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小説『天使さまと呼ばないで』 第2話

エリと別れた帰り道、ミカはエリの「ハンカチが欲しい」という言葉を思い出し、浮き足立っていた。

家に帰ると大急ぎでハンカチの刺繍の続きに着手した。花をあと一つ刺繍すれば完成だったので、時間はそれほど掛からないはずだ。

ミカはエリの顔を思い浮かべながら、ひと針進むたびに祈るような気持ちで、針を動かした。

(どうかこのハンカチが、エリさんのもとに幸せを運んでくれますように・・・)

丁寧に、心を込めて縫ったからか、これまでで一番美しい出来の刺繍となった。

完成してから、丁寧に手洗いし、部屋に掛けていた陰干し用のピンチハンガーに吊るした。

初めて人の手に渡ることが決まったその白い布は、まるで自分を褒め称える表彰状のように感じられた。


丁度その時、エリからLIMEが来た。

『今日はありがとうございました〜💖💖💖
ミカさんとお話しして、沢山のことを氣付かせていただきました🥰この御縁に感謝✨です😆🌈ハンカチ、楽しみにしています🎶
あ、スピリチュアル会なんですけど、ちょうど来月の14日のお昼に駅の近くのカフェで開催するんですが、ミカさんは空いてますか❓』


14日というと日曜日だ。パートは平日にしか入っていないので、ミカのスケジュールも空いていた。

ミカはこう返信した。

『こちらこそ、今日はありがとうございました🎶
エリさんと話せて楽しかったです☺️
14日空いてますよ‼️楽しみにしてますね😆』


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エリとランチをしたあの日から一週間たち、今日は水曜日。サークルの日だ。

ミカはエリに渡すハンカチを綺麗にラッピングし、持ってきていた。

いつもは開始時刻の10時ギリギリに来るミカだが、はりきったからか、いつもより10分早く到着してしまった。

そこへ、エリがやって来た。なんだか随分とニコニコしている。

「ミカさぁん!おはようございます!」

「おはよう、エリさん」

「実はぁ、すっごいミラクルがあったんですよぉー!」

エリは口元に両手を寄せ、古典的な"ぶりっ子のポーズ"をしていた。不美人なアラサーがやると中々破壊力がある。

エリの声量が思いの外大きかったからか、カフェ中にいる人の視線がエリに集まった。エリは『しまった!』という表情をしながら声を小さくした

「実はあの日、ミカさんと別れてからハロワに行ったら、ちょうど希望にぴったりの会社を引き寄せたんですぅ!」

「引き寄せ?」

聞いたことはある。一時期流行った、願いを叶えるためのおまじないのようなものだという認識があった。

若い時にはよく、本屋で『引き寄せ』がタイトルに入った本を見かけたものだ。

「あっ、なんていうか、見つけたんです!」

エリは、自分がナチュラルにスピリチュアルな用語を使ってしまったことに気づき、慌てて言い直した。

エリは続けた。

「しかも応募したら早速面接に来てほしいって言われてぇ、昨日一次面接をその場で通過したんですよぉー!」

「えぇー!?すごいじゃない!さすがエリさん!」

「うふふ。ミカさんのおかげですよぉ。ミカさんに言われてから、私自分を卑下するのをやめるように意識したんです。そしたら面接もいつもより自信持って挑めてぇ!」

「本当に良かった〜。あ、そうだ、これこれ」

そう言ってミカは持ってきていたハンカチを渡した。

「うわぁ!ラッピングまで!ありがとうございますぅー!来週の二次面接もこれで頑張れそうですっ!

あ、これお代です。念のため中身を今確認してくださいっ」

小さなピンク色の封筒を差し出された。

中を確認すると、1000円札が入っていた。

「あ、おつりいるね・・」と財布を取り出そうとした手をエリが制止し、そっと握った。

「いえいえ、これはほんの気持ちです。受け取ってください。

むしろ少なすぎてごめんなさい〜。本当は5000円でも安すぎるくらいなんですけど・・。

ミカさんのアドバイスのおかげで、私は一歩進めることができたんです。

ミカさんは本当に素敵な方です。

ミカさんはもっとたくさん受け取る価値がある方です。

だから、今回はこの金額でハンカチを買わせてください」

エリの眼差しは真剣だった。

「そ、そこまで言うなら・・ありがとう」

別にお金が目的ではなかったが、そう言われて悪い気はしない。

それに、エリが心から喜んでくれたことが、ミカは本当に嬉しかった。


その日ミカがサークルで手掛けたのはお手製のティッシュケース。

花模様を刺繍するつもりだったが、気が変わって天使を刺繍することにした。

針を通して天使を形作りながら、ミカは思った。

(エリさんって、ちょっと空気読めないところがある痛い子と思ってたけど・・ピュアでまっすぐで、すごく良い子だな)

最初は気乗りしなかったスピリチュアル会も、なんだか楽しみになってきた。


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その日の晩は珍しく、夫のコウタが早い時間に帰ってきた。

「ただいま〜」

食卓に並んだ手の込んだ料理を見て、コウタが気づく。

「お、豪勢だな。なんかいいことでもあった?」

「うふふ。最近さ、手芸サークルに行き始めたでしょ?

