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小説『天使さまと呼ばないで』 第55話
「・・・私たち、やり直せないかなあ?」
コウタの返事を待つ間、世界中の時が止まったような気がした。
舞い散る桜の花びらさえ、空中で静止しているように見えた。
と思うと、温かい風がふわりと吹いた。止まっているように見えた花びらは、一斉にミカからコウタの方に向かって落ちて行った。
コウタは少し困ったような笑顔をして、言った。
「それはできないよ・・・ごめん」
ピシッ
耳の奥で、何かに亀裂が入ったような音が聞こえた。
ミカが黙っていると、コウタが左手を眺めながら言った。
「再婚したんだ。半年前に」
薬指には、マットな質感の銀のシンプルな指輪が光っていた。ミカとの結婚指輪とは、また違ったデザインだった。
身体中に、ガラスのようなものが砕け散った音が響いた。
頭の中は真っ白になって、何も言葉が浮かんでこない。先程とは逆に、今は世界中で自分の時間だけが止まっているように感じる。
ミカはおぼつかない思考をフル回転させて、その場を取り繕う言葉を必死に絞り出した。
「そうなんだ〜!いや、そうだよね、ごめん」
手をパタパタさせて、そう自分に言い聞かせながら笑った。
「コウタみたいな良い人、周りがほっとくわけないよね!
新しい奥さんはめっちゃ幸せ者だね!コウタと結婚できて!」
コウタに気を遣わせないようにしなければと頭では理解しているが、出てくる言葉はどれも空虚なものに聞こえる。
それでも、弱った身体に鞭打つようにして、ミカは最後の言葉を絞り出した。
「おめでと、コウタ」
そう言ってニッコリ笑った。涙腺は今にも崩壊しそうだったが、必死にこらえた。
「ありがとう、ミカ。
・・・僕が言うのも何だけど、今のミカなら僕がいなくても幸せになれると思うよ。絶対に」
コウタは最大級の賛辞としてその言葉を使っただろうが、ミカには『君の人生に僕はもう無関係だよ』と突き放されたようにしか聞こえなかった。
コウタは時計を見て言った。
「・・・ごめん、実は19時に駅で妻と待ち合わせしてて。悪いけどそろそろ行くよ」
「そっか、バイバイ」
そう言って、貼り付けたような笑顔でミカはコウタに手を振った。
「お幸せにーっ!」
鼻声になりながら、そう叫んだ。
コウタの後ろ姿が消えると、今まで必死にこらえていた涙が急にあふれてきた。
流れても流れても、止めどなく溢れてくるので、ミカは身体中の水分が無くなって死んでしまうのではないかと思った。
見上げると、桜の花々のあいだに藍色の夜空が見え、ところどころ白い星屑が輝いていた。そうして風が吹くたびに、淡い桜色の花びらがまるで雪のようにミカの頭上を踊っていき、時折涙を拭くかのように頬をかすめていった。
ミカは残りの紅茶を飲み干す。
独り占めするには、あまりにも美しすぎる夜桜だった。
もし、コウタの返事が違っていたら、二人でこの桜を眺めていたのかもしれないと思うと、目の前で繰り広げられるこの神秘的に美しい光景は、何とも皮肉なものに思えるのだった。
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どのくらい時間が経っただろう。
ミカはしばらくそのまま泣きながら夜桜や星をただぼんやりと眺めていたが、時間が経つにつれ流石に体が冷えてきた。それに、あまり夜遅くにこんなところに女性一人でいるのは危ない。
重い腰を上げ、駅に戻ることにした。
家に帰っても何も作る気力はないのは明らかなので、今日は外食にする。
食欲はほとんどないが、疲れているのでとりあえず何か糖分を摂りたかった。
ミカは駅前のイートインスペースのあるパン屋に入り、チョコクロワッサンと野菜ジュースを買った。
イートインスペースのカウンターは、目の前がガラス張りになっていて駅前の大通りがよく見えた。ミカはそのカウンターの端に適当にトレーを置いて腰掛けた。
ガラス越しに行き交う人々をぼんやりと眺めながらチョコクロワッサンを頬張っていると、見覚えのある顔があった。
コウタだった。
どうやら今の奥さんと夕食に行った帰りらしい。
コウタの横には、スレンダーな黒髪のショートヘアーの女性がいた。年齢はミカと同じぐらいか、少し年上に見える。
顔立ちは地味で美人ではないが、表情に愛嬌があって全体的に清潔感がある。シンプルなグレートーンの着こなしがセンス良く、その女性によく似合っていた。
女性が肩にかけている紺色のトートバッグには、ピンクの丸いキーホルダーがついていた。
そう、『お腹に赤ちゃんがいます』というマタニティマークだ。
コウタは女性と手を繋ぎながら、その姿を愛おしそうに見つめ、談笑している。
ミカが知っていた、女性の前ではオドオドして口下手になるコウタは、もうどこにもいなかった。
そこにいたのは、妻と生まれてくる我が子を愛し、また愛される自信に満ちた、一人の立派な男性だった。
もう少し早く素直になっていたら、あの場所にいたのは自分だったんだろうか。
ミカは、コウタに復縁を断られた時に聞こえた、『何かに亀裂が入ったような音』と『ガラスのようなものが砕け散った音』の正体にようやく気がついた。
それは、ミカの"幸福"のジグソーパズルにヒビが入り、粉々になった音だったのだ。
どうやら、そのジグソーパズルはガラス製だったらしい。
砕け散ったそのパズルは、どのピースも小さなカケラになってしまって、もう永遠に元には戻らないことがミカにはわかった。
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第56話につづく