小説『天使さまと呼ばないで』 第51話
火曜日、今日はヒロコさんという先輩に教わる日だ。
ヒロコさんはユミコさんと同じく60代前半の女性だった。しかしユミコさんとは対照的に細身で白髪の無表情な人だ。
ユミコさんは時折、自分の子供や孫の話を挟んできたが、ヒロコさんは全く雑談をすることなく、淡々と業務だけを説明する。
「じゃあこの南側の廊下を拭いて。私は北側の廊下を拭いてるから、終わったら呼んで」
そう指示されたミカが廊下を拭き上げ、ヒロコさんに伝えにいくと、ヒロコさんは眉をひそめ指を差しながら言った。
「ここ」
「え?」
「まだ汚れてる」
そう言われてよく見ると、確かにうっすらと汚れが落ちきっていない場所があった。
「あ・・・はい、やり直します」
「ちゃんとしてよ。仕事なんだから」
「はい、すみません」
(何よ、細かいわね。それにもっと優しく言ってくれてもいいじゃない。私は初心者なんだから)
ユミコさんと全然違う。ユミコさんはもっと大らかで、ミカがやることには大体オッケーを出してくれていた。
(あーあ。今日もユミコさんと一緒が良かったな・・・)
(まあいっか、ユミコさんと組む日の方がヒロコさんより多くてよかった)
ミカはそう自分に言い聞かせながら掃除した。
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木曜日、この日もヒロコさんと2度目の仕事だった。
今日ミカが説明を受けたのはトイレ掃除だ。
(うわぁ・・・トイレかぁ・・・)
トイレと聞くだけでげんなりした気持ちになるが、これもコウタに会うまでの修行と言い聞かせて我慢する。
(この間は細かく言われたから、今日は念入りにしなくちゃ・・・)
そう意識して掃除をした。
最初はあれだけ嫌だと思って始めたが、業務だと割り切ってしてしまえばそれほど苦ではなかった。
むしろ、汚れが落ちていく様は気持ちがいい。自分のドロドロとした感情まで洗い流されていくような感じがする。
ミカはヒロコさんに仕上がりのチェックをしてもらいに行った。
(今日は完璧!一発OKのはず)
しかし、ヒロコさんの反応はミカの期待とは違っていた。
「時間がかかり過ぎ。じゃ次は2階のトイレをして。今の半分の時間でやって」
むすっとした顔でそう言って、ヒロコさんは自分の持ち場へと帰っていった。
(何よ、あの言い方!!!)
ミカは心の中で悪態をつく。イライラが止まらない。
(あのババア、私がみんなからどれほど敬われていたかも知らないくせに)
(本当の私は、こんな場所で働くには相応しくない人間なのよ)
(みんなが私のことを、天使と崇めてたんだから)
(私がまたエンジェルカウンセラーになったら、あんたよりもすぐに稼げるんだから)
(私がどれだけすごい人間かも、知らないくせに)
(こんな場所、やっぱり"天使"の私が働くには相応しくないわ)
・・・ここまで頭に浮かんだところで、ハッとする。
今のはどれも、前のスーパーでのパートを辞める直前に考えていたのとほぼ同じことだった。
自分が恐ろしくなった。この考え方を変えない限り、また自分はあの甘ったるい虚飾にまみれた世界へ舞い戻ってしまうことだろう。そうなれば、コウタとやり直す日なんて永遠に来ない。
ミカは、ナミの言葉と、この間の面接で言われたことを思い出す。
(そうだった、"エンジェルカウンセラー"とか"天使"なんて、普通の人からはただ胡散臭いと思われるだけ・・・)
思い出したくもないのに、ショウの言葉が耳に蘇る。
ふと正面を見ると、トイレの鏡に自分の顔が映っていた。
3ヶ月間ほとんど家を出ず、偏った食事ばかりしていたせいか毛穴と吹き出物が目立ち、頬から顎のラインが少したるんでいる。
カウンセラーの時は厚化粧だったが、清掃業だとどうせ顔を見られることは無いからと化粧もテキトーだ。(あと、ショウに「厚化粧のババア』と言われたことがショックだったのもある)そのせいか以前よりずっと老けて見えた。目元には小さいシミができていて、口元のシワは以前より深くなっている気がした。
何より、炎上騒動とショウの裏切りで精神的なショックが大きかったせいか、眉と口角が下がって疲れきった表情をしていた。
(どう見ても私なんて、ただのおばさん・・・)
(しかも親友と夫に愛想を尽かされて、300万の借金を抱えてる惨めなアラフォー・・・)
さっきまで『私はすごい人間だ』とか『こんな場所は私には相応しくない』と思っていたはずなのに、自信も自尊心も急にどこかに消えてしまったような気がした。
しかしそうすると、今度は過去のクライアントに言われたことを思い出す。
自分がやってきたことは、本当に全て間違いだったのだろうか。
自分は誰の役にも立つことのない、詐欺師だったのだろうか。
ミカは、自分が一体何者なのかわからなくなってきた。
不安をかき消すように、小さくつぶやく。
「私は・・・」
一体何者なんだろう?
エンジェルカウンセラー?天使?胡散臭い女?詐欺師?掃除のおばさん?惨めなアラフォー?善人?悪人?
そのどれも、しっくりこない気がする。
ミカはそっとつぶやいてみた。
「・・・私はミカ。それ以上でも以下でもないんだわ」
思いつきで発したその言葉は、妙に心地よく感じた。
ミカは35年間生きてきてようやく、自分が何者かわかったような気がした。
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第52話につづく
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