そこに通ってるエリさんって人がいるんだけど、私の作ったハンカチを買ってくれたんだ〜。売るつもりで作ったわけじゃ無かったんだけど、是非欲しいって言われてさ」

「へぇー。売れるもんなんだねぇ」

「500円でいいって言ったのに、あんまり素敵だからって1000円も払ってくれたんだよ!」

「ふぅん」

コウタはそう言いながらスマホでニュースを見ていた。

(反応薄いなぁ、もう・・)

そう思いながら炊飯器からコウタの分のご飯をよそう。

そこでふと、ミカは来月のスピリチュアル会のことを思い出した。そういえば、まだコウタには伝えてなかったのだった。

「そうだ!あのね、来月の14日の日曜日に、その、エリさんや他の人たちと、・・ランチしようってことになって。

だからコウタもお昼ご飯は自分で済ませてね」

行くのが"スピリチュアル会"だと正直に言うのは気が引けた。

『他の人』という言葉を、恐らくコウタは『手芸サークルの人達』という意味で捉えただろうが、別に嘘は言ってない。

「そう、わかった」

スマホで一通りのニュースを見終わったコウタは、テレビをつけながら答えた。その姿を見て、ミカはがっくりする。

(せっかく早く帰って来たんだから、もうちょっと喋ってくれてもいいのに・・・)

腹の底で燻る寂しさに気づいた途端、頭の中は愚痴で止まらなくなる。

(いつもそう。私のことなんて家政婦としか思ってないんでしょ)

(まさか今日も私より早く寝るんじゃないでしょうね)

(まだ子供ができないことに、私がどれだけプレッシャーを感じているかわかってるの?)

(パートさんのおばさんたちの言葉で、どれだけ私が辛い思いをしているか考えたことある?)

(私32歳なんだよ?早くしないとますます妊娠しづらくなっちゃうんだよ!)

不満が噴出するにつれ、ミカの周りにはピリピリした空気が発せられた。

コウタは、ミカが何かにイライラしていることに気づいてはいた。

だが、いったい自分がどんな地雷を踏んでしまったのかわからなかった。

まさか今つけたテレビにミカの嫌いな芸能人でも出てたんだろうか。

慌ててチャンネルを変える。しかしミカの機嫌は変わらない。

コウタは、自分がスマホを見ながら返事をしたことや、会話を早々と切り上げてテレビをつけたこと自体がミカの"地雷"だったことに気がついていない。

ミカと比べて寡黙なコウタは、自分はもう十分に『夫婦の会話』ができていると思っていたのだ。

ミカの中には、コウタに自分のことをもっと見て欲しいだとか、たくさん話して欲しいだとかの欲求があることを、知る由も無かった。

ミカのピリピリとした雰囲気を感じると、コウタはますます萎縮してしまい、『触らぬ神に祟りなし』といった感じで、さっさと食事や風呂を済ませ、寝てしまう。

コウタは、相手の機嫌が悪い時にはそっとしておく方が良いと思っていた。少なくとも自分はそうしてもらいたい。

モヤモヤしている時に話しかけられると、思考が邪魔をされてますますモヤモヤしてしまう。

だからミカの機嫌が回復するまでは、自分はできるだけ気配を消して、ミカが自分と向き合える時間や空間を作ることこそが、ミカへの最大の配慮であり愛情だと思っていた。


そんなコウタを見て、ミカはますます怒りを爆発させた。

(「大丈夫?」「どうしたの?」の一言が、どうして言えないんだろう。なんて冷たい人なの)

(私が不満を抱えていることに気づいているくせに、どうして逃げるんだろう)

(どうせ私のことなんて興味がないのね)


コウタへの怒りを頭の中で言語化するたびに、被害者思考という沼に沈んでいく。


ミカから発せられる重苦しい空気から逃げるためか、コウタは夕食後、さっさと一人で風呂に入りに行った。

ミカは少し遅れて洗面所に入る。コウタが湯船に浸かる音が聞こえてきた。

『今日は一緒に入りたいな』・・・そう言いたかった。

だがその言葉を、素直に口から出す勇気がどうしても出なかった。

できれば自分が洗面所にいることにコウタが気がついて、コウタから声をかけて欲しい。私のことを本当に愛しているならば。

しかし時間が経っても、コウタがこちらの気配に気づくことは無かった。

ミカはため息をつく。

(やっぱりコウタは、私のこと愛してないのかも・・・)

きっとこの後も、コウタはそのまま寝室に行って一人で寝ることだろう。

そう思うと、自分が惨めで仕方なくなった。

洗面台に目をやると、化粧水が少なくなってきたことを思い出した。近いうちに近所のドラッグストアへ買いに行かなくては。

本当は、気になる高級化粧水がデパートにあるけれども、今ミカにそれを買う余裕は無い。

(はぁ・・・なんかうまくいかないことばっかり)


