小説『天使さまと呼ばないで』 第59話
あれから一週間。
ミカはずっと、この重苦しい罪悪感をどうすればいいかわからないまま、ただ職場と家を往復していた。
ユミコさんからは、いまだに失恋を引きずっていると思われている。だが『自分がかつて胡散臭い商売をしていたことに後悔しています』なんて言えるはずもない。
どうすればこの罪悪感が消えるのか、わからないまま悶々としている。
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水曜日、ミカはいつものようにAビルの3階のトイレを掃除していた。
まずは個室の掃除を済ませ、鏡を拭いていると、人が入ってきた。
「すみません、今使っても大丈夫ですか?」
「あ、はい」
そう言って顔を上げると、そこにいたのはレイカだった。
(まずい・・・!)
バッチリ目があってしまった。しかし、レイカは気にすることなく、個室へと入っていった。
レイカが個室から出て、普通に手を洗っている姿を見て、ミカは安心した。
(良かった、私の顔、覚えてないんだ・・・)
しかし、ミカの視線に気がついたのか、今度はレイカがこちらを見てきた。
「あの・・・失礼ですけど、どこかで会ったことあります?」
「えっ」
「いえ・・・以前お見かけしたような気がして」
そう言ってレイカは爽やかな笑顔を向けた。
しらを切ろうとも思ったが、こちらが見つめてしまったことへの言い訳ができない。それに最近ずっと、"過去の小さな嘘"に後悔していたミカは、正直に答えることにした。
「はい・・・実は、3年半前に一度だけお会いしたことがあります。
あの、The SOURCEってカフェでやってた、スピリチュアル会で。レイカさんはお友達と一緒にいらっしゃってて・・・」
「あーーー!あの時の!すみません、忘れてて。それにあの時、私空気をぶち壊しにしたような・・・」
「いえ・・・レイカさんがあの場で言ってたこと、正論でした。
私あの時、『天使の声が聞こえる』って言ってカウンセリングしてたミカって言います・・・そのことを注意してくださったの、覚えてますか?」
「ああ、なんとなく・・・」
レイカにとっては取るに足らない記憶だったようだ。
なんだか寂しいような、ホッとするような、微妙な気持ちになる。
ミカは言った。
「レイカさんの言ってたこと、正しかったです。『天界は金儲けに使われることを嫌う』って。
私、あれから散々な目にあって。
夫に愛想尽かされて離婚されるわ、300万の借金抱えるわ、ネット炎上でみんなから叩かれるわ・・・それで今はこうして、掃除のおばちゃんになりました」
そう言ってミカは手を広げ、自嘲した。
「レイカさんに言われたときに、やめておけば良かった。今は毎日後悔してます。自分のことはいいんですが、たくさんの人を巻き込んでしまったこととか、霊感商法でお金を稼いでしまったこととか、適当なアドバイスで人々を翻弄してしまったこととか・・・」
レイカは無表情で、黙ってこちらを見ている。
ミカはため息をつき、床を見つめながら言った。
「私みたいな人間、死んだ方がいいですよね・・・」
レイカは小さくため息を吐いた後、淡々とした口調でこう言った。
「死ぬかどうかはミカさんが決めることだから、好きにすればいいんじゃないですか?」
思わぬ冷たい回答に、頭から冷水を浴びせられたような感覚になる。
「そうやって、私に聞くのは無責任ですよ。
私が『死になさい』って言えば、私を悪者にして死ねる。『生きなさい』って言えば、『あいつのせいで私は生きなければならない』って悲劇のヒロイン気取りで私を恨みながら生きられるじゃないですか。
そうやって他人に自分の命を委ねるのは、反省しているフリをして実際には人に責任をなすりつけるだけの卑怯な行為だと思いますよ」
正論だ。確かに、ミカはレイカに縋るような気持ちでいた。あわよくば、レイカに『生きなさい』と言って欲しかった。そうすれば、自分は生きてもいいのだと、過去はいつか許されるのだと言い聞かせて良いような気がしていた。
「おっしゃる通りです・・・ごめんなさい」
ミカはうつむき、ただ黙った。
レイカは再びため息をつき、話しだした。
「あなたが苦しんでるのは、天界のせいでも神様のせいでもなく、あなたの良心のせいですよ」
「良心・・・」
「そう。あなたに良心があるから、過去を後悔している。
でも良心があるということは、あなたが人として大事なものをまだ持っているということです。
良心を捨ててしまえば、後悔を味合わなくて済みます。だから楽になれるでしょう。
でもそうなると・・・多分あなたは、人ではなくなると思います」
レイカはミカの目をじっと見つめた。
