“推し“というコンテンツに対する持論。
今日は少し、推しに対する持論を語りたいと思う。
ここではあくまで私スーパー個人の独断と偏見モリモリな意見が語られるだけなので、なんの参考にもタメにもならない。
また、ここで語られる推しは「人間」に限定した話をしているのでご了承願いたい。無機物などの推しは今回は省く。
さて、まず私の推し持論の一つとして「推しにはなるべく近づきたくない。いつも私は有象無象、観客の中の一部でいい。」というのがある。
インターネットでいえば所謂ROM専みたいなもので、じっと息を潜めて推しを水中から眺めているようなスタンスが基本的に好きだ。ライブでも、遠く離れたステージにいる推しの輝きを一欠片でも持ち帰ることができれば満足。
とはいえ、“推しに特別視されたい“とか“私を見つけてほしい“と思ったことがないといえば嘘になる。昔は推しに自分を知ってもらいたくて仕方ない時期もあった。ファンレターを出す際には印象深いレターセットや言葉選びを心がけたし、イベントや握手会があれば飛んでいった。
でも、上述した持論でもあるように、今はそういう欲はない。ただ推しを見ることができたらそれでいいと思うようになった。ファンレターやイベントで自分を印象付けようとすることもなくなった。
何故そんな風に思うようになったのかといえば、「推し」というコンテンツは「近くにいたいもの」であっても「近づけるもの」ではないし(時折“お近づき“になっている人もいるが、それはもうコンテンツ消費とは違うものだと考えている)、「たった一人を見つけるため(特別視するため)」に存在しているものではないと感じたからである。
推しというコンテンツはあくまでも有象無象に消費されるためのもので、彼ら彼女らは「私を見つけるため」に商売をしているわけではない。私以外の、もっと多くの人間に消費されるために作られた偶像なのだ。
それに気づいたとき、私は“売り物“としての推しを愛することにした。推しや推しを支える運営が“売りたい推し”を有象無象の一部として愛する。それ以外は望まない。推しに必要以上に近づかない。
そうした線引きや一定のルールを設けることで、売り物の背景への深入りや感情の拗らせを避けたいのだ。人間、感情を拗らせるとロクなことにはならない。これは経験である。
だが、そんな持論を持つ私が生きる最近の世の中の「推し」なるコンテンツの中には「距離が近いこと」を売りにしているものも多い。それで商売が成り立ってる世界もあるし、別にそれが悪いとも思わないが、時折距離が近いが故に「売り物としての推し」と「人として普通に生きている推し」の境界線が曖昧になる感じがする。
それは自分が売り物であると認識して発してる言葉なのか?それとも、売り物ではない一人の人間として発している言葉なのか。それによって、受け取り方や考え方もだいぶ変わってくる。
コンテンツのイチ消費者としては、何処までが売り物としての言葉や行動なのかを見極めて消費しなければいけないなと思う。
また、売り物として、自分が大事なお金や時間を使って買う価値を推しに見いだせるのかについても注意深く観察していく必要性もあるだろう。一定の距離感で「推し」と「推しを推している自分」の両方を観察する、これは大事だ。
そして特に忘れてはいけないのは、商品である以上に推しは「魂を持つ人間」であるということ。推しを推したらしめる為に何十何万という人が生きて動いているということ。
推しを“商品“として愛していても、推しという一人の人間が生きているということを忘れてはならない。推しというコンテンツを提供する人間にもプライベートやプライバシーがあり、「生きてコンテンツを提供してくれる人間(推し)」には最大の敬意をはらわなければならない。
もし、酷い裏切りや偽善などが露呈した場合も、必要以上に騒がず、憤慨せず、「貴方のくれた時間はかけがえのないものでした。ありがとうございました。」と言えるようになるべく努めていたいと思う。なかなか難しいだろうが、例え嘘でもそう言って踏ん切りをつけたほうが自分のためになるのではないかなと思う。
と、長々と持論を語ってしまったが、これらの言葉すべてあまり意味をなさないものだから適当に忘れてほしい。あくまで何もかも私の個人意見である。
何故こんなことを書く運びになったかといえば某界隈で結構好きだった推しコンテンツがぶっちぎりで崩壊したからなのだが、そこにはあまり深く言及しない。(わかる人にはわかると思うが、敢えて言わないでいてくれ。)
まあなにはともあれ、最後のシメに言えることはたった一つだろう。
推しは、推せるうちに推せ。
というわけで、本日はそんな感じで。