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小説『天使さまと呼ばないで』 第1話
5歳になるまで、私には"天使"が見えていた。
・・いや、あれが厳密に"天使"だったかどうかは、わからない。
ただ、空がよく晴れている時、私が楽しい気分でいる時、視界の片隅にチラチラと白く光るものが映ることがあったのだ。
私はそれを「てんしさん」と呼んでいた。
「ねえ、おかあさん、あそこにてんしさんがいるよ」
そう指差す私に、母はこう答えた。
「何言ってるの、そんなものいるわけないでしょ。さっさと歩きなさい」
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「ミカさん…!」
30代前半の、黒髪の女性がすがるような目で言う。
「どうすればいいんでしょうか…天使様は、何とおっしゃっていますか?」
天使のように真っ白なワンピースを着たミカは、にっこりと笑う。
「今まで随分、頑張ってこられたんですね…」
『頑張ってこられたんですね』、これは相手の心を開くのに便利なフレーズだ。ミカはとりあえず、どれだけ怠惰そうに見える人間にもこの言葉を使う。
女性の目が潤む。
「でも、頑張り過ぎて、空回りしちゃってたんですよね」
女性は安堵の表情を浮かべる。自分のこれまでの失敗や間違いは、決して悪意のもとではないと、自分は悪人ではないということを、目の前の"天使"に証明してもらったからだ。
「これからは、肩の力を抜いていきましょうか。大丈夫です。
このハンカチには天使様の力が込められています。これを持っていれば、天使様はいつもあなたのことを応援してくれますよ」
ミカは天使の微笑みをたたえた表情で、白いハンカチをそっと渡した。
「ありがとうございます…!」
女性はハンカチを受け取りながら、何度もそうお礼を述べた。
(っしゃーーー!これで5万円ゲットーーー!)
ミカは心の中でほくそ笑む。
(今日はドラジェ&カッペリーニでも寄っちゃおうかしら♡)
今日はこれからどんなものを高級ブランドで買おうか、それをSNSで見せびらかしたらどんな反応が来るだろうか、想像するとワクワクする。
(それにしても、この私がいつでもハイブランドに寄れるようになったなんて…)
ミカはしみじみと過去を思い出す。
(2年前までは思いもしなかったわ…)
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2年前───
ミカは、地方都市に住む、32歳の平凡な主婦だった。
3年前に結婚した夫のコウタの転勤に伴い、昨年A県に引っ越してきた。地元のB県からは、飛行機の距離だ。
結婚するまでずっと生まれ故郷のB県で暮らしていたミカには、この土地に友達と呼べる人はいない。
週に3、4日ほど勤めているパート先のスーパーには、一応顔見知り程度の人たちはいたが、ミカよりずっと年上の主婦ばかりで、正直話が合わなかった。
それに、彼女たちから
「ミカさん、そろそろ子供は作らないの?」
「子育ては体力勝負だからね〜!産むなら早い方がいいわよ〜私は早く産んでおいてよかったぁ」
という脅迫めいた『子産め攻撃』や『子持ちマウント』を受けることにも、辟易していたのだ。
ミカはパート先のおばさま方たちとは挨拶と軽い世間話だけするように徹し、できるだけ距離を置くようにしていた。
コウタも転勤してからは残業続きで、平日にはろくに会話もできない。それに、疲れのせいで休みの日は昼まで寝ている。
孤独に耐えきれなくなったミカは、二ヶ月前から手芸サークルに通いはじめた。
もともと手先は器用な方で、裁縫や編み物は好きだった。高校の時は家庭科部に所属していたぐらいだ。
社会人になってから手芸からはすっかり遠のいていたが、結婚式で使うリングピローを手作りして以来、また手芸への熱が高まっていたところだった。
ミカが通う手芸サークルは、週に一度、水曜日の午前中だけカフェの貸しスペースを借りて、各自でやりたい材料や道具を持ち寄って集まり、おのおののペースでするというゆるやかなものだ。
もちろん、わからない部分は上手な人に聞いたり、アドバイスも尋ねればもらえたりもするが、基本的には他人に干渉はされない。その距離感がミカにはちょうどよかった。
参加者も多い日で10人にも満たないぐらいで、思ったより年齢層も若く、20代後半から30代後半の女性ばかりだった。
何より、おっとりした優しいタイプの人が多く、パート先にいるガツガツしたタイプの『おばちゃん』が苦手なミカには、尚のこと居心地が良かった。
9月のとある水曜日、いつものようにミカは道具と材料を持ち寄り、手芸サークルへと出かけた。
ミカが今ハマっているのは刺繍だ。
この日は市販の白いハンカチに、淡い水色やピンクで小さな天使や、花などを刺繍することにした。
刺繍をしている間は、嫌なことを忘れられる。
・・・昨日パート先に来た嫌な客だとか、明日のパートのシフトだとか、いつも自分より早く寝てしまう夫のことだとか。
ただ針を無心に動かして、美しいステッチを描くことだけに集中できる。
一番複雑な天使の刺繍を終わらせた時、ふと隣に座っているエリの様子が目に入った。
なぜだかいつもよりも元気がない。
ミカはそっと、声をかけてみた。
「エリさん、何かありました?」
「えっ?」
「いや、なんとなく、元気がない気がして・・」
「やだ、わかっちゃいました?
