怒涛のような2ヶ月、文学フリマ福岡10、のきさき古本市、BOOK MEETS FUKUOKA出張古本市を終えて、様々に思い巡らせたことの回想と記録(一)
悔しかったこと。BOOK MEETS FUKUOKA最終日。
拙著、『愚者色情パンくずソクラテス』は、読書会を通して知り合った読友のKさんにお買い上げいただいた。
PARCOは手強いだろうと覚悟はしていたが、集合時間に会場に到着してみると、雨模様にもかかわらず、最終日ということもあってか、たくさんのお客さんで賑わっていた。
今回のBOOK MEETS FUKUOKAに足を運んだのはこれで3度目だったが、このときの客入りが一番多かった気がする。何度か足を運ばれた別の読友さんも、そう仰っていた。
だから、すこしだけ「にやり」としてしまったのが、運の尽き。この落胆の要因となった。
結局『愚者〜』はKさんにお買い上げいただいた一冊だけで、(この言い方もすごく失礼だな、とは思うものの、やはり正直な気持ちであり、いまの自分にはそこまでを慮る心の余裕がない)売れ残った七冊は、持ち帰るとき、来たときよりも重く感じた。
「まあ、ZINEという媒体自体が、購入のハードルが高いのだろうな」と、同会場にある某コーナーの区画にまとめて平積みされていたZINEのことも思い浮かべた。
店番はすでに終えていたので、閉場時間が近づいてきて、なんの気なしにまたぐるりと会場を巡回していると、先週、先々週、今日、と、少なくとも私が見たタイミングでは、いずれも堆く積まれていたはずの多種類のZINEは、軒並み売れていて、これがさらに私にダメージを与えることとなった。
もちろん、比較するものでもないし、人それぞれに好みだってある。作り手の苦労もそれぞれにあり、作品に優劣など……ないとは言い切れない自分がここにいる。
もちろん、手に取られなかった要因はたくさんあるだろう。置いてある場所、見せ方、タイトル、装丁、挙げればきりがない。
たまたま、その某コーナーのZINEの中でもプッシュ気味であった、とある方の一冊のその一章だけ、少し前に読んでいたこともあって、あれだけ積まれていたそれが、残り2冊になっていたことに、殊更に悔しさを覚えた。
こんなこと、書くべきではないだろう。だが、おれは、文語だと、飲み込むということを知らないので、書く。
どうせ誰も読んでないし、影響力なんてないんだから、別にいいだろう。負け犬の遠吠えだ。
はっきり言って、おれが『愚者〜』で書いたユーモアのほうが、数段面白いと思った。なぜ、その程度の笑いで、おれより笑いもとれ、音読会までセッティングされ、お店からプッシュされ、そうしてたくさん売れているのか、わからなかった。おれにもやれる、と思った。なんでおれがそこにいないんだ、と思った。
自惚れるな、自意識過剰だ、厚かましい、失礼だ、と思うだろうか。おれはおれ自身には自信がないが、書いたものには自信がある。自信のないものなんて、端から載せない。
社交性、社会性、コミュニケイト、人脈、人当たりの良さ、博愛、友愛、社会的に受け入れられるかどうかの思想の尖り具合。
おれに欠けているものは、そっくりそのまま「世の中にウケること」「売れるもの」の条件のようだ。
べつに売れたいわけじゃない。印税収入で食っていきたいとも思わない。有名になりたいわけでもない。ただ、そこにあるのに「ないこと」のような扱いを受ける(もちろん相手は無自覚なのだけど)ことが、耐えられないのだと思う。
痛みを(これは肉体的であり精神的でもある)伴いながら「ないこと」にされて生きている人たちのことがふと、頭をよぎる。引き合いに出すのはまったく見当違いだろう。でも、その気持ちのほんの数ミリだけ、わかったような心持ちになっている自分がいる。それは偽れない。という発言は傲慢だろうか。(もちろんおれには肉体的精神的苦痛と呼べるほどの痛みなどないのだけど)
おそらくこの2日間、仕事をサボった理由は、ここらへんにあるのかもしれない。し、まったくべつの理由かもしれない。
でも、やっぱり悔しい。
パート1は、「悔しい」しか言ってない気がするが、実のところ、「文学フリマ10」に関しても、「悔しい」というワードが連発されるかもしれない。それはまた、別の意味合いを持った悔しさを味わったからだ。
またそれは後日、書き付ける予定だ。
R6.11.13 0:20