中央線百景「立川」
1976年の春。5人家族の奈良崎家は雑司ヶ谷から立川へ引っ越した。今はなき豊島区立高田小学校に入学したばかりの7歳のコロスケ少年は、引っ越しを告げられた当初、号泣して抗った。せっかくコツコツとコミュニティを築き上げた大事な小学生生活最初の1年間をなかったことにされ、見知らぬ街の見知らぬ小学校でゼロから友達100人作るなんて、できるわけがないと思ったからだ。
絶対に嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌! 手足をバタつかせ大声で叫び続ける。
もちろん、嫌でも行かざるを得ない。豊島区から立川市に引っ越すには理由があった。母方の祖父母が立川の錦町に住んでいたが、前年に祖父が亡くなり、年老いた祖母が1人暮らしになったからだ。心配した母は、できるだけそばにいたいということで、祖母が暮らす都営住宅のすぐ近くにマンションを借りたのだ。
雑司ヶ谷霊園と鬼子母神のすぐそばで、大好きな都電(荒川線)の駅がある住み慣れた我が家を離れ、中央線に乗って三多摩の郊外都市へ。ベトナム戦争が終結してから約1年、立川基地が返還されてから10年弱。そんな時代の立川の駅周辺は、なんだか殺伐としていて怖かった。
憂鬱な新生活だったが、嬉しいこともあった。それは自宅に風呂があること。雑司ヶ谷時代は風呂なしの平屋に住んでいたので、日々の入浴は銭湯だったのだ。また部屋の広さも2Kから3LDKと広くなり、弟と一緒ながら子供部屋が与えられたのも最高だった。
驚いたのは、家の目の前に小学校があること。そしてさらに驚いたのは、その小学校に付随する広大な校庭だ。高田小学校の校庭は、校庭というよりはラバー敷きの中庭といった趣。しかし立川七小の校庭は、野球とサッカーの試合が同時にできるくらいの広さがあった。また、窓はすべて二重窓。これはすぐ近くに立川飛行場(旧立川基地)があるためだ。
新2年生となり、転校初日を迎えた日。母親が張り切って俺に一張羅のグレーのジャケットを着せて登校させた。都心から来た転校生に興味津々の立川っ子たちは、そのこまっしゃくれた格好に目を丸くしてはやし立てた。このときのなんともいえない恥ずかしい気持ちは、半世紀近くたった今も忘れられない。
とはいえ7歳のガキんちょなんて、どこへ行っても大差などあろうはずもななく、あっという間に大勢の友達ができて、だだっ広い校庭や自然一杯の多摩川の河川敷や、横田基地の米兵や不良中高生がたむろする駅前の薄暗いゲームセンターで、目いっぱい遊び倒す日々が始まるのだった。