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小説『天使さまと呼ばないで』 第52話
清掃の仕事を始めて、1ヶ月が経った。
仕事にはだんだんと慣れてきた。最初の頃に悩まされた筋肉痛も無くなってきたし、3ヶ月の引きこもり生活でつきすぎた脂肪も少しづつ落ちてきたように思う。
ヒロコさんは相変わらず厳しいが、ミカの仕事の出来が良くなるにつれ表情も柔和になってきた。
仕事に求めるクオリティが高くぶっきらぼうなだけで、悪い人ではないのかもな・・とミカは思い始めた。
今日は月曜日、ユミコさんとペアの日だ。
ミカは3階の廊下を、ユミコさんは階段を掃除していた。
廊下のモップがけが終わったので、ユミコさんに伝えに行く。
ミカは階段の入り口から、踊り場を掃除しているユミコさんに向かって話しかけた。
「ユミコさん、私廊下終わったんでトイレやってきます」
「あら早いわねぇ、ありがとー」
ふと足元を見ると、ユミコさんが既にモップをかけ終わったはずの部分にまだうっすらと汚れが残っているのに気がついた。
「あ、ユミコさん、ここまだ汚れてるんで拭いておきますね」
「あら本当?最近老眼だからかしらねぇ・・・まーバレないバレない」
そう言ってユミコさんは笑ったが、ミカはそっと吹き上げて綺麗にしておいた。
ユミコさんは結構、いい加減な人だ。だからミカに対して求める仕事のレベルも低い。
だが、ミカは火曜日と木曜日にヒロコさんにいつも厳しい目でチェックされているせいか、ユミコさんとペアの時であっても、自然とヒロコさんの求めるレベルの仕事までこなすようになっていた。
それに、汚れが落ちていくのを見るのは自分の過去を洗い流しているような気がして、単純に気持ちよかったのもある。
汚れを落としてスッキリしたところで、ミカはトイレへと向かった。
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ユミコさんとの業務は楽しいが、ミカにはひとつ憂鬱なことがあった。
ミカがユミコさんと担当しているAビルは、県内で一番栄えているオフィス街の一等地にあるため、中に入っているのは有名企業ばかりだ。
だから業務中にオフィスカジュアルやスーツを着て颯爽と歩くキャリアウーマン風の女性をよく見かける。
彼女たちとすれ違う時、ミカはいつも自分の着ている水色の味気ない制服と見比べて、惨めな気持ちになってしまうのだ。
彼女たちが綺麗な身なりをして汗水垂らすことなく座って仕事をするだけで、自分よりはるかに高い給料をもらい、ぬくぬくと生活をしてると思うと、どうしても嫉妬心が湧いてしまう。
ミカも若い時は、彼女たちのように有名企業ではないものの会社勤めをしていた。でもあの時は、自分が恵まれている立場にいるとは思ってもいなかった。
むしろ毎日退屈で憂鬱でお局も鬱陶しくて、早く辞めたいとばかり思っていた。
コウタと結婚してA県に引っ越してからは、喧嘩した時によく「あなたのために仕事を辞めたのよ」と言ったが、あれは嘘だ。
本当は、結婚したらすぐ仕事を辞めたかった。
でもコウタが『子供ができるまでは働いてほしい』と言うから仕方なく働いていただけだ。
コウタが転勤を命じられたからついてきてくれないかと言った時、ミカは内心小躍りしていた。
これでやっと会社員という重苦しい鎖から逃れられるのだと思った。しかも、夫のためという大義名分まで手に入れて。
あの時の自分は、自分が『掃除のおばさん』になることなど想像もできなかった。
むしろそういった仕事をする人は、学がなくて可哀想な人とさえ思っていた。
きっとここで働く人は皆、過去の自分のように、掃除のおばさんである私を見下して笑っているのだろうとミカは思っていた。
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ミカが掃除をしようと3階のトイレに入ると、個室が一つだけ使用中だった。
仕方なくそれ以外の場所の掃除から始めたが、その個室はなかなか開く気配が無い。
(早く出てくれないかな・・・)
そう思いながらモップをかけていると、ようやく人が出る気配がした。
個室から出てきたのは、紺色のパンツスーツを着た、長い黒髪のスレンダーな女性だった。
女性の顔を見て、ミカは驚いた。
それは3年前に、スピリチュアル会でミカに"天使"を名乗ることを警告したレイカだったのだ。
(そういえば、ここの3階は製薬会社が入ってたんだった・・・)
確かスピリチュアル会で、レイカは『製薬会社に勤めてる』と言っていた。
レイカの目は真っ赤だった。鼻と口元をハンカチで押さえている。どうやら個室で隠れて泣いていたらしい。
ミカは慌てて、自分と気づかれないようにうつむきながらモップがけをした。
女性は手を洗ってから、鏡に向かって自分の顔をチェックしていたが、ミカの姿に気づくと話しかけてきた。
「すみません、掃除の邪魔をしてしまって」
少し鼻声だ。
「いえ・・・」
ミカは背中を向けてうつむいたまま首を振った。
「あら、最近入られた方ですか?」
「あ、はい、1ヶ月前に・・・」
自分とバレないように、できるだけ声を低く出す。
「最近、廊下やトイレが前より綺麗になってるなって思ってたんです。あなたのおかげですね、ありがとう」
そう言ってレイカは笑顔で出て行った。
ミカは自分の頑張りを誰かがちゃんと見ていてくれたことに感動を覚えた。
だがそれ以上に、スピリチュアル会ではあれだけ気丈に振る舞っていたレイカがこっそりと泣いていたことに衝撃を受けた。
(レイカさんは一体、何で泣いていたんだろう・・・)
ミカは、ユウコがスターブックス・コーヒーで言っていたことを思い出した。
その友人からは、以前『ユウコは自由で羨ましい』『毎日しんどい』って言われたことがあって・・・でも、それは友人なりの冗談だと思ってました
だから私、全然真面目に取り合ってなかったんです。
そうは言っても、私よりはマシでしょ。私よりは幸せでしょって、そう思ってました。
そして友人のこと、どこか冷めた目で見てた
(案外みんな、知らないところで泣いてるのかもな・・・)
そう思いつつ、ミカはまた黙々と掃除を続けた。
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第53話につづく