・・そうなんです、今ちょっと落ち込んでてぇ」
エリはわざとらしくため息をつく。
なんとなく、話を聞いて欲しそうに見えた。
「・・私で良かったら、話聞きますよ」
ふと周りを見た。みんな制作に集中している。
あまり邪魔してはいけないと思い、忍び声にして続けた。
「今はみんなに聞こえちゃうかもしれないんで・・良かったら、この後ここでランチしませんか?」
エリの顔が、ぱあっと明るくなった。、
「本当に〜?ありがとうございますぅ、じゃあ後で詳しく話しますねっ」
一体どうしたんだろう・・とエリのことを少し気にかけながらも、ミカは刺繍を続けた。
そして、終わりの時には、あと一つ花を刺繍すれば完成というところまで進めることができた。
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エリはミカより少し年上で、34歳の独身女性だ。
しかし、彼女はどうにも年上に見えない妙な幼さがあった。
決して若く見えるだとか、可愛い顔立ちだというわけではない。むしろ、のっぺりとしていてあまり美人とは言い難い造形をしていた。
ただ、彼女のアイメイクだけが妙に濃い下手な化粧や、可愛らしいけどチープな服装(恐らくハイティーン向けのアパレルメーカーの服を着ているのであろう)や、頼りない雰囲気と妙に甘えるような語尾を伸ばした話し方が、彼女を年相応に見えなくしていたのだ。
サークルが終わり、カフェの貸しスペースから二人席に移動してランチをとった後、エリはこう切り出した。
「実は・・転職活動がうまくいってないんですよねぇ・・」
(エリさん、失業中だったんだ・・)
サークルではあまりプライベートなことを話したことが無かったから、ミカはエリについて、名前や年齢といった基本的なことしか知らなかったのだ。
エリは続けた。
「わたし去年、前にいた会社辞めたんですけどぉ・・
お金もないし、今はバイトしながら実家にいてぇ・・・親からも『早く就職しろ』って毎日うるさく言われてるけど、なかなか面接が通らなくてぇ・・・」
「そうだったんですね・・」
「ミカさんは結婚してるんですよね?いいなぁ。何かあってもダンナ様が何とかしてくれますもんね。やっぱり安心感がありますよねぇ。
わたし婚活もしてるんですけど、そっちも全然でぇ・・・。
まあわたしブスだから仕方がないんですけどね。えへへ」
こういう時、どういう反応をすればいいかわからない。
『そんなことないですよ、カワイイですよ』とでも言えばいいのだろうが、エリははっきり言ってブスだ。
ミカは思ってもないことをスラスラと言えるほど、嘘が上手な人間では無かった。
「親からも『アンタはブスだから結婚は無理!だから早く仕事を見つけろ!』って言われちゃってるし〜」
エリはぐちぐちと続けた。
「そんなことないですよ。エリさんはとっても素敵ですよ。」
『素敵』・・・便利な言葉だ。顔の造形に言及しなくとも良い意味で使える。
「いやいや〜お世辞はいいですよぉ〜」
エリの表情はどこか物悲しそうだった。
そんなエリを見て、ミカは急激に、エリのことを元気付けたい、力になりたいと感じた。
「・・エリさん、『ブス』だなんて、実の親から言われて悲しくないんですか?」
「・・・」
「エリさん、エリさんが美人でも不美人でも、そんなことエリさんの価値にはちっとも関係ないんですよ。
エリさんは最初私にサークルのことを色々と教えてくれたし、親しみやすくて優しい方です。
エリさんはエリさんの良さがあるんです。それをわかってくれる人や企業が、きっと現れますよ。
だから、そんなふうに自分を卑下しちゃいけませんよ。
卑下してたら、せっかくのエリさんの魅力に、男の人も企業も気づいてくれなくなっちゃいますよ」
美人でもブスでも価値が変わらないなんて、嘘だ。
いや、真実かもしれないが、ミカはそんなことこれっぽっちも思っていなかった。
なぜならミカは自分が婚活に励んでいた時に、嫌と言うほどその事実を見せつけられていたからだ。
ただ、ふと以前読んだ自己啓発本にそう書かれていたことが頭に浮かんだので、それをそのままエリに言ったのだった。
ただ、エリが優しい女性であるというのは本心から思っていたことだったし、サークル初日に緊張していたミカに優しく話しかけてくれたことも、ミカはとてもありがたく思っていた。
ミカは続けた。
「エリさん、もしかして、親御さんってエリさんを侮辱するようなこと、いつもナチュラルに言ってたんじゃ無いですか?それこそ『ブス』みたいな」
エリは顔の前で手をパタパタ振りながら答えた。
「いやー、ブスとはよく言われてたけど、事実だし、侮辱ってほどのものでは・・」
「エリさん、ご兄弟います?」
「うん、姉が一人」
「『お姉ちゃんは美人なのに』『お姉ちゃんは上手なのに』とか、言われたんじゃありませんか」
「え、すごい、どうしてわかったんですかぁ!?
