一杯の声を振り絞って応えた。日本でよく見かける「まだまだ声が足りないな」と言って、もう一度「盛り上がってますか」と尋ねるパターンではなかった。アメリカは一発で盛り上がり切れるのだった。最高の夜の始まりに胸をときめかせた。

第一試合からいきなりタッグ王座戦が組まれた。

この日の興行は出場選手のみが発表されていて、メインイベント以外は発表されていなかった。突然のタッグ王座戦に、レフェリーの隙を突いたベルトでの殴打による突然のタイトル移動。如何にもアメリカっぽい第一試合に感動していたら、ヒールのジェフ・コブが登場して、負けたチームを滅多撃ちにした。するとACHが登場し、王座陥落となった仲間の救出に入った。
ACHはAAWの絶対的エースで、AAWヘビー級王座を保持していた。急遽ACHとジェフ・コブのタイトルマッチがこの後実現することが決定した。アメリカ過ぎる展開とこれ以上の盛り上がりがあるのかと思ってしまうほど既に完成している会場の一体感に惚れ惚れした。
試合と試合の合間の選手の入退場時には、会場内の一角に隣接されたバーに行列ができて、皆がビールを購入していた。呑むことで更に今日という夜を楽しみ切ろうと意気込むファン達を見て、何て良い空間なのだろうと思った。

ACHとコブのAAWヘビー級選手権試合はセミファイナルで行われた。新日本プロレスにおいてはヘビー級のジェフ・コブとジュニアヘビー級のACHとして扱われているが、AAWではそういった区別がなかった。
ACHがコブのあらゆる投げ技に耐える度に、辛そうな表情を浮かべる度に、「Go!Go!ACH!」コールが増していく。観客の声援を力にするように、ACHは一回り大きいコブを力で倒して、見事王座を防衛した。なかなか破茶滅茶な試合展開ではあったが、コブの技を耐えるには説得力のあり過ぎるACHの仕上がった肉体とシカゴにおけるスター性とが相まって、我を忘れてしまうほど、後楽園ホールでは黙って腕を組んでいる私も会場の皆のように叫んでしまうほど高揚感を得た。

ACHは翌日の大会のメインイベントでブロディ・キングに負けて、王座陥落となった。
泣いて悔しがるACHに対して観客の皆が送る「Go!Go!ACH!」コールは昨日と変わらぬ声量であるのに、昨日とは真逆で哀愁が漂っていた。


その時、私は思い出した。私はROHで一番初めに嵌った選手がACHだったのだ。日本のプロレスファンのブログに出会って、ROHに嵌り、最初に好きになったレスラーがACHだった。
高専一年の冬にオナーライジングを観に行ったのも、ACHが出場するものだと思っていたからだった。SUPER J-CUP2016決勝大会でで黒潮“イケメン”二郎を観られなかったあの日も、初めてACHを生で観られたことは素直に嬉しかった。
そして何より、母とニューヨークへ行った際にフィラデルフィアで行われていたROHの大会で、KUSHIDAの持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦していたのがACHだった。あの試合が観たくて、フィラデルフィアに行きたいとより一層思っていたのだった。
それなのに、ここ一年半ほどはあまりACHの試合を追いかけていなかった。
この二日間のAAWの興行を通して一番好きになったレスラーがACHだった。まさかこのような形でACHに再び嵌るとは思ってもいなかった。
母に観に行かなかったことを怒られた興行で大一番を控えていた大好きな選手が、母に怒られたことの反動で観に来た興行の主人公になっていた。これは運命だと思った。
私はACHを今後も応援していこうと思った。