「ミカさん、あなたは過去から逃げず、後悔をきちんと味わいなさい。自分を闇雲にけなすのではなく、ただ事実を受け止めなさい。そして良心が残されていることに、感謝しなさい。
そうして、これからはどうすれば人の役に立てるかを考えていきなさい」
そう言って、レイカはミカが掃除をし終わった個室の方を眺めた。
「私、スピリチュアルなこと言うの嫌いなんですけど」
レイカはそう前置きしてから言った。
「低級霊ってどういうところを好むか、知ってます?」
「いえ・・・」
「不潔な場所って言われてるんです」
レイカは優しい口調になって続けた。
「だから、あなたがいつも綺麗に掃除してくれるのを見ると、安心するんです。ああ、守られてるなって」
ミカはドキリとした。自分の仕事を、そんなふうに見ている人がいるなんて思ってもみなかった。
「だから、私にとっては、ミカさんは役に立ってますよ」
レイカはそう言って、にっこりと微笑んだ。
ミカはレイカの言ったことを、すぐには理解できなかった。なんだか頭の上で大きな鐘を打ち鳴らされたような、そんな衝撃が身体中に響いていたのだ。
ただ、レイカの言った色々な言葉が頭の中にいつまでも反響していた。
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4月下旬ー
レイカの言葉を受けてから、ミカは後悔について色々と考えるようになっていた。
レイカの言う通り、闇雲に自分をけなすことは辞めるようにし、ただ『自分は人を騙した』という事実を受け止めるようにしている。
事実を受け止めようとする時、口中、いや身体中に苦い感覚が広がる。これが、後悔の味なのだと思う。
あまりの苦さに、『仕方なかった』『悪気はなかった』と自己弁護したくなるが、そんな時はぐっとこらえて、また『自分は人を騙したのだ』という事実を心の中で唱える。
辛く感じるけれども、自分がしてきたことを考えると、ここで弱音を吐いてはいけないなと思う。
レイカが言っていた『人の役に立つ』ということは、考えてはいるけれども、具体的にどういうことをすればいいのかわからない。とりあえず、今の自分にできることは仕事を精一杯することだと思うので、掃除は手を抜かずにやるようにしている。
だが、一つ問題があった。それは、今日からゴールデンウィークということだ。
仕事中は仕事に没頭することができるが、あと一週間はビルが閉まっていて、仕事に出ることができない。
自分をけなさないと決めたものの、暇な時はどうしても頭の中に色々と自分を責める暴言が浮かんできて苦しくなってしまう。
それに、仕事で『人の役に立つ』ということもできない。
買い物で気分転換しようにもお金がないし、一緒にランチに行くような友人もいない。
それどころか、連休中は稼げないから、来月の生活費も危うい。
何とかしてお金を作らないといけない。
ミカは気分転換も兼ねて、これまで売るのを躊躇していたCHAMELのワンピースとペリー・ウィルキンソンのネックレスもモルカリに出すことにした。
フリマアプリのモルカリを開くと、新着の出品欄に見慣れた手刺繍のハンカチが映っていた。
それは、自分がかつてカウンセリングで渡していたものだ。
売値は1000円だった。ミカが初めてエリにハンカチを売った時と同じ価格だ。
このハンカチで実際に彼氏ができ、結婚してくれた人がいることを救いに思う反面、ハンカチを持ってから彼氏ができるまでに1年かかったのなら、それはハンカチのおかげではなくただの偶然、プラシーボ効果というやつじゃないかとも思う。
(この頃の、1時間1万円でカウンセリングを続けてたら、コウタと別れることも、罪悪感で苦しむこともなかったのかな・・・)
そう思うと、過去に戻りたくて仕方なくなる。だが、もはやどうすることもできない。
気分転換するつもりが、益々苦い気持ちになってしまった。
(とりあえず、出品するワンピースとネックレスを出そう・・・)
そう思いながら押し入れを開けると、反物の白やピンクの綿の生地が出てきた。
それは、ハンカチ作りのために大量に買い置きしていた布だ。
ミカはしばらく、その生地を手に取って眺める。
(綿だし、ハンカチ以外にもいろんな物が作れそうだな・・・)
ふとひらめいて、ミカは本棚として使っている、押し入れの中のカラーボックスを漁った。
(確かまだ捨ててなかったはず・・・)
(あった!)
それは、ミカが高校生の時に使っていた、洋裁のパターンが載った本だ。
ミカはその本と白い生地を手に取り、ミシンの前へと向かった。
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第60話につづく
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