そうなの、お姉ちゃんは出来が良くてぇ・・」
何となくそんな気がしていた。エリは、サークルでもよく
「〇〇さんすご〜い!私なんてこんなに下手でぇ〜」
と、聞かれてもいない比較と自虐をしていたからだ。
「エリさん、誰かと比較して落ち込むことないですよ。
エリさんにはエリさんだけの価値があるんです。
それを信じてください。
自分で自分のことを卑下するなんて、自分が可哀想です。
エリさんはこんなに素敵な女性なのに!
親御さんに侮辱された時、本当は悲しかったんじゃありませんか?嫌だったんじゃありませんか?
エリさんがたとえ何かに劣っていたとしても、それを侮辱する権利なんて誰にもありませんよ。たとえ親であっても、自分自身であっても」
侮辱する権利は誰にもない、というのはミカが心から思っていることだ。
ミカも20代前半の頃は、自分を卑下して侮辱してばかりいた。
当時縋り付くようにして読んだ自己啓発本に、そのことが書いてあったのだ。この言葉にミカは随分と救われた。
ミカはかつての自分がエリと同じような人間だったからこそ、エリが求める言葉が直観的によくわかるのだった。
「・・・」
エリは少し、涙目になっていた。
「エリさん。就職や結婚したいのなら、まずはご自身を卑下することを辞めましょう。
どれだけ美味しそうなリンゴがお店に置いていても、『このリンゴは不味いです』ってお店の人が言っちゃったら、誰も買いたくならないでしょう?」
ミカは手で架空のリンゴを掬い上げるような動作をしながら、茶目っ気たっぷりに言った。
エリもその表情に釣られて笑う。
ミカは続けた。
「エリさんにしかない魅力を信じてください。
エリさんは、そのままで、大丈夫!」
エリの肩から、まるで憑き物が落ちたかのように、ふっと力が抜けていくことが見て取れた。
と同時に、目からは大粒の涙が落ちていた。
ミカは、カバンからすぐハンカチを取り出そうとしたが、生憎今日はハンカチを忘れていた。
仕方がないので、先程刺繍をしたばかりの、未完成のハンカチをエリに差し出した。
「これ、よかったら使ってください。まだ未完成なんですけど」
エリは手を小さくパタパタと振りながら言った。
「これ・・せっかく綺麗に刺繍してるのに・・勿体無いですよ。私の涙なんてついたら汚れちゃいます、価値が下がっちゃいますよぉ」
「いやいや、まだ未完成なやつを渡してこちらのほうこそごめんなさい!