帰国してから二週間が経った。何気なくインスタグラムのストーリーを開いたら、ACHが自身のコスチュームの写真に「Selling ring worn gear!」「Message me if interested」という言葉を添えた投稿をしていた。2018年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで使用したコスチュームをファンに売るそうだ。これは逃すまいと、すぐに興味があるとメッセージを送った私は続けて価格はいくらかを尋ねた。
するとすぐに価格を提示された。思っていた以上に安かったので、すぐに購入することを伝えた。更に「日本に来る予定はありますか?」と聞くと、「十月に行くよ」とのメッセージが返ってきた。
十月と言えば、新日本プロレスのジュニアタッグリーグの季節だった。10月26日、27日は後楽園ホールで大会が開催される。ちょうどその時、私は流通見学という富山高専の四年生が毎年行う学校行事で東京に滞在する予定だった。しかも宿泊地は東京ドームホテルだった。新日本プロレスに参戦する外国人選手達が宿泊していることでお馴染みのホテルだった。
チェーズ・オーエンズとランチに行った時のパターンで行ける気がした私は「上乗せしてお金を払うので直接購入させていただくことはできますか」と尋ねると、「売れ残ってたら持っていくよ」との返信がACHから来た。この類のワクワクは二年振りだった。



インスタグラムでのやりとりからの数週間後、10月25日の夕方に会うことになった。パンツは売れ残っていたようだった。
その頃には既に新日本プロレス公式サイトでACHの対戦カードも発表されていた。私と会う予定の日の翌日に、後楽園ホールのメインイベントで田口隆祐と組み、ROPPONGI 3Kと対戦するのだった。ACHはかつて後楽園ホールが世界で一番好きなプロレス会場で、二番目がLogan square auditoriumだとインスタグラムで述べていた。
10月25日、私はACHからパンツを購入した後、クラスメイト達を引き連れて大日本プロレス後楽園ホール大会を観戦する予定だった。よくウィル・オスプレイが他団体の興行をバルコニーから観ていることを思い出した。外国人選手は他団体の興行の視察に抵抗感がない選手が多いから、大好きな後楽園ホールでメインイベントを務める前日に、一瞬だけでも後楽園ホールの空気を味わってもらえればなと思い、大日本の生観戦を誘ってみた。母がチェーズにランチを誘ったノリで誘ってみた。
すると、「Oh…Thank you」という断りだと思われるメッセージが届いた。それでも私は、友達の分のチケットを買う際に、一枚多く購入した。



約束の日を迎えた。クラスメイト達と朝食場にいた時、入場待機列に並ぶACHを発見した。私は朝ご飯を食べるのをすぐにやめ、友達にも何も言わずに朝食場の外に出た。
「ハイ、ACHサン」と声を掛けて、DMのやり取りの画面を見せながら「私です」と伝えた。「なんかキムくん、ムキムキのガイジンに声かけてる!」というクラスメイトの女子の声が後ろの方から耳に届いて、今が如何に異質な状況なのか理解した。
少し暗い表情でスマホを触っていたACHが突然明るい表情で「君か!」と言ってくれた。部屋番号を伝えられた後、「四時半に会おうって言ったけど、秋葉原に行きたいからやっぱり二時に変更にして欲しい」と言われた。
欧米人らしいなと思いながら、「申し訳ないのですが、その時間は予定が入ってるので、三時でいいですか?」と言うと、「わかったよ」と軽い返事をされた。

朝日新聞の見学を終えて、東京ドームホテルに戻った。時刻は三時に迫ろうとしていた。エレベーターの前で立っているクラスメイトの皆に「マジで遅れちゃいけない用事があるから、頼むから、俺だけ一人で先に乗らせて」とお願いして、自分の部屋にも戻らずに、スーツ姿のままACHのいる部屋に向かった。約束の時間を三分過ぎていた。大好きなレスラーを180秒も待たせてしまっていた。
申し訳ないと思いながら走って部屋の前に着くと、中から大きな笑い声が聞こえてきた。その笑い声でこの部屋で間違いなさそうだと思い、iPhoneのメモ欄に打ち込んだ部屋番号をもう一度確認することなく扉をノックした。ACHが出てきた。

