あのホテルのこと

 先日、Sさんと昼食をとった。Sさんは、数年前まで私が路上販売していた雑誌の購読者で、私が路上販売を終えても引き続き購読したいと希望する方に向けて委託販売として宅配や待ち合わせという形でお渡ししている定期購読者のお一人だ。大抵、待ち合わせの時間が正午前後になることが多いので、じゃあついでに昼食をご一緒に、ということになる。

 その昼食の場での会話だ。明日、Sさんは仕事のために泊りがけで富山へ行くらしい。富山への泊りがけはよくあることだそうで、定宿があるそうだ。

 前回その定宿に泊まった際には、チェックインの時間に入り口がロックされていて、しばらくすると宿主が買い物袋を下げて「ああ、ごめんごめん」と言いながら自転車で現れたそうだ。

 そんな感じのちょっと変わった宿なんですよ、というSさんの話を聞いているうちに、自分にもちょっと変わった宿に泊まった経験があったことを思い出した。

 20年ほど前のことだ。横浜に旅行したことがある。中華街でホテルを見つけた。看板には「オリエンタルホテル」と表示されている。「東方旅行社」という漢字表記もあった。同じく併記された料金は一泊3500円だったと記憶している。中華街という絶好の観光ロケーションの只中で格安の宿泊料金。寂れた外観に不安を感じるが、好奇心の赴くまま、ここに泊まることにした。

 入り口のドアを開けて、すぐ横の位置にある受付らしいカウンターに目を遣る誰もいない。ごめんくださいと大声で呼びかけると、奥の部屋から老婦人が出てきた。今夜泊まりたい旨を告げると、一泊料金である3500円を請求される。前払い方式だ。婦人の先導で階上の部屋まで進む。階段を登りがてら、チェックアウトの際には部屋のキーを先程のカウンターに置いてそのまま出て行ってもらって結構という説明を受ける。

 部屋に入る。昭和レトロと大陸趣味が混じったような、安易に思い浮かべる貿易港の安宿イメージそのものな雰囲気だ。婦人が部屋のお風呂には入るか?と尋ねてくる。入ると答えると、早速バスルームの水栓を開いた。バスタブにお湯が満たされるまでにしばらく時間がかかるから、その間にお茶を持ってくると言う。放ったらかしのセルフ宿泊システムかと思ったら、微妙に心遣いのあるサービスぶりだ。しばらく待つと本当にボトルやカップを置いた盆を持ってきた。口に合うかわからないがとりあえずねとテーブルに盆を置いた。お茶関係の器の並ぶ片隅にヤクルトの類似品も置かれている。これも飲みたかったらどうぞと言う。そのままバスルームに行きお湯の張り加減を見に行った。もう充分に張れたから入れと告げると、婦人は部屋を後にした。この微妙なサービスの塩梅が気に入った。

 出されたお茶もヤクルト紛いドリンクも翌日のチェックアウトの時間までに全部飲み干したのは言うまでもない。

 翌朝の10時ぴったりにチェックアウトする。前日言われた通り、やはり誰も座っていないカウンターにキーを置く。礼の一つも言いたいので、大声で呼びかける。しばらく様子を見るが、前日と違い何の反応も返ってこない。まあそういう宿なんだろうと変に納得する。カウンターの脇の床に猫が座ってこちらを見つめていることに気づいた。まあそういう宿なんだろう。

 こういう宿泊体験をしてすっかりこのオリエンタルホテルが気に入ったので、首都圏に来る際にはここを定宿にしようと思ったのだが、その後、ホームレス生活を迎えるなどして、首都圏方面に行く機会はなくなってしまった。風の噂では、オリエンタルホテルも数年前に老朽化のため建物自体を解体してしまったようだ。ホームタウンを失ったような一抹の寂しさも覚える。

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