あっ、ていうかまたエリさん、自分のこと卑下してる〜!エリさんの涙は綺麗です!だから大丈夫!むしろ価値、上がっちゃったかも!?」
ミカは冗談っぽくそう答えた。
エリもそれに釣られて、笑いながらミカからハンカチを受け取った。
「ミカさんすごいです、どうして私のことそんなにわかっちゃったんですかぁ?もしかして・・霊感があるとかぁ?」
渡されたハンカチでそっと涙を拭きながら、エリは言った。
ミカは昔から、妙なところで感が鋭い部分があった。
相手の考えていることや、抱えているコンプレックスなどがなんとなくわかるのだ。
ミカは、普通の人が見落としがちな言葉遣いや、表情などを感知する力や、そこから気持ちを推察する能力が高かったのだ。
ただそれが『霊感』と呼んでいいほどの立派なものなのか、ミカにはわからなかった。
「いや〜霊感なんてないですよ」
手を小さく振りながらそう答えた時に、ふと30年近く前の記憶が蘇った。
『てんしさん』が見えていた時のことだ。
「・・でも、小さい頃は・・
"天使"みたいなものが見えたことがありましたね」
「天使・・?」
「うーん、厳密には違うかもしれないんですけど、何か白くてキラキラしたものがたまに見えることがあって、それを勝手に『てんしさん』って呼んでたんです」
こんなこと言って、引かれるだろうか・・
でも小さい頃の誰にでもある空想話みたいなものだし、まあいいか、と思いながら話してみたのだが、エリの反応は予想外のものだった。
「すごーーい!」
エリの目はキラキラと輝いている。
「いやいや、全然すごくないですよ。気のせいかもしれないですし、今は何にも見えないし」
「ミカさんにはきっと、天使様の力があるんですよぉ〜!あっ、よく見るとこのハンカチも天使の刺繍じゃないですかぁ!!!すごい!!!」
そうだった。
昔から天使のモチーフが何となく好きだったからデザインに選んだだけだったのだが、すごい偶然だ。
「あ、それに!」
「?」
「確かキリスト教では、天使に『ミカエル』っていましたよねぇ〜ミカって名前もぴったり!!!」
本当だ、今初めて気がついた。
自分の名前なんて、平凡でどこにでもある名前だと思っていた。
「いやー、ミカさんのこと、これから天使さまって呼んじゃおうかなぁ〜」
エリが恍惚とした表情でそう言う。
「いやいやいや・・恥ずかしいですって、私はただの 人間 です!」
ミカは"人間"の部分を強調しながら言った。
エリは少し照れ臭そうに、こちらの様子を伺いながら切り出した。
「・・実は、引かないんで欲しいんですけど・・・私スピリチュアルな話が好きで、そういう知り合いも多いんですよねぇ・・・
みんなにミカさんのこと紹介したら、絶対喜ぶだろうなぁ〜」
「あはは・・スピリチュアルかぁ」
あまり気乗りがしなかった。スピリチュアルって、オーラとか前世とか、そういうものだろうか。なんだか不気味な感じがする。
「いやいや、全然怪しくないですよ!物を売りつけたりしないですし!ただ、ちょっと不思議な話をするのが好きなだけで!集まるのも、普通のカフェですし!
一度だけ、みんなに紹介させてくれませんかぁ〜?」
「うーん・・」
「もちろんお茶代は私が出しますからっ!」
無職なのに良いんかいな・・とツッコミそうになったが、エリの眼差しは真剣だ。
怪しい場所に首を突っ込みたくはないが、こうして敬意と憧憬の眼差しを向けられるのは、正直悪い気がしなかった。
それに、親に否定されて以来、誰にも言えなかった"てんしさん"の話を受け入れてくれる人達が存在していて、むしろその話を喜んで聞いてくれるのなら、少し嬉しい気もした。
「うーん、一度だけなら・・」
「やったぁ!ありがとうございます!じゃあ詳しいことはまたLIMEしますねっ。
あ、あともう一つだけ、お願いがあるんですけどぉ・・」
「え・・?」
一体、なんだろう。
「このハンカチ、私に売ってくれませんかぁ?」
エリは先程涙を拭ったハンカチを、両手で大事そうに持って見せた。
「いやいや、こんなの素人の出来だし、お金払う価値なんてないですよ!
あ、涙を拭いたことなら、気にしないで!」
「いえいえ、私、欲しいと思ってるから言ってるんです!
実は前々から、ミカさんの作品素敵だなって思って見てたんです。
淡い色遣いも色合わせのセンスも素敵だし、作品にミカさんの優しさが表れてるというかぁ・・・それに、このハンカチがあると、なんだか就職活動も頑張れる気がするんですっ!」
そう言われて照れた。自分が作った物を褒められることは、自分自身が褒められることよりもなんだかくすぐったかった。
手芸では、ミカは自分が使うための物ばかり制作してきたので、誰かに自分の作った物を売るなんて考えたこともなかった。
「うーん、じゃあ、500円だけもらおうかな」
材料費を考えると、そのくらいの金額が妥当と思えた。
「えーっ安すぎますよぉ、私なら5千円はとりますね!」
オーバーなリアクションでエリが答える。
「あはは、ありがとう・・でも、渡すのは次会った時でも良い?」
「え、どうしてですか?」
「実はこれ、まだ花の刺繍がひとつだけ未完成で」
「えーっ、このままでも充分綺麗だから良いですよ!
それに、手間をかけさせてしまいますし」
「エリさんが良くても、私が満足できないからね。
やっぱり使ってもらうのなら、ちゃんと完成した、綺麗な物を渡したいって思うから」
「私なんかのために・・ありがとうございますっ!ミカさんって本当に優しい方ですね!
じゃあ、お言葉に甘えて・・よろしくおねがいします!」
エリは小さくお辞儀しながらハンカチを差し出した。
ミカは、それをそっと受け取った。
こうして、その日のランチが終わった。
「天使さまかぁ・・」
そう呟きながら、ミカは帰路についた。
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第2話につづく