「遅れてすみませんでした」

「いいよ、いいよ。ゲームしてたから」

案内されるがままに中に入ると、DDTに参戦していたマイケル・ウルフというレスラーとACHの友達の日本人の二人がいた。三人でゲームをしていたようだった。

「名前は?」

「ケンゴです」

「ちょっと待って、ニックネームを考えるよ。ケンゴ…じゃあケインって呼ぶね!よろしくケイン!」

「よろしくお願いします」

私達は固い握手を交わした。
握手をした後、私は昨夜突然ACHに買ってきてくれないかと頼まれた任天堂のプリペイドカードを渡した。二年前に会ったチェーズは吉野家以外のレストランに行けないことを悩んでいたが、ACHは任天堂のプリペイドカードを買える場所も分からなかったようだった。ホテルの向かいのローソンで買えることを教えてあげたが、話を流された。
いよいよコスチュームの話になった。ACHが「色々持ってきたんだ」とスーツケースを広げた。スーツケースの中にはインスタグラムに載せていた物以外のコスチュームもあった。
AAWヘビー級王座を獲得した時の黒色のパンツ。
ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで着用していた白のパンツ。
今年の夏に数回だけ着用したピンクのパンツ。
非売品の入場時に着用しているTシャツ。
いつもレガースの下に履いているシューズ。
そして何より私の目に留まったのは水色のパンツだった。その水色のパンツは、シカゴでのジェフ・コブ戦で使用していたものだった。
「大好きなギアです!ジェフコブ戦生で観ました!AAWを観にシカゴに行きました!買いたいです!」と私が伝えると、ACHは驚きつつ喜んでくれた。隣にいるマイケル・ウルフは「AAWじゃなくてALL INが目的じゃ…」と呟いていて、申し訳ないけど鬱陶しいなと思ってしまった。
更にACHはそれぞれのコスチュームの説明をしてくれた。
「このピンクのギアは今年の夏に着用した」
「この白いギアはライガーサンと戦った時に使ったんだ。この黒い跡がライガーサンの靴の跡だよ」
「この黒いギアは一年前に使っていたものだね」
ACH視点のライガーとの思い出話にやられた私は、白いパンツも追加で購入することにした。

「白いギアも購入します」

「わかった。任天堂のプリペイドカードを追加で買ってきてくれたらこのピンクのギアとTシャツとシューズもプレゼントするよ」

「本当ですか!?いいんですか?」

「コスチュームを取っておきたいと思わないんだよ。どうせなら喜んでくれる人に譲りたくて」

「ありがとうございます!」

「サインはどうする?」

「お願いします!」

「Tシャツだけは名前も入れようか。名前はケインとケンゴとどっちがいい。?」

「せっかくだからケインで」

ACHはサインを入れたコスチュームをセブンイレブンのくしゃくしゃの袋に詰めて、私に渡してくれた。一通りやるべきことが終わったタイミングで、私はDMでも話していた大日本プロレスの話をしてみた。

「ごめん。明日ビッグショーを控えているからゆっくり休みたいんだ」と気まずそうな表情でACHは私に言った。

「そうだよな。ACHは明るい人けど、根は暗いし、オスプレイみたいなトンパチではないもんな。それにファンにとってはいつもの光景の後楽園ホールも、ACHにとってはビッグショーなんだよな。舐めた誘いしてしまった」と、自分を情け無く思っていた時にACHが言ってきた。

「今からペッパーランチに行くから、六時に会おう」

三時間後の午後六時に再び部屋を訪ねることになった。そういえば部屋の片隅には大量のワンピースとドラゴンボールのフィギュアが積み重ねられていた。午前中に秋葉原に行ってきたのだろうか。


午後六時。三時間前は部屋の前から笑い声がしたのが、今度はフロアに着いた段階で笑い声が耳に届いた。扉をノックすると、再びACHが出てきた。私がプリペイドカードを見せると、満面の笑みで感謝してくれた。

「昨日DMで伝えた通り、日本の任天堂プリペイドカードは海外のソフトに対応していないみたいなんだけど大丈夫ですかね?」

「大丈夫大丈夫。同じ任天堂のプリペイドカードだから日本もアメリカも一緒」

心配に思いつつ、再び記念撮影などをして、すぐに部屋を後にすることにした。


「また会おう!」

「はい、また会いましょう!」

数時間後、友達と後楽園ホールのバルコニーでデスマッチを観ていたら、ポケットに入れていたiPhoneが震えた。ボタンを押すと、ACHからDMが届いていた。

「お気に入りのゲームにプリペイドカード使えなかった😢」

可愛いやつだなと思いながら、慰めのメッセージを送った。
私だけの流通見学が終わった。

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