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日本は階級社会なのか。①

 前回書いた、市の「学校規模適正化案」説明会に行ってきました。
 「子ども達の豊かな成長のため」には子どもの人数が確保されるべきであり、バスで送り迎えが出来れば問題はないだろう、という主張に終始していました。
 過疎を食い止めるという発想はなく、むしろ過疎地にも子どもがいるから、どうにか体裁を整えるために案を作成しているように見受けられました。
 子どもの人数を確保するというのは、人数が少ないと配属できる教師の人数が限られるから、中学の教科を教えるにあたって専門教科でない教師をつけなければならない事態が起こる。だから、小中一貫にして人数を増やし、教師を多く配置できるようにすべき、という理論。
 なので、義務教育学校においては、教科担任制をとる。小学生も専門の先生の授業が受けられる、と胸を張っていた。でも。
 私は現行の小学校教育がとても良い、と思っているわけでは無いけれど、小さな子どもまで中学校と同じような学び方が果たして良いのか、という所に引っ掛かる。
 教員になるためには、中高の教員免許は統一ですが、小学校の教員免許は別。初等教育はそれほど特別な学びの時間なのではないか。
  勉強だけでなく、情操的な成長もクラス担任が見守る所に、日本の初等教育の良さがあるように思うのだ。
 そして、市の案を読んで、もう一つ驚いたのが、市内の隣接した小中学校に自分の足(中学生は自転車も)で通える場合は、越境して通っても良くなる点。
これは、市の中心部、境が近く、また学校が近くに建っている子どもにしか当てはまらない。
「選べる子どもと選べない子どもが出ますよね。その上、過疎地の子どもは長い時間掛けてバスに乗るんですよ」と言ったら、「小規模特別校には通えます」という返事だった。
 小規模特別校というのは、ふるさと教育などで特色がある小規模学校の特色を重んじ、小さいまま運営するやり方。小規模特別校が誕生した場合は、自分の学校ではなく、そちらが行きたければ行ける、という話。(保護者が送り迎え)
 なんで過疎地から別の過疎地の学校に通う選択肢があると思うのか分からん。しかも、それは中心部の子どもも選べる選択肢だ。
 この計画がますます過疎化を悪化させる要因になるだろうし、それが地域経済を悪化させるのは火を見るよりも明らか。
 不安は不安なまま残る説明会でした。
 我々の地区に義務教育学校が出来そうだ、という当事者感があるからこそ深く考えるようになったこの問題。
 結局は、国が学校規模を適正化するためなら、片道1時間程度の通学バスは認める、といい、義務教育学校という教育施設を作ることを認めるという、教育の規制緩和をしているからこういう話になっているのだと思う。
 本当に、学校の規模はクラス替えの出来る人数が集まっているのが子どもの健やかな成長にとって『適正』なのか。バスで1時間も揺られて通って、大勢の子どもと学ぶのが『健やか』なのか。
 中学校の生徒数が少なすぎて専門教科の教員を配置できない所が出てくるなら、そこを規制を壊して、子どもの学びを守るために全ての教科を網羅できるだけの教員を配置すれば良いとは考え無かったのか。
 地元の公立学校なのだから、同じように税金を払っている住民なのだから、通いやすい距離の校舎で学べるような仕組みを作る方が当たり前ではないのか。
 結局、国や自治体が子どもの学びを「コスト」と考えていて、なるべく合併し、教員の人数を抑制して運営した方がコスパが良いという話なのだろう。
 私は、いまこうして意見を述べるのが、我が子のためだ、と思われるのが少し怖い。自分のためでしょ、と言われそうだから。
 だけど、この流れをそのままにしていたら、日本はもっともっと格差が広がる。
 いま、私たちの住んでいる町には学習塾はない。受験のために学習塾に行きたければ、片道一時間近く自転車を漕ぐか、保護者が車で送り迎えするしかない。
 高校受験、大学受験をする子どもは、殆どの場合学習塾に行くのではないかと思うけれど、現時点でも、過疎地でそこまでの受験サポートを受けられている子どもは、市街地の子どもよりも少ないだろう。 
  生まれついた場所や環境が、子どもたちの進路を左右する。いま、その格差が酷くなっていると思う。
  格差が広がり続ける、それは、絶対に下剋上が起こらない社会が出来上がってしまうことだ。そんな社会の底で成長する子どもは、自分の未来に夢なんて見られないだろう。
②へ続く。
 
 
 
 
 
 


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