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江戸の託児へ

今週は新居浜市男女共同参画審議会というのに参加してきた。20年ほどメンバーになっているのだが(自分で書いておいて20年以上も関わっているとは驚きである。)、この20年の間に2度の妊娠出産を経て今に至っている。そんなわけで託児利用回数もなかなかのものだったろうと思う。

当時はさまざまな会合に託児がつくのはまだ珍しく、参加不参加の返事をする前に託児があるか否かを聞くのが当たり前だった。おかげで「近藤さんに何かしてもらうときは託児の準備が先だ」なんて噂が立っていたそうだけれど。

そんなわけで会社は子連れ出勤か在宅ワークだったが、さまざまな会合は長女は生後5ヶ月ぐらいから、息子は3ヶ月ぐらいから託児のお世話になった。愛媛県が主催の会議はいつも同じ先生方が担当してくれるので親戚に預けるようで心強かった。時には子育て相談もしたし、親子で随分助けてもらった。

一度きりしか預かってもらわなかったがとても印象深い託児の先生方がいる。
それは内閣府の男女共同参画関連の会議で東京へ行った時のことだ。初めて託児。預けるのはいきなり大都会東京代々木。代々木なんて私でも知ってる地名なのだからそれはそれは最先端の場所に違いない。しかも内閣府関連の託児。先生はきっとドライで洒落た人たちに違いない、田舎の母子、笑われるんじゃなかろうかと緊張して「たのもー」と託児室のドアを開けると、宮崎アニメに出てきそうな個性的なベテラン女性たちが3人小走りでやってきた(と思う)。

娘を食べてしまいそうな勢いで「可愛い可愛い」を連発し「0歳児の赤ちゃんなので私たち3人で担当しますからね、大丈夫ですからね」と早口で言い「おばあちゃんたちが付いてるからしっかり働いてきてくださいね」と1番のベテランさんが銀歯を見せてにっこり私を追い出したと記憶している(あれは母親がぐずぐずしてると子が泣くから母親のためにやってくれたのだ、と後からわかった)。

あのときの私は初めて娘と長時間離れる辛さから今生の別れのような気がして切なかったし、娘はといえば泣く間もないままだったろう。母子揃って慌ただしく江戸の託児デビューをしたのである。


あの数日間、会議室の開いた窓から公園を散歩するシッターズ3人と娘であろう声が聞こえてきた。離れたところから子どもの声を聞くのは新鮮だった。あの時、娘は本格的な社会デビューをし、私は本格的な社会復帰をした。当時の私は女性は託児の有無だけではなく託児内容の良し悪しで仕事復帰する気持ちがこんなに変わるものなんだな、と思った。

さて、娘はもう高校生。託児があればあちこちへ大荷物を持って仕事に向かい、託児がなければ夫が子連れ出勤か在宅ワークか、と毎日夫婦であたふたしていた頃は遠い昔である。子育ては期間限定、と聞くけれど本当にその通りである。

では、また。ごきげんよう。