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メシ喰うな

 肉体労働の辛さよ。先人たちの仕事は、基本的に、突出した頭脳がなければ、あるいは出生の身分が低ければ、頭脳労働に従事することなどできず、みな肉体労働だったわけでしょう?

 週一回はジムに通い、3キロのランニングと軽い筋トレは行っているにもかかわらず、3時間の品出しでさえ、とても疲れた。前回は総菜パック詰めの仕事に7時間の枠で入ったのだが、腰が軽度ではあるが慢性的な痛みを覚え、翌日の仕事はお断りした。

 そして今回は、3時間の品出しに望んだ。品出しであれば、ずっと立ちっぱなしではなく、自分の裁量で立ったりしゃがんだり歩いたりもできる。これなら3時間程度の労働はさほど疲れないだろうと踏んだのだが、特段作業量が多かったわけでも、人とのやりとりが発生したわけでもない。早朝6〜9時という時間帯。スーパーにはお客さんがまばらにしかおらず、声をかけられたのも2回だった。

 にもかかわらず。なんだこの疲れは。

 頭脳がなくても頭脳労働に従事できる現代社会のありがたさよ。加えて一般的には賃金が肉体労働の約1.5倍というオマケ付き。(いやむしろ、そうした働き方にずっと従事してきたがために、肉体労働に耐えられない体になってしまったとも考えられる)

……がしかし、よくよく考えてみると、20代前半の頃にも、惣菜コーナーでの肉体労働を四時間という短時間で働いていたが、業務が終了するころにはヘトヘトで、帰宅したらぐーすか寝ていた気がする。私にはそもそも体力がないのかもしれない。

 そんなわけで、パートのおばちゃんは、ほんとにすげーなと敬服したのであった。


 私が江戸時代に生まれていれば、当然百姓だったわけで。百姓であれば、「生きる」ということは、それすなわち体を使って田畑を耕し、牛の世話をし、納税し、生きていくために自身の食事も確保する、というのが、百姓としての本来的な「生き方」だったはずだ。

 それを私はできないであろう、ということはどうしたことか。どうしょうもねえやんけ。すでに人生詰みではないか。現代社会に悪態ばかりついている身だが、救われている面も、悲しいかなあるのだな、ということを思って嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになっている。

 全国の肉体労働者のみなさん、私はあなた方に、どんな形であれ今日も生かされています。

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