結局一人で風呂を済ませることになったミカが寝室に入ると、コウタの寝息が聞こえてきた。さっさと寝てしまったらしい。

涙が出て来た。

(もうすぐ排卵日だったのに・・)


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ミカがコウタと出会ったのは、28歳の時だ。出会ったのは婚活パーティーだった。

当時のミカには、早く結婚しなくてはならないという焦りがあった。職場の先輩が「30歳を超えたら途端に婚活はハードモードになる」とボヤいていたのを聞いていたからだ。

そして何度目かのパーティーで出会ったのがコウタだった。

コウタは見た目は地味だし、イケメンというわけではない。ただ清潔感はあったし、背もミカよりは高かったので、ミカにとっては充分だった。

何より、2歳年上で年齢が近いことと、大手企業で研究職をしているという肩書きが魅力的だった。

(この人なら、友達に紹介しても、結婚式で人に見られても、恥ずかしくないわね)

そう思った。

だから、最初にコウタに話しかけた時は、打算的な気持ちが大きかったのだ。


コウタは中高と男子校に通い、大学も理系の学部だったため、女性と付き合った経験がほとんどなかった。

流石にこれでは一生独りになってしまうと思い、慌てて参加したのが、ミカも参加していた婚活パーティーであった。


そんなコウタが、ミカから初めて優しく話しかけられたとき(それは打算の元の優しさだったのだが)、まるで目の前に天使が現れたように感じた。

顔面レベルでいえば中の上といったところだが、はにかんだような笑顔がかわいくて、胸も大きかった。

着ていたAラインの白いワンピースはシンプルだったけども清楚な印象で、ミカのフェミニンな魅力をいっそう引き立たせていた。

ずっとむさ苦しい男社会で生きていたコウタには、その姿が新鮮に映ったのだ。

喋ることが好きで、感情表現も豊かなミカは、コウタと会話する時も自然と話を盛り上がることができた。口下手なコウタは、ミカのそんなところを有り難く思った。


ミカと話していると、その表情がくるくる変わるところを、コウタは面白く愛しいと思った。

コウタと一緒にいると、なんだか安心感を覚えることを、ミカは心地良く頼もしいと思った。


こうして二人は交際を始め、一年後に結婚したのだ。


だが結婚して一年もすると、ミカは子供が欲しいと言うようになった。

コウタは戸惑った。心の準備が出来ていなかったからだ。

もちろん、いつかは子供もできると良いなとは思っていたけれども、交際期間も長く無かったのだし、まだもう少し夫婦二人だけの甘い時間を過ごしたいと思っていた。


一方、ミカの心は焦りで一杯だった。

ミカの結婚が決まった時、母はこう言ったのだ。

「本当に良い人を見つけたわね、ミカ。

さっさと子供を作りなさいよ。子供ができなくて離婚ってなったら、女は悲惨なんだから。

それに、年をとると妊娠もしづらくなるからね」

"子供ができなくて離婚は、悲惨"

その言葉は呪詛のようにミカの心を縛りつけ、ミカは子作りに躍起になった。

コウタは辟易した。


確かにセックスは気持ちがいいが、自分を種馬のように扱われるのはプライドが傷つく。

コウタはミカのことを愛しているから抱きたいのだ。

しかしミカは、排卵日に近くない日はセックスを拒んだ。ミカにとっては妊娠の確率が少ない日のセックスなど『無駄打ち』である。

そして排卵日が近いなら近いで

「もうすぐ排卵日なんだけど・・」とロマンの欠片も無い言葉で寝室に誘おうとする。

排卵日だから、何だというのだ。

そんな言い方をされると、まるでセックスが義務的な仕事のように感じられて、コウタは身も心も萎えてしまった。

ミカが買ってきた「妊娠したい時に読む本」「妊娠準備BOOK」という本のタイトルも、コウタには何だかプレッシャーに感じられた。


僕は子供を作るための道具じゃないんだ!


コウタは、二人の間に子供ができないならできないで別にいいと考えていた。

愛すべき伴侶と共に仲良く暮らせれば、それで十分じゃないか。

子作りのことを考えてピリピリするぐらいなら、そんなことは忘れて、楽しい気持ちでいてもらう方がずっと良いと思った。


コウタは、わかっていなかったのだ。

ミカが、子供ができなければ自分はいつか捨てられてしまうのではないかという恐怖に怯えていて、その恐怖ゆえにそうした"萎える"行動を取っていることを。


転勤してからは仕事も忙しくなり、ますます夜の生活は遠のいた。それどころか、夫婦で会話する時間さえ少なくなってしまった。

・・いや実のところ、コウタは仕事の忙しさや疲れを言い訳にして、子作りのプレッシャーやピリピリした家の空気から逃げていたのだ。


表立った派手な喧嘩こそしなかったものの、いつしか二人の間には、冷たい風が吹くようになっていた。



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第3話につづく


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