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「忙しい」と大人が話すときの私はバラバラ死体

 読書会参加者の学歴アンケートを取ったら、おそらく「大卒」率は8割以上になるのではないだろうか。

 そのくらい、自己紹介のときや会話の中で必要性に駆られて講義や論文のときのお話をされるときに大卒であることが発覚する。

 そして職業。職業に貴賎はないというけれど、私のような定職にまともに就いたことがない人間からしたら、「手に職をつける」という信じられないことを成し遂げておられる方々ばかりだし、読書会がなければ、私が人生で接点を持つことなど一生なかっただろうな、というご職業の方々と、心理学でいうところの「権威性」に物怖じすることなく、同じ土俵で、同じ目線のまま会話が成り立っているのは、とても不思議なことだなと思う。

 初期の読書会参加ピークだった頃には、そこに引け目を感じてしまって、とくに同世代や歳下の相手と自分の肩書きの差を知るごとに、自分がどれだけ出来損ないの人間なのかと自傷し、諸々理由はあったが連絡先をリセットした要因のひとつだった。


 相変わらず読書会に参加される面々の、学歴・職業・地位に圧倒されはするものの、昔ほどそのことに対して引け目を感じて自分をむやみに自己卑下したり、家に帰ったあとで自分勝手に傷付くことはなくなった。なくなったけれども。

 アリとキリギリスを思う。人生の前半に費やすべき時間と労力と苦労を重ねてこなかったばかりに、人生の半ばで冬が到来し、備蓄している食料という名の社会的地位、身分、肩書き、キャリア、スキル等が何一つなかったことに痛みを覚えている。……でもおかしいのは、キリギリスは、遊び呆けていた時間は、アリを馬鹿にし、全身全霊で「その時」をたしかに謳歌していたわけで、それはある意味、「幸せな時間」を、過ぎ去った過去の話ではあっても、送れていたのだ。
 私はどうだろう。むしろ、苦役でしかなかった。人生を謳歌するどころか、どうやったらこの生きづらさが解消されるのか、それを解決、とはいかないまでも、少しでも緩和、解消するためには、どうしたらいいのか、そればかりに思い悩んで生きてきた。

 そうしてようやくこの歳になってきてはじめて、人並みに、人並みより少しまだ下手くそな、酸素を吸って、二酸化炭素を吐く、という、呼吸の仕方がわかってきた。自律神経のはたらきが、ようやく人並みに作動するようになってきた。
 そこで少し余裕が出てきて、これまで猫背で足元しか見えていなかった背中も少し伸びて、ようやく周りに景色があったことに気付き始め、それとなく道行く人々を眺めやると、私が持っていないものはもちろん、私が持っているものまで所有して、そこらじゅうに立っていた。

 ようやく呼吸を覚えはじめたと思ったら十年以上経ってて、同年代の人たちは年相応の落ち着きや経験や趣味なども嗜み、人としての味、魅力のようなものまで漂わせている。

 自虐しているつもりも、そのことに落ち込んでいるわけでもない。ただもう、自分はこういう人生の送り方しかできなかったんだろうといまでは思う。
 それでもただただ不思議なのだ。なんでみんなはこんなに普通に生きられるのだろう、と。素朴に疑問なのだ。なんでおれは普通にできなかったんだろう、と。
 私より重い精神的病を抱えながらも、仕事や社会にはそれなりに属しながら、つらく苦しい生活を送っている人たちだっている。

 昨今では、「繊細さん」などとも称されたり、ADHDの人が、それ以外の部分で能力を発揮し、むしろそれをその人の「強み」として人間社会に所属して上手くやっている人たちも大勢いると聞くし、それを自然に受け入れられる社会にもなってきている。(能力がある人限定だけど)

 私はずっとその外側にいる。派遣の仕事をするときだけ、片足の、膝下くらいまでは円弧のなかに摺り足で忍ばせるけど。18:30が来たらそっと足を引っ込める。すると私はまた外側の人間になる。

 ずっとそうやって、みんなが人生と呼ばれるものに体当たりを試み、がっぷり四つに組み、苦楽を味わいながら生きている、まさに躍動する、人間の営みが行われている場所の、外側にいた。そこに参加している感覚も、参加できる資格があるとも思えなかった。
 この感覚が、ずっとずっとある。そしてそのことを、ずっと、いまのいままで、言葉にできないでいたようだ。
 この文章を書き始めたときには、こんなこと思ってもいなかったから。(キリギリスのところまでは考えてた)

 でもきっとおれみたいな人はゴマンといて、それをただ発していない、というか、発しても届かない壁に囲まれた場所でつぶやいているのかもしれない。


 昨日、問診票に「会社員」と書いた。見栄を張ったって、保険証でバレるのにね。

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