小説『天使さまと呼ばないで』 第53話
ミカがエンジェルカウンセラーとしての活動を休止してから半年近く経とうとしていた。
時折、ミカのファンや昔のクライアントからLIMEやメールで問い合わせは来ていたが、ミカは全て同じ返信をしていた。
中でも一番頻繁に連絡がきたのはエリだ。エリは一週間に一度はミカにLIMEを送ってきた。
内容はミカを励ますファンレターのようなものだったり、或いはくだらない自分語りと近況報告だったりした。
ミカはそうしたものには曖昧な返事をするか、面倒臭いときは適当にスタンプで回答するようにしていた。
以前面接で過去の仕事を馬鹿にされて以来、ブログとFactbookを鍵アカウントにしてはいたが、まだ消してはいない。
これを消してしまうと、自分が今まで築き上げてきたものをゼロにすることになる。そう思うと、なんだかもったいない気がしたのだ。
(だけど、コウタとやり直したいなら、やっぱりこのブログもFactbookも消した方がいいのかしら・・・)
しかし、未だに問い合わせが来ている以上、安易に削除するのもかえって不誠実な気がして、まだ削除は見送ることにした。
この間、数ヶ月ぶりにFactbookにログインすると、フォロワーの数は全盛期の10分の1以下の800にまで減っていた。
あまりの減り具合に胸がチクチクと痛んだが、それでも800人の人は自分を見捨てていないのだと思うと、なんだか嬉しい気もした。
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3月下旬の金曜日ー
今日は、清掃のバイトの3ヶ月の試用期間の最終日だった。
来週からは、時給が50円だけ上がる。
清掃の仕事だけでは借金を返しつつ生活をするのがかなり厳しいので、ミカはさらに返済期限を10年に延長した。月々に支払う額は4万円だ。
家賃や食費などの生活費を払うと、ほとんどお金は残らない。極力節約して毎日を過ごす。
ただ、カウンセラーとして贅沢三昧な生活をしていた時よりも、今の方がずっと充実している気がする。
贅沢をすると、その時は何とも言えない快感が沸き、まるで自分が空に浮き上がったように感じるのだが、その快感はまるでシャンパンの泡のように時間が経てば消えてしまう。そして急に地面に叩きつけられたかと思うと、自分が独りであること、世界が何も変わっていないことに気づいて絶望する。
対して、清掃の仕事をしている時は、自分が地面と同化している感覚になる。自分が世界を動かす透明な歯車となっている気がする。歯車と言うと聞こえが悪いかもしれないが、その感覚は決して不快ではない。
なぜなら、たとえ一人で仕事をしていても、自分が世界と繋がっていることに安心できるからだ。自分が独りじゃないと感じる。そして仕事が終わった時に、歯車としての本分を全うできたことを誇りに思う。その感覚は、決してシャンパンの泡のようには消えない。それはまるでレンガを積み重ねるように次の日、また次の次の日にも存在していて、揺るがない自信となっているのだ。
ミカはユウコと出会ったり、清掃の仕事をしたりするなかで、いろんなことに気づけた。
身の丈を知らなかったからこそ、自分の価値を高く見積もり過ぎていて、少しの注意で腹が立ってしまっていたこと。
小さなことでも真面目に頑張っていたら、ちゃんと評価をしてくれる人が現れたり、自分の成長が実感できたりする日がくること。
自分より恵まれていそうな人であっても、その人にはその人なりの苦しみや悲しみがあって、本当に自分より幸福かなんて誰にもわからないこと。
そして何よりも、コウタが自分のことをとても愛してくれていたこと。
そしてその有り難みに気づいていなかったこと。
ミカの人生の"幸福"を描くジグソーパズルはあと少しで完成しようとしている。
この半年間で、ミカはそれまでの自分に足りていなかった、『分別』『素直』『勤勉』『謙虚』『感謝』そして『反省』といったピースを手に入れた。
あと一つだけ足りないピースが『コウタ』だ。
そのピースさえ埋めれば、ミカの人生に本当の意味での"幸福"という絵が飾られる、そんな気がしていた。
この3ヶ月間、ミカはずっとコウタに連絡を取ろうか迷っていた。でも、もしLIMEがブロックされていたらどうしようとか、もし冷たく突き放されたらどうしようとか、そういったネガティブなことばかり頭に浮かんでどうしても勇気が出なかった。
しかし、仕事に慣れて自信がつくにつれ、試用期間が終わったら連絡を取ろうと思うようになっていった。
だが、実際にその日となった今、まだ悩んでいる。
やり直せないのはまだいい。一番ショックなのは、コウタに嫌われていた場合だ。しかし、自分は嫌われても仕方のないことをした。
答えを出せないまま、試用期間最後の日の仕事は終わってしまった。もらったばかりの給与をしまうために財布を取り出そうと、通勤に使っているルウィ・ビートンのバッグに手を突っ込んだ。
しかし、なかなか財布が見当たらない。どうやら奥の方に入り込んでしまったみたいだ。バッグの底を手探りであさっていると、糸のようなものが手に当たった。
(あれ?何だろう、これ・・・)
取り出してみると、それはコウタが以前プレゼントしてくれたあの天使のネックレスだった。
(そっか、2年前にペリー・ウィルキンソンで買い物する時に、このカバンにしまってたんだ!)
そのネックレスは、ミカに背中を押してくれているような気がした。
今、ミカの後ろには本物の天使がいて、その天使が「今すぐ行きなさい」と言ってくれているような気がした。
ミカはそのネックレスを握りしめ、そして首につけた。
ミカは5駅先のコウタの会社に向かった。
今の時間は17時半。帰りが遅いことが多かったコウタに、今すぐ行ったところで会えるかどうかはわからない。それどころか、もうとっくに転勤して違う所にいるかもしれない。
でも今なら、会える気がした。
コウタに必ず、会える気がした。
急ぐ必要はないのに、ミカの足は走り出していた。
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